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ロッテ、覇者の誤算 日韓またぐ膨張の副作用[日経新聞]
2015/9/28 3:30
日韓をまたぐ巨大企業グループ、ロッテがクーデターの「余震」に揺れている。創業者の次男、重光昭夫は混乱の終結を宣言したが、グループの頂点にある資産管理会社の半数の株を、解任された兄が握っている事実が判明。余震は新たなクーデターに発展する可能性がある。
■「隠れ日本企業」批判
9月17日、韓国国会の政務委員会は異様な熱気に包まれていた。国会議員が埋め尽くす議場に、韓国5位の財閥トップが姿を現した。
重光昭夫、60歳。ロッテグループを創業した重光武雄(92)の次男で、韓国ロッテグループ会長として食品やホテル、百貨店、建設、金融など80社を率いる。これまで兄の重光宏之(61)は日本のロッテグループを担当し、兄弟で日韓を分業する体制を続けてきた。
だが、一連のクーデターの結果、日本の持ち株会社、ロッテホールディングス(HD)の「昭夫体制」が確認され、父と兄が組んだ反乱は鎮圧された。
「もう(内紛劇は)終わりました。紛争が再び起きる可能性はありません」
それでも国会議員たちの批判は収まらない。「財閥批判」や「日本支配」について、質疑は5時間にも及んだ。それに対して、昭夫は「韓国ロッテは韓国企業」「(自分も)韓国の国籍を維持する」と繰り返したが、そうした言葉だけでは収まらない支配の構図がある。
今年7月に初めて公表されたロッテ全体の連結決算によると、6兆4700億円に達する連結売上高のうち、日本のロッテグループは3000億円程度にとどまる。韓国ロッテは、日本の20倍もの規模に成長したことになる。
ところが、資本関係では立場が逆転する。韓国ロッテグループの司令塔であるホテルロッテは、400を超えるグループ企業の「循環出資」の中心に位置するが、その株式の約99%は日本のロッテ各社が保有している。韓国のロッテグループが稼いだ利益のうち、年間数十億円規模の配当金が日本に流れていると見られる。グループ内で複雑に株式を持ち合う循環出資によって、「所有者」を見えにくくし、重光一族の持ち株が少なくても、独裁政権を維持する不透明な支配体制を敷いている。
昭夫は国会で、(1)循環出資の8割を今年10月までに解消する(2)ホテルロッテを来年上半期までに上場させ、日本側の持ち株比率を最終的に5割以下に抑える――と公約した。そしてホテルロッテの上場は武雄の承認を得ていると強調した。
だが5時間にわたる質疑の本当のクライマックスはそこではなかった。
■兄を超えられない現実
議員 「次の問題は光潤社の所有構造です。証人はさきほど38.8%を持っていると話していましたが、そうなれば、お兄様も同じ水準(の株)を持っているのではないですか?」
昭夫 「兄は50%持っています」
「光潤社」とは、日本のロッテHDの約3割の株式を保有する重光一族の資産管理会社だ。昭夫は日韓のグループ会社の多くの株式を保有するロッテHDの経営権を握ったことで、権力闘争に完勝したかに見える。だが、その上に光潤社と、やはりロッテHDの約3割の株を保有する「従業員持ち株会」という2つの大株主が名を連ねる。
これまで、光潤社の資本構成は厚いベールに包まれていたが、皮肉にも昭夫の口から、解任された宏之が揺るぎない地位を占めていることが明かされたわけだ。昭夫はいくら一族を味方に付けていっても、株式の過半数を抑えることができない。
光潤社での宏之の優位が明かになり、「戦場」の輪郭がはっきりしてきた。光潤社に匹敵する約3割のロッテHD株をもつ「従業員持ち株会」だ。ロッテHDの株主総会には、従業員持ち株会の理事長が全権を委任されて出席する。従業員がまず5人の理事を選出し、その互選で理事長を選んで株主総会に送り出す。もし、内紛が再発すれば、従業員1人の意思で、宏之が光潤社とあわせて6割の支持を得る可能性がある。
実は7月末のクーデターに合わせて、5人の理事は、宏之の意向に従い、昭夫ら6人の経営陣を退任させる決議に賛同し、それぞれ判をついていた。だがクーデター失敗後、理事長が人事異動になり、理事長職も退任。昭夫は8月17日の臨時株主総会で主導権を握った。
宏之は日本経済新聞の取材で、昭夫とロッテHDが理事長に辞任を強制したと主張している。「理事を監禁して印鑑を取り上げ、理事長を辞任させた」(宏之)。一方、ロッテHDは、理事長が自主的に辞表を提出したと反論している。だが、新たに理事長職に就いた人物については固く口を閉ざしたままだ。
いずれも自陣営に有利な証言をしている可能性はある。だが翻れば5人の理事や1人の理事長を翻意できれば、6割の株を確保できる重要な「オセロのコマ」であることは確かだ。宏之は、父・武雄のカリスマ性を背景に、かつて自らが率いた日本のロッテで影響力を行使できれば、株主総会の主導権を握る可能性はゼロではない。一方、そうした「工作」を防ぎたい昭夫は、ロッテグループ内で求心力と統制を強めて、付け入る隙を与えない。
その攻防戦が、今も本社ビルで繰り広げられている。
東京・初台にそびえるロッテ本社ビル。12階建てのガラス張りの建物に、ロッテHDをはじめ、菓子メーカーのロッテやロッテリア、ロッテアイスといったグループ各社が本社機能を置く。その2カ所ある従業員入り口には、それぞれ警備員が3人ずつ配置され、厳重なチェック体制が敷かれている。
東京・初台のロッテ本社の従業員入り口は厳戒態勢に
宏之が韓国から車イスに乗った創業者を伴って、本社ビルに乗り込んできたのは、7月27日のこと。武雄が署名した「昭夫解任」の文書を読み上げて、クーデターを起こした。
その翌日から、厳戒態勢が敷かれた。ロッテ本社は平日の昼間なのに、入り口のシャッターが下ろされたままだった。その中で、ロッテHDは取締役会を開き、前日の解任人事が無効であることを確認し、反乱に加わった創業者から代表権を剥奪することを決める。
日本のロッテグループで全役職を解かれている宏之は、本社ビルに立ち入ることが許されない。そこで、本社ビルに入居していた光潤社を、隣の民間のオフィスビルに引っ越して、対峙する形となっている。
クーデターの後、昭夫の対応は素早かった。ロッテHDはわずか3週間後に臨時株主総会を開催し、多数派工作などの動きを制した。そして、15分で「昭夫体制」が承認され、勝利を収める。
「準備する時間がなかった」。宏之側から漏れる言葉からは、時間さえあれば勝機がつかめるという自信がにじみ出る。本社隣のオフィスだけでなく、そこから2キロ南には自宅を構えている。また、ソウル市のロッテホテル34階にある武雄の執務室にも頻繁に訪れている。
「彼ら(持ち株会の理事たち)にも生活がある。言いたくても言えない状況だろう」。宏之の側近は、キャスチングボートを握る理事たちの心情に理解を示す。まるで「時がくれば我々につく」と確信しているかのようだ。その時、再び6兆円の企業グループは揺れることになる。
消えない火種は、日韓をまたいで複雑怪奇な出資関係を築きながら、1代で6兆円帝国を築いた創業者の「負の遺産」でもある。
■ガムと欲望
1922年、韓国の蔚山に生まれた武雄は、16歳で日本行きを決意。1947年に東京・荻窪でガムの製造を始める。物資不足の時代に飛ぶように売れ、1948年にロッテを設立、その2年後に新大久保駅近くに新宿工場を完成させ、本社ごと移転する。これが、大久保地区への韓国人の流入を加速させる起爆剤にもなった。
当時、ガム市場は、関西を拠点とするハリスが4割近い圧倒的なシェアを占めていた。それを猛追して、10年で逆転できたのは、絶妙なマーケティング戦略があったからだ。その象徴が1961年に発表された「1000万円懸賞」だった。応募が殺到する社会現象となり、翌年に景品表示法が制定されるきっかけとなる。この販促キャンペーンで、ロッテは一気にシェアトップに躍り出る。
消費者だけでなく、小売りや卸業者をも巻き込んでいった。「サービスカード」を箱に封入し、小売店がカードをためると、豪華な景品と交換した。「店や業者のかみさん連中がはまってしまい、他社の商品をどかしてロッテのガムを並べていた」(東海地区の元卸会社役員)
業者にとって、ロッテガムは「損しない商品」だった。そもそもガムは商品が小さく棚にも収まりやすいため、タバコ店や雑貨店、飲食店などの店先に置くことができる。しかも商品が劣化しにくく、返品リスクが少ない。「ロッテはガムで得た莫大な利益を、チョコレートやキャンディーなどの新事業につぎ込んで、明治と森永の2強に割って入った」(大手流通元幹部)
■日韓ロッテの地下水脈
1960年代、大きな転機が訪れる。1965年に日韓の国交正常化が実現、その2年後、武雄は母国に進出を果たすことになる。この時、日韓ロッテの資本関係の鍵を握る光潤社も設立されている。
進出から10年は、日韓のロッテに目立った違いは見られなかったが、1970年代後半に、その姿を大きく変貌させていく。78年末に石油化学事業に進出、翌79年には38階建ての韓国最大規模の高級ホテル「ホテルロッテ」をソウル市にオープンする。
韓国大統領だった朴正煕(パク・チョンヒ)が、国際的なホテルの建設を武雄に要請したと言われる。建設地は、日韓併合時代の象徴的建造物だった日窒コンチェルンの「半島ホテル」跡地だった。
10億ドルを超える莫大なコストがかかったが、そのカネは日本のロッテグループ各社が「投資」として流し込んでいった。その後、ホテルロッテが韓国ロッテグループの循環出資の中心になったことで、日本のロッテ各社が資本上、韓国ロッテの上に立つ構図となる。
■アイデンティティー喪失
「日本の高度経済成長で成功しているから、彼(武雄)は、韓国がどう発展するか見えていたんだよ。だから、日本で儲かったカネを思い切ってつぎ込んでいった」。1970年代から武雄の経営を近くで見てきた男は、そう振り返る。
しかし、成功を繰り返すほど、ロッテはアイデンティティーが見えにくい企業体となっていった。日韓をまたいだ複雑な出資関係もあって、その「国籍」を巡って両国から疑問の眼差しを向けられるようになる。
1970年代半ば、武雄は日本のビスケット市場に注目していた。ある日、流通業界の重鎮が、武雄から「会いたい」と声をかけられた。「普段はあまり表に出たがらないのに、珍しいな」。そうクビをかしげながら会うと、いきなり武雄は「明治が許せない」と怒り出す。英ビスケットの老舗ブランド「マクビティ」を明治製菓(現明治)が手がけ始めて、シェアトップだった森永製菓の製品を棚から追い出していた。
「オレがやり返してやる」。武雄の海外ブランドに対抗するという宣戦布告は、瞬く間に流通業界に広まっていった。1976年、埼玉県狭山市に巨大なビスケット工場が完成し、商品が出荷されると、今度は英国ブランドが棚から外されていった。
「しかし、その利益は韓国に流れていたことになる。本当に日本を思っての発言だったのか」(卸業者元役員)。だが、韓国から見れば、日本側が資本の力で支配し、配当金を吸い上げているように映る。複雑な資本構造や巧妙なマーケティング戦略に、国籍や国益に対する思惑まで絡み合うため、見る角度によって全く違う企業体が映し出される。
■運命の逆転
1980年代後半、創業者の息子2人が相次いで入社した。当初、武雄は兄を後継者として考えていた節がある。理系出身の宏之は、三菱商事を経てロッテグループに入り、米国現地法人に副社長として赴任した。その頃、昭夫は野村証券を経てロッテ商事に入社、名古屋にある支店の営業課長として得意先を駆け回っていた。
だが、1990年に昭夫が韓国ロッテに転じると、運命が大きく変わっていく。「韓国に骨を埋める覚悟で、必死に韓国語を勉強して、グループ内に溶け込もうとしていた」(取引先会長)。そうした姿が、韓国人の有力幹部からの支援を引き出していく。
「お兄ちゃん(宏之)はおとなしくて内向的で、弟(昭夫)は積極果敢な行動派」。ロッテのグループ会社役員はそう二人の性格を解説する。
日韓のロッテは、トップの性格がそのまま経営に反映されたかのように見える。日本のロッテグループは、ロッテHDを含めてすべて未上場企業。一方、韓国ロッテは2006年に主要企業の一角であるロッテショッピングを上場させ今ではグループ8社が公開企業だ。
■「昭夫体制」への序章
昭夫は米国で経営学修士号(MBA)を取得、野村証券ではロンドン勤務が長く、金融・資本市場に精通した。その能力は、21世紀になって発揮されていく。上場を果たし、そこで得た資金を、次々とM&A(企業の合併・買収)案件に注ぎこんでいった。2008年にはベルギーの高級チョコレートメーカー「ギリアン」を買収、2010年にはマレーシアの石油化学大手「タイタンケミカル」を傘下に入れた。ここ10年で40社近い買収案件をまとめている。
2011年、昭夫は韓国ロッテグループで副会長から会長に昇格し、武雄は「統括会長」となった。この時点で、「ロッテの後継者は昭夫」という認識がグループ内外に広まった。
「世界のロッテ」を目指し、一族を経営から排除してまでも、資本市場や金融の論理で企業改革を推し進める昭夫に、日韓の役員や幹部が集結している現実がある。グループ会社の役員は、「性格は宏之さんの方が温厚で好感が持てるが、それではロッテは前近代的な体制から抜け出せない。一時的に昭夫さんに全権を委ねて、重光家の資本やロッテの経営体制を整理してもらうしかない」と漏らす。
一方で宏之の焦りは募っていったようだ。韓国ロッテがベルギーのチョコ大手を傘下に入れた2年後、ロッテHDはポーランドのチョコメーカー最大手「ウェデル」を買収した。東南アジアでも、宏之率いる日本が、韓国ロッテの後を追うように進出するケースが目立ち、「日韓で同じ地域に進出しない」という不文律は崩れていく。2年前には宏之が韓国ロッテ製菓の株を買い増したことをきっかけに、兄弟で争奪戦を繰り広げる事態も起きた。こうした出来事が今回の騒動の背景にあると見る関係者は少なくない。
宏之の動きを抑え、日韓一体の世界戦略を作り上げる――。
昨年12月に宏之がグループ3社の取締役を解任され、翌1月にロッテHDの副会長も外された背景には、ロッテの世界戦略を統一させる狙いが込められている。
■バトンミス
だが、韓国中心の世界戦略を進める上で、重要な問題が解決されないまま時間が流れてしまった。それは、「後継者指名」にほかならない。武雄は兄弟を並列で競争させ、持ち株比率もほぼ均等に割り振ってきた。宏之を主要ポストから外してもなお、兄弟の決着がつかない背景には、武雄が作り上げた不安定な企業構造がある。
それが、自らが君臨し続ける仕組みだったのかもしれない。武雄は今年になっても1日2時間の執務を続け、重要案件は最終承認していたという。
だが、武雄の体力自体が限界が近づいている。1年半前に風呂場で転倒して骨折し、車イスを使うようになった。かつては奇数月に韓国、偶数月に日本に滞在して、各社の経営判断を下していたが、今ではソウル市のロッテホテル34階の執務室に籠もっている。そのため、日本の案件は決済のたびに、担当者がソウルに飛んでいる。
長年にわたって重光家と接してきた関係者は、「転倒事故で動けなくなって、心身ともに急速に衰えていった」と証言する。今年春に最後に会話をしたが、短い問いかけには答えられても、大きな戦略を判断できる状態ではないと感じたという。
「(権力の)バトンタッチは渡す人と、渡される人のスピードが合わないと成功しない。ロッテはタイミングを逸してしまった」
■「重光一族」対「日韓経営陣」
武雄は「宏之外し」のわずか半年後に、今度は「昭夫解任」を指示することになる。カリスマだった武雄の威を借りて、昭夫に冷遇されていた一族や元幹部が、その流れに呼応した。
「辞めなさい」。7月3日、ロッテホテルの執務室で、武雄はロッテHD社長の佃にそう切り出して、クーデターの序章が始まった。その時、応接室には、武雄の長女の辛英子(シン・ヨンジャ)や、実弟で食品会社サンサス(東京都港区)社長の重光宣浩ら親族が控えていたという。
ロッテ福祉財団理事長の辛英子は、主力企業のロッテショッピングで社長を務めていた。また、武雄のおいに当たる辛東仁(シン・ドンイン)は、グループ経営の中心である韓国ロッテグループ企画調整室の社長だった。しかし、両者とも昭夫が経営を掌握する過程で、これらの要職から退いている。
一方、クーデター後、日韓の経営陣は「昭夫派」に回った。株主総会の攻防の中で、韓国のグループ37社の経営トップが会議を開き、「昭夫の支持」を表明している。日韓ともに経営陣が昭夫体制を支持したことで、韓国の国会も「ロッテ財閥の実質支配者」として昭夫を証人に呼んでいる。
■日韓密約か
「もし、クーデターが成功した場合、ロッテは分裂することになる」。韓国ロッテの幹部はそう見ている。
「密約を結んでいるのではないか」。韓国ロッテ幹部は、宏之側に親族が結集している裏に、成功報酬という取引があると勘ぐっている。韓国語をほとんど話せない宏之が、還暦を過ぎた今から韓国のグループ会社を掌握できるとは考えにくい。そこで、クーデターが実現した場合、宏之がロッテHDのトップに返り咲く見返りに、一族が韓国のグループ会社を分割して経営するというシナリオだ。
グループ内部を固める昭夫だが、皮肉にも、自らが精通している「資本の論理」という壁に突き当たっている。このままでは、いつクーデターが再発するか分からない。
「争ったとはいえ、兄弟なのだから話し合いたい」。昭夫は、側近にそう漏らすようになった。だが、宏之や一族が結束して経営への復帰を目指す限り、それを阻止するために、人事権発動や厳戒態勢といった荒技を繰り出さなければならない。それは、日韓の狭間で複雑な資本と経営体制を築き、その上に組織を急成長させてきた副作用と言える。
こうした構造を作り上げた武雄は、かつての影響力を失いつつある。
来年、ガム製造70年目を迎える業界の巨人は、その絡み合った問題を解きほぐすため、気の遠くなるような作業と代償を突きつけられている。
=敬称略
(金田信一郎、宮住達朗、ソウル支局=加藤宏一)
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