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[科学技術 ニッポンの歩み]〈4〉原発の安全 軽視し惨劇 福島第1メルトダウン 設備の品質におごり
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投稿者 あっしら 日時 2015 年 11 月 10 日 03:51:06: Mo7ApAlflbQ6s
 


[科学技術 ニッポンの歩み]
〈4〉原発の安全 軽視し惨劇
福島第1メルトダウン 設備の品質におごり

 日本は海外から原子力技術を学び急ピッチで国産化を推し進め、原子炉輸出を計画するまでになった。モノづくりに限れば欧米先進国に肩を並べたといえるのかもしれない。しかし、原子力安全への取り組みでは世界に劣後し、自ら取り残される道を歩んだ。その帰結が2011年に起きた東京電力福島第1原子力発電所の炉心溶融(メルトダウン)事故だった。

 1998年から2000年まで国の原子力安全委員会の委員長を務めた佐藤一男は、少壮の研究者のころの腹立ちを今も記憶する。


体系的戦略なく

 1980年ころ、79年の米スリーマイル島原発の事故を経て、原子力安全に関する世界の考え方は変わりつつあった。スリーマイルまでは「安全を軽くみる傾向は日本だけではなかった」という。しかし現実に過酷事故が起きたのを契機に欧米は「どこまで安全なら社会に受け入れられるのか」「そのために必要な戦略は何か」と体系的に安全を考えるようになった。

 日本は相変わらず「対策が行き当たりばったり。安全について筋道をたてて考える人はいなかった」と佐藤は話す。過酷事故も含め安全を真正面から論じる本を「村八分になる覚悟」で出版した。

 日本の原発の歴史を振り返ると、海外が過酷事故で揺れた80〜90年代が絶好調にみえる。原発の設備利用率は80%を超え「チェルノブイリのような事故は日本では起きない」と原子力関係者は口にした。

 その陰で安全を高める努力がおろそかになった。

 スリーマイル島、チェルノブイリという2度の過酷事故を受け、米国では原発をシステムとしてとらえ総合的な安全性を測る試み(確率論的安全性評価)が進んだ。日本でも議論したが、事故リスクを具体的に示すことに電力業界などが懸念を示し、安全規制に取り入れられることはなかった。

 国際原子力機関(IAEA)は、過酷事故に備えて周辺住民の避難計画づくりを提言した。米原子力規制委員会(NRC)は避難計画を原発稼働の前提条件にするが、日本は見送った。ある関係者によると、当時、安全規制で主導的な学者が「放射性物質を外部に出す大事故は決して起こさない。そのために設備の品質などを徹底的に高めると話していた」という。


世界の警鐘無視

 同様のことは2000年代にも繰り返される。01年の米同時テロの後、米政府は全電源喪失への対応を原子力事業者に求めた。非常用発電機が同時に破壊される事態を想定したのだ。米国の動きをみて他国も対応したが、日本は規制当局が米国の動向を知りながらも、策を講じなかった。

 高い設備利用率を背景に「原発を動かせば動かすほどもうかるという風潮が強かった」と東京理科大学教授の橘川武郎は指摘する。それがおごりにつながったのかもしれない。

 90年代には電力業界を揺るがす変化も生じていた。自由化への圧力だ。日本の電力料金は海外より高いと指摘され、地域独占の見直しが段階的に始まった。その一方で、電力需要の伸びが鈍化し始める。

 電力会社の首脳が「合理化」「競争力」を口にするようになった。例えば95年の東電の社内報。「新年のごあいさつ」で、社長(当時)の荒木浩は「コストダウンというテーマは『終わり無き挑戦課題』だ」と、設備投資の一段の削減方針を示している。

 電力各社が共同で取り組む研究も急速に減少した。「電力共研」と呼ばれる仕組みで、軽水炉の安全が研究の大きな柱だった。軽水炉は「完成した技術」として導入され「国費で取り組む大学では安全研究がしにくかった。電力共研が安全研究を支えた面があった」と、前原子力委員会委員長代理(長崎大学教授)の鈴木達次郎は指摘する。

 95年に起きた高速増殖炉原型炉「もんじゅ」の事故は原子力への国民の不信感を高めた。もんじゅを管理する国の動力炉・核燃料開発事業団(当時)は社会から強い批判を浴び組織の解体に至る。2000年代に入ると事故や不祥事は電力業界でも多発、批判の矢面にたつ。

 この時期に「電力業界と規制当局の力関係も変化した」との見方がある。業界にはかつては規制当局を虜(とりこ)にする力があったが、世論を背景に原子力安全・保安院の立場が相対的に強まった。それは安全の向上にはつながらず、むしろ「能力無き規制」を生んだ。

 「箸の上げ下げまでチェック」され「審査書類の山を築く」と、当時の電力関係者は嘆いていた。

 米欧諸国の原発への回帰(原子力ルネサンス)がいわれた2000年代半ば、圧力容器をつくる日本製鋼所の能力が世界の原発建設のペースを決めるとまでいわれた。「メード・イン・ジャパン」の設備は品質が高く、その面で日本は「原子力先進国」といえた。

 比較して、巨大システムの安全を考える面での未熟さは深刻だ。

 福島事故を契機に、国は原子力規制委員会を設けるなど、安全規制を抜本的に変えた。世界の常識から取り残された「ガラパゴス化」から抜け出せるのか。真価が問われるのはこれからだ。

(敬称略)

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独善だった日本の規制 審査の仕組み、機能不全 元原子力安全委委員長 班目春樹氏

 日本の原子力安全規制はどこで誤ったのか。福島第1原発事故の際に原子力安全委員会(当時)の委員長を務めていた班目春樹氏に聞いた。

 ――どこが分岐点だったのでしょうか。

 「(1978年に)原子力委員会から原子力安全委員会を独立させた時点でボタンを掛け違えた。事業者の申請を受けて所管官庁が審査し、さらに安全委が2次審査をする仕組みにした。だが2度やるから日本は安全だというのは間違いだ。国際原子力機関(IAEA)が加盟国の安全規制や法整備を評価する目的で送る調査団が2007年にやってきたが、そのとき説明に困った」

 「審査にあたる専門家が2回の審査で重複していたり、2次審査で安全委に説明するのが原子力の素人のお役人だったり、形だけだ。それくらいなら一堂に専門家を集めてやった方がいい。こんなことをやっていたのは日本くらいで世界の笑いものだった」

 ――聞こえはよいが、実質はなかったと。

 「そうだ。2番目の間違いは2001年。省庁再編で原子力安全・保安院ができ安全委の立場がますます弱くなった。保安院は安全委が権力を持っていたかのように話すが、実態は違う。『がたがた言うなら、もう報告しませんよ』と役人に脅されたことがある。法律上は安全委が規制官庁にものを言う権限があった。だが、具体的な情報をよこさなければ事実上、何も言えない」

 ――煙たがられ、神棚に祭り上げられていた。

 「そう。いざという時に責任を押しつけ、自分たちは逃げるつもりだったと私は思っている」

 ――チェルノブイリ原発事故後の安全規制の対応はどうでしたか。

 「スリーマイル島、チェルノブイリと事故が続いて、過酷事故を考えるのが世界の趨勢だったが、日本は無視し続けた」

 ――過酷事故に備え格納容器を守る目的でベントを設置しました。

 「モノに対する対応は確かに早い。しかし深層防護の第3層(重大事故を起こさない段階)までの対策しか、日本は考えなかった。IAEAも96年に第4層以降(重大事故の影響を最小限に抑える段階)の想定を提言したが、日本は無視した。今も規制委は住民の避難計画に関与することに及び腰だ」

 ――原子力安全に責任をもつ委員会に最も求められる能力は何でしょうか。

 「大所高所から安全を考えることだ。過去の安全委の状況をみると原発でトラブルや不祥事が起きると、その対応に忙殺された。また、施設の設備変更のたぐいの審査にきゅうきゅうとしていた。それではいけなかった。幅広く俯瞰(ふかん)的にみて安全に重要な抜けがないか考えるのが、最も重要な任務だ」

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福島第1原発事故 全電源喪失、対応できず 深刻さ、チェルノブイリに匹敵

 2011年3月11日の東日本大震災の大きな揺れにより、東京電力の福島第1原発は送電線が壊れて、外部から電気が来なくなった。さらに津波によって非常用発電機や電源盤が水没、すべての電源を失った。

 運転中だった1〜3号機は緊急停止に成功したものの、停電のため核燃料の冷却を継続できなかった。過熱した燃料は溶け、圧力容器の底から格納容器下部に落下したとみられる。水蒸気と燃料を覆う金属管の化学反応で大量の水素が発生して爆発、1、3号機の建物上部を吹き飛ばした。3号機から流れ込んだ水素で4号機でも爆発が起きた。

 原子炉からの放射性物質の雲は広範囲に広がった。原発周辺の住民10万人以上が避難を余儀なくされ避難途上で高齢者らが命を落とした。

 国際原子力事象評価尺度(INES)では、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故で同じ「レベル7」の深刻な事故となった。

 編集委員 滝順一が担当しました。

[日経新聞11月8日朝刊P.11]

 

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コメント
 
1. 2015年11月10日 05:22:35 : q8fwqjDA1A


      アトムくん ウランちゃん 続いて プルト君 もんじゅくん 

   ヒローから お笑い を通り越して 破滅の道へ  主人公は 下痢ゾウ君


2. 2015年11月10日 17:19:24 : gjSWR86AiA
原発推進に尽力したイルミナティ・ナカソネとポダムについても詳しく書いて欲しい。

あと、経営危機の東芝を、原発事業への進出で経営再建しようとした土光敏夫についても。


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