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原発を再開する前の準備(7) 事故で誰も死んでいないじゃないか?
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2015年04月04日 武田邦彦 (中部大学)
原発事故の後、おそらくは「何が何でも、原発を再開したい」か、あるいは「日本に原発がなくなると核抑止力を失う」という理由かで、「事故が起こったけれど、誰も死んでないじゃないか」という野蛮な意見が横行している。
一流国日本に住んでいて、まるで中国ならあり得る(失礼だが)ような意見を聞くとは思わなかった。食品にしても、工業製品にしても、「死ななければ良い」などという製品や工場の運転はあり得るはずがないからだ。
発がん物質やがんになるような排気ガスを出すのは絶対に許されないし、ぜん息や腹痛の原因になるものも社会的悪として厳しく糾弾される。まさに相手が強力(原発)だから迎合し、相手が弱い(個人の食品会社)だから攻撃するということだろう。
ところで、「安全か危険か」というのは、「科学と社会的合意と個人の意思」の三つで決まっている。
1) まず科学が「摂取と損害」の関係を決める(被曝なら1年1ミリで「がん+遺伝」が8000人、10ミリなら8万人)。
2) それに応じて「利益=損失」の合意点を決める(正当化の原理、日本では1年1ミリ、ドイツでは1年0.1ミリ)
3) 個人の意思で行うこと(職業的、あるいは趣味など)と、他人から被害を受ける(一般人、原発など)ことの差で、特例を設ける。
たとえば、交通事故は利益が膨大だから、1年5000人まで認められている状態(道路の改良など)で、食品などは食中毒が年間100件ぐらいで押さえられている。危険性がゼロということはないので、利益との関係で社会的合意が行われる。
原発の場合、厳しいのは国民にとって電気を作るのは他の方法があり、現在では、「一般の国民は原発の運転を歓迎していない」と言うことがやや厳しい規制になっている。
ちなみに、人間が「危険だな」と感じるのは、「自分が自分の意思でやる行為」に対して、「他人のやることで被害を受ける」のは100倍ぐらいとされている。
また核抑止力という「利益」が大きいと考える人は、はっきりとそう言うべきだ。
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