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五木寛之氏(C)日刊ゲンダイ
五木寛之氏特別寄稿 「高度成長社会」から「高度成熟社会」へ
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/164317
2015年9月21日 日刊ゲンダイ
私たちの住むこの国の人口は、次第に減少しつつある。それがおだやかに落ち着くとき、日本の総人口は、7000万人くらいになっているだろうと言われている。それを気遣う声も少くない。
国民の数が少くなれば、当然、経済も縮小するだろう。少子化によって社会の活力が失われる可能性も考えられる。
しかし、人口減少イコール国家の衰退、というわけでもあるまい。文化の成熟というのは、必ずしも高度成長期にもたらされるものではない。あの輝かしいルネサンスは、人口減少期のヨーロッパにおこったという話を聞いて、なるほどと思ったものだった。
人間のフィジカルな最盛期は、ふつう30歳代から40歳あたりまでだろう。年を重ねるにつれて、誰しも少しずつ、体力、気力ともに衰えていく。
しかし、人の社会的立場や精神的成熟、また、実務能力や経験知などは、逆にその時期から大きくなってくるものである。
人口が増えていくということは、その国が若いということだ。成長期とは、言いかえれば未熟であることでもある。
戦後70年、この国はすでに若者ではない。どこまでも高度成長を続けていこうなどという青臭い夢からさめて、高度成熟社会への道を歩むことを構想すべきではあるまいか。
などと、偉そうな意見を吐く気もないが、成長より成熟というのは一つの立場としてありうるように思うのだ。
元気一杯の若者から、思慮分別に富む大人へ。
そして、その先は智恵と諦念にみちた老人へ。
それを衰退への道と考えるのは、まちがっている。世界は常に変化し、動きつつ存在するのだ。永遠の青春などというものが、あろうはずはない。
「少子・高齢化社会」
などと、よく言われる。正確には、
「少生・多死社会」
と考えるべきだろう。今後、団塊の世代700万人が雪崩を打って高齢化していく。それは、この国にとって未曽有の現実だ。高齢化とは、端的に言えば、多数の人びとが人生から退場していく社会ということである。死、という問題が、身のまわりにあふれ返る時代がやってくるのだ。
いまの私たちに、そのような明日を引き受ける覚悟はあるのか。私たちがめざすのは「高度成長社会」ではない。「高度成熟社会」こそが、これからめざすべき目標ではないだろうか。
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