http://www.asyura2.com/15/genpatu44/msg/303.html
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西尾「原発に対する私のほんとうの不信感は、この列島に多発する地震にあるわけではありません。原発に携わってきた人たちのあまりのひどさ、人間的劣悪さに愕然(がくぜん)としたから、再開すれば彼らにまた任せるわけですから、彼らに原発を任せるわけにはいかないと感じているのです。『彼ら』とは、いうまでもなく東電以下、東大の原子力学者、経産省の役人たちです。事故当時の東電の社長や副社長も、原子力安全委員会の委員長も、原子力保安院の幹部も、さらにいえば東芝や日立などの原発メーカーの“お偉いさん”たちも、ことごとく東大工学部原子力工学科の出身ですから、“東大原子力ムラ”の面々といいかえてもいいでしょう。彼らがいかにひどいか、その典型は当時の原子力安全委員会の斑目春樹(まだらめはるき)という委員長です。『原発を廃炉にしたとき、核廃棄物をどこにどのように始末するのか。受け手になる地方がありますか」と訊(き)かれたとき、彼はこう答えています。「お金ですよ。最後はお金です。地域対策費を2倍にすればいいんですよ」と、平然といってのけたのです。こんな男が原子力安全委員会の「長」だというのですから、とても彼らには国のエネルギー政策や国民の安全は任せられません。あの事故が起こると、東電の幹部たちはただオロオロするばかりで、なんの対策も立てられませんでした。原子力安全保安院の役人たちがなにも答えられない姿はテレビでいやというほど見せられました。私は、彼ら“原子力ムラ”に蟠踞(ばんきょ)する面々のあまりのひどさに愕然としたんです。」
(西尾幹二・川口マーン恵美『膨張するドイツの衝撃/日本は「ドイツ帝国」と中国で対決する』(ビジネス社・2015年)212〜213ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E8%86%A8%E5%BC%B5%E3%81%99%E3%82%8B%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E8%A1%9D%E6%92%83%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AF%E3%80%8C%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%80%8D%E3%81%A8%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%A7%E5%AF%BE%E6%B1%BA%E3%81%99%E3%82%8B-%E8%A5%BF%E5%B0%BE-%E5%B9%B9%E4%BA%8C/dp/4828418334/ref=cm_cr-mr-title
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(書評)西尾幹二・川口マーン恵美『膨張するドイツの衝撃/日本は「ドイツ帝国」と中国で対決する』(ビジネス社・2015年))
http://www.amazon.co.jp/%E8%86%A8%E5%BC%B5%E3%81%99%E3%82%8B%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E8%A1%9D%E6%92%83%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AF%E3%80%8C%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%80%8D%E3%81%A8%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%A7%E5%AF%BE%E6%B1%BA%E3%81%99%E3%82%8B-%E8%A5%BF%E5%B0%BE-%E5%B9%B9%E4%BA%8C/dp/4828418334/ref=cm_cr-mr-title
5つ星のうち 4.0
これでも日本は原発を続けるべきか?,
2015/11/9
私は、この書評を、ベルリンの壁が崩壊した11月9日の夜に書いて居る。毎年、この日が来ると思ふのは、あの「壁の崩壊」が、11月9日に起きたのは、偶然だったのだろうか?と言ふ事である。
11月9日は、第三帝国の時代であった1938年のその日、パリでドイツの外交官が射殺された事を切っ掛けに、「水晶の夜」と呼ばれるシナゴーグ襲撃がドイツ各地で発生した忌まわしい日である。
それから51年後の1989年11月9日、ベルリンの壁は「崩壊」した。
これは、本当に偶然だったのだろうか?
私は、偶然ではなかったのではないか?と考えて居る。
即ち、東條英機らの言はゆる「A級戦犯」を当時の皇太子の誕生日に処刑して、日本人にこの日を忘れさせまいとしたと思はれるアメリカが、ドイツ人に、「壁の崩壊」の日が来る度に、第三帝国時代の忌まわしい記憶の日である1938年11月9日(「水晶の夜」)を想起させる為、この日を選んで「壁の崩壊」を演出したか、或いは、当時、アメリカが進める中東和平政策に抵抗して居たイスラエルに対するメッセージとしてこの日に「壁の崩壊」を演出したのではなかったか?と、私は考えるのである。
ところで、この本についての感想を述べよう。
本書は、ドイツを良く知る二人の知識人(西尾幹二氏と川口マーン恵美さん)が行なった対談である。
大変、興味深い内容であったが、ドイツの過去の歴史について、お二人は、本質的な問題を避けて居ると私は感じた。
それは、第二次世界大戦と同時期にドイツが行なったとされる「罪」についての真実が何であったのか?と言ふ問題である。
私は、別にドイツびいきの人間ではない。又、お二人のドイツ批判には、当たって居る面も多々有ると思ふ。だが、第二次世界大戦は何故起きたのか?或いは、当時のドイツがしたとされる事の中に、実は、ドイツがして居なかった事が有ったのではないか?と言ふ最も本質的な問題を、お二人が避けて居るのは、残念であった。
ドイツ連邦共和国は民主主義国家ではない。そこには、日本に有る様な言論の自由は無い。日本の言論の自由もだいぶ危ないが、ドイツにおける言論規制の強さは、日本の比ではない。だから、ドイツと関はりの深いお二人が、そうした問題を自由に論じる事が出来無いのは理解出来るので、その事で、お二人を責めるのは酷であろう。
次に、原発については、以下の一文をお読み頂きたい。
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ここで食い止めなければ事故の規模はどのくらいになったのか、と私が最初に質問すると、吉田さんは「チェルノブイリの10倍です」と、答えた。
「福島第一には、六基の原子炉があります。ひとつの原子炉が暴走を始めたら、もうこれを制御する人間が近づくことはできません。そのために次々と原子炉が暴発して、当然、(10キロ南にある)福島第二原発にもいられなくなります。ここにも四基の原子炉がありますから、これもやられて十基の原子炉がすべて暴走を始めたでしょう。(想定される事態は)チェルノブイリ事故の10倍と見てもらえばいいと思います」
もちろんチェルノブイリは黒鉛炉で、福島は軽水炉だから原子炉の型が違う。しかし、十基の原子炉がすべて暴走する事態を想像したら、誰もが背筋が寒くなるだろう。(中略)
当然、東京にも住めなくなるわけで、事故の拡大を防げなかったら、日本の首都は「大阪」になっていたことになる。吉田さんのその言葉で、吉田さんを含め現場の人間がどういう被害規模を想定して闘ったのかが、私にはわかった。
のちに原子力安全委員会の斑目(まだらめ)春樹委員長(当時)は、筆者にこう答えている。
「あの時、もし事故の拡大を止められなかったら、福島第一と第二だけでなく、茨城にある東海第二発電所もやられますから、(被害規模は)吉田さんの言う“チェルノブイリの十倍”よりももっと大きくなったと思います。私は、日本は無事な北海道と西日本、そして汚染によって住めなくなった“東日本”の三つに“分割”されていた、と思います」
それは、日本が“三分割”されるか否かの闘いだったのである。
(門田隆将「日本を救った男『吉田昌郎』の遺言」(月刊Will(ウィル) 2013年 9月号30~39ページ )同誌同号33~34ページ)
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あの時、日本は、ここまで追ひ込まれて居たのである。
西尾幹二氏は脱原発派であるが、川口マーン恵美さんは、原発支持派である。この点については、西尾氏が正しく、川口さんは間違って居ると、私は思ふ。シェール・ガス生産が伸びようと伸びまいと、天然ガスは供給過剰であり、その価格は長期的下落が必至である。「二酸化炭素による地球温暖化」は、科学的根拠を欠いた原発支持派のプロパガンダに過ぎない。
それでも、日本は原発を続けるべきなのだろうか?
最後に、尊敬するお二人とこの書評の読者の為に、第二次大戦後、最初にドイツ国歌が演奏された際、その場に居合はせた日本人の回想を紹介しておく。
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今から47年前のことです。当時、厚生省の社会保険局庶務課長だった私は、国連の招きで社会保障の勉強のため半年間、ロンドンに滞在する機会を得たんです。あちらに着いて草々、新聞でフルトヴェングラーとベルリン・フィルの来英を知り、一緒に来ていた同僚とふたり、さっそく切符を購入しました。決して音楽通じゃない私でもその名前は知っていましたからね。お金がなかったから買ったのは桟敷席。当時10シリングほどだったでしょうか。
1953年4月22日、ロイヤル・アルバートホールは満席でした。日本人は我々だけだったでしょう。舞台に姿を現したフルトヴェングラーの顔は異常に青白く、どこか悪いのだろうか、と思ったのを今も覚えています。それから2年もせずに亡くなったのですから、この頃からすでに体を悪くしていたんでしょうね。
欧米では外来演奏家の場合、まずホストカントリーの国歌、続けて自国の国歌を演奏し、聴衆はそれを起立して聴くのが慣例ですが、いまだ反独感情の根強く残っていたこの時代、ドイツ国家の演奏は禁じられていました。ですから、英国国歌の演奏が終わると聴衆はみな着席し、この日のプログラムの第1曲目を心待ちにしたのです。ところが、フルトヴェングラーの指揮一閃、続いてベルリン・フィルが奏でたのは、「ドイッチュランド・ユーバー・アレス(世界に冠たるドイツ)」でした。いまだ戦禍のあとも生々しい旧敵国に乗り込んでのこの所業、イギリスの聴衆がどんな反応を示すか--。かたずをのんで見守る私の目の前で繰り広げられたのは信じられない光景でした。ホールを埋めた千人以上の聴衆が次々と起立し、ドイツ国歌に敬意を表したのです。私たちも、いつのまにか彼等にならっていました。フルトヴェングラーの毅然たる姿勢、気迫に圧倒されてしまったんです。
その後、フルトヴェングラーは何ごともなかったかのように、バッハ「組曲第2番」、ラヴェル「高雅で感傷的なワルツ」、シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、ブラームス「交響曲第2番」のプログラムを予定通り演奏しました。ですが、どんな曲よりも強烈な印象を残したのは、あのドイツ国歌です。
これはフルトヴェングラーであればこそなしえたことで、他の演奏家だったら、暴動になっていたかもしれません。実際、イギリスの新聞にはフルトヴェングラーの行為、さらにそれを是とした聴衆を批判する論文も掲載されました。
後にわかったことですが、これが戦後初のドイツ国歌公式演奏だったそうです。クラシック好きの友人は「音楽のわからんお前にだけは聞かせたくなかった」と随分くやしがっていましたね。
(伊部英男(いべ・ひでお/1921年生まれ。財団法人年金総合研究センター理事長))グラモフォン・ジャパン(新潮社・2009年9月号))
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同じ敗戦国の人間として、私は、お二人は、もう少し、ドイツと言ふ国を肯定的に語っても良かったのではないか、と言ふ気がして居る。
(西岡昌紀・内科医/ベルリンの壁が崩壊した日(11月9日)に)
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