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「福島では高齢者を含む多くの人が基本的に慎重で用心深い:toriiyoshiki氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/17159.html
2015/4/20 晴耕雨読
https://twitter.com/toriiyoshiki
昨夜放送したETV特集について@hirakawah先生や@sakinotkさんがマツタケの件についてご懸念を表明されている。
お二人が心配なさっている点はよく解るのだが、現実は想像以上に進んでいる。
福島の人たちは高齢者であっても放射線についてよく勉強なさっているし、基本的に慎重だ。
2012年の時点で南相馬を中心とした地域を取材していたが、ぼくの知る限り、どの家庭でも山菜、きのこはもちろん地元の農産物は自分たち(高齢者)は食べても孫には食べさせなかった。
農協などで放射線の検査体制が整い、食べる前にまず計ってみるという姿勢が普通のものになっていた。
80代のおばあちゃんが自分が畑で作ったものを孫に食べさせたくて、農協に持ち込んで計ってもらう姿を撮影したのが2012年の夏。
当時は、政府の基準(100Bq/kg)以下でもNDでなければ孫には食べさせない、あるいは自分でも食べないという人が多かった。
きのこ名人の爺さんたちも、マツタケなどをとっていたが眺めるだけで棄てていた。
番組で紹介した相談会に出ていた高齢者の一人(区長)が、自分たちが食べないマツタケを原子力研究開発機構の研究者が喜んで持って帰ったと呆れていたのを思い出す。
番組の中でマツタケについて質問した「名人」のお爺さんも当時から知っている方(いまも避難生活を送っている)だが、実際に取ってきては計って棄てていたわけだ。
それが勉強をするなかで1kg3000bqでも10gなら大丈夫ではないかと思い至ったということである。
つまり、福島では高齢者を含む多くの人が(全員とまでは言わないが)基本的に慎重で用心深い。
それが当然の習いになっているわけだ。
「10g発言」は、地元産の食材は原則として排除→計ってから食べるかどうかを決める→摂取量を計算して判断する、という思考の進化(深化)の結果である。
質問をされた安斎さんたち専門家が「科学的な態度」だと喜んでいたのは、闇雲な不安のなかから立ち上がって、実測値をもとに自分で判断し、前に進み始めた福島の人たち(薪への不安に怯えていた川俣の女性もその一人)の「成長」を実感したからである。
ぼくが番組の後半にこうしたシーンを持ってきたのも同じ理由だ。
放射能への闇雲な不安に怯え、福島に人が住んではいけないと考え、安斎さんたちを「御用学者」呼ばわりする人たち(平井先生や@sakinotk さんのことではない)の想像をはるかに超えた地点を福島の人たちは歩き始めている。
福島では「事態を侮らず、過度に恐れず、理性的に怖がる」人たちが確実に増えている。
そして、そういう人たちが国や東電に批判的な目を向けている。
あの相談会に出ていた人たちの多くが先週、特定避難勧奨地点の指定解除を巡って国を訴えた。
原告団長で保守そのものの区長が「原発は要らない」という。
それこそが「福島のリアリズム」なのだ。
ぼくは今後ともこうした福島の人たちに寄り添いながら番組を作り続けていくつもりである。
定年退職を9ヶ月後に控えたぼくにとっても「終りなき戦い」が続く。
昨夜のETV特集の主人公である安斎育郎さんは、反原発の立場を貫きながら、福島原発事故が起きると専門家としての「贖罪」意識から福島に通い詰めて住民を支え続けている。
ぼくは取材をするなかで、この人の話をじっくり聞いてみたいと思うようになった。
ETV特集は福島の現実を伝えるドキュメンタリーとして作るつもりだったので、どうしても行動中心の構成にならざるを得ない。
じっくり安斎さんのお話をうかがうために「こころの時代」という別番組を企画した。
これもEテレの地味な番組だが、ぼくはすでに3本作っていて、けっこう愛着もある。
ETV特集の制作の合間を縫って、あらためて安斎さんにインタビューした。
当初は希望を抱いていた原子力に絶望していく過程、巨大な技術開発が進められるときの科学者としての姿勢、「専門家」としての責任、住民と接するにあたって大切にしていること…じっくり語っていただいた。
その「こころの時代」の編集がすでに大詰めを迎えている。
今日はこれからプロデューサーを迎えて二度目の試写。
プロデューサーは前世紀の終わり、ぼくが北海道に居続けを決め込んでいた時代に新人だった男だから、きっとやりにくいだろうなとちょっと同情しているw「こころの時代」の放送は6月頃になるだろう。
安斎育郎ファンのみなさんはぜひ見てくださいね。
あれ?…いま気がついたら平川先生を「平井」と誤記したままtweetしていた。
大変失礼を致しました。
放射線防護学者・安斎育郎さんたちの福島での活動を追いながら、ぼくが最も共感するのは専門家としての見解を決して住民に押し付けようとしないことだ。
専門家として意見(見立て)は言うが、決めるのはあくまで住民自身。
結論が自分たちの「科学的判断」と違っていても、それはそれで徹底的に支える。
そこが、自分たちは「科学的」なのに理解できない住民が愚かだと言わんばかりの凡百の「専門家」(放射線「安全派」であろうと「危険派」であろうと…)と決定的に違うところだ。
専門家は住民のフォローに徹するべきだという一点において、安斎さんたちのスタンスは全く揺るぎがない。
ぼくがよく知る方で言えば、そこが共通するのは東大の児玉龍彦さん。
「私は心配ないと思ったとしても、住民が不安で避難したいならそれを全力で支えたいと思っています」と明言されていた。
住民が専門家に訊きたがるのは「年間何mSv以下なら安全なのか」あるいは「何mSv以上は危険なのか」ということ。
そこが訊きたい気持ちはとてもよく解る。
しかし、安斎さんも児玉さんも「それは言えません、線引きはできません」としかおっしゃらない。
「できるだけ下げましょう」と、そこは共通。
唯一聞いたことがあるのは、児玉さんが南相馬の住民との対話のなかで「子どもに年間20mSvは高すぎます」とおっしゃったとき。
児玉さんは「年間1mSv以下を目標に除染すべき」という見解だが、それは1mSv以上は危険だからではなく、事故後に基準を変えたら住民の信頼を失なってしまうから。
一方で、児玉さんは、いまの線量で「これから生まれてくる子どもたちに遺伝的影響を及ぼす可能性は全く無視できるほど小さいので、心配する必要はありません」と明言された。
その見解は安斎さんとも一致している。
安斎先生と児玉先生、お二人とも「現状に明示的な危険はないにしても、少しでも住民のリスクを減らすよう今後とも除染を進めるべく努力しましょう」というスタンスは一致している。
…というか、ぼくには、福島の人たちのことを真面目に考えれば、それ以外のスタンスはあり得ないと思うのだが。
「福島に人が住んではいけない」と主張することは、その無責任さにおいて「福島に明白な危険は確認されていないので住民は帰還すべき」と主張するのと(裏表とはいえ)同質である。
番組のなかで安斎さんがいうように「人間の認識は一方向に流されやすい」…自分の眼力を鍛えることが必要な時代である。
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