http://www.asyura2.com/15/genpatu42/msg/680.html
Tweet |
[大機小機]原発とホーリズム
4月14日、福井地裁が関西電力高浜原子力発電所3、4号機の再稼働を差し止める仮処分を出した。原子力規制委員会は事故リスクは小さいとし、裁判所は大きいという。事実誤認はあるかもしれないが、ことの本質はそこにはない。リスクの確率計算で仮に規制委と合意したとしても、裁判所の判断は変わらないのではないか。
規制委と裁判所の判断の違いは、科学を巡る議論で繰り返される「要素還元論」と「全体論(ホーリズム)」との対立の新バージョンだからだ。
原発事故のリスクを考えるときに、リスクにさらされるのは原発が立地する地域社会だ。この地域社会を、そこに住む「個人」という要素の単純合計と考えるのが要素還元論だ。科学界の主流がとる立場である。
一方のホーリズムは、要素(個人)が集まってできた全体(地域社会)は要素の合計を超えた価値(例えば文化や歴史)を持つとみる。非科学的とされがちだが、我々は社会についての意思決定に際しホーリズム的判断をすることが多い。
交通事故で個人が死ぬのは取り返しのつかない悲劇だが、原発事故で地域社会が丸ごと居住不能になることは、なにかしら個人の死を超えた、もっと大きな損失だと感じる人も多いだろう。
このホーリズム的感性からは、確率は小さくても原発事故の損害を巨大なものと見積もる判断が出てくる。原発事故で東京が壊滅するシミュレーション小説「東京ブラックアウト」では日本の国柄や国際社会での地位まで劣化していく様子が描かれるが、そこで失われるものは個人の損失の単純合計を超えたものだ。
もっと極端な例を考えると論点がはっきりする。夢の新技術が実用化され、それを使えば電気代は永久にタダだが、10万年に1回の確率で地球が消滅するリスクを生むとする。そのような技術を使うべきだろうか。
要素還元主義で判断すれば事故の確率は小さいから使うべきだとなる。だが事故=人類絶滅なら確率がいくら小さくても躊躇(ちゅうちょ)する人は多いのではないか。人類存続は個人の生死の合計を超えた価値を持つと我々は感じるからだ。
結局、政治的な意思決定を要素還元論で考えるべきかホーリズムで考えるべきかという対立に、我々は直面しているのである。
(風都)
[日経新聞4月23日朝刊P.17]
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > 原発・フッ素42掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。