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嘘だと思うなら見てくれ。
これが、『日本国憲法』施行後も実施された人体実験です。
日本国は、国民を人体実験に使っても裁かれない国だったのです。
■◆■2010年8月6日NHK放送NHKスペシャル『封印された原爆報告書』■◆■
21:30
「17000人の子供たち〜原爆の殺傷能力を確かめるためのサンプルとされた」
30:22
「被曝者を使ったある実験でした。〜を注射し、その反応を調べていました。〜治療とは関係のない検査を毎日行っていました。」
■文字起こし■
【凡例】
字−文字画像を任意にて転載
ナ−ナレーターの言葉の文字起こし
声−声優の言葉の文字起こし
斜体の名−アメリカ人
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0:00
字:第37回放送文化基金賞 本賞受賞作品 NHKスペシャル
−−−−−−−−−−
00:05
ナ:アメリカ国立公文書館の映像資料室。ここに、終戦直後の日本で撮影されたフィルムが残されていました。映し出されたのは、原子爆弾が投下され、焼け野原となった広島。
00:56
字:昭和20年
ナ:被害の実態調査に当たる日本の医師と科学者たちです。広島と長崎に送り込まれた調査団は、合わせて1300人。被曝地でしか得ることのできない原爆の詳細なデータを集めているのです。
−−−−−−−−−−
01:00
字:アメリカ国立公文書館
ナ:日本の調査団がまとめた膨大な記録が、GHQの内部文書を集めた書庫の中に眠っていました。
01:10
アメリカ国立公文書館員:《英語》
字:これが日本の科学者が作成した181冊の原爆報告書です。
01:20
ナ:報告書は181冊。合わせて1万ページに及びます。今回私たちは初めて、その全てを入手しました。そこに記されていたのは、被爆国日本自らが調べ上げた生々しい被害の実態です。学校にいた子供たちがどこでどのようになく亡くなったのか、教室の見取り図に丸印で描き込まれています。放射線が人間の臓器をどう蝕んでいくのか200人を超す被曝者の遺体を解剖した記録もありました。調査の対象となった被曝者は、2万人に上りました。治療はほとんど行われず、原爆が人体に与える影響を徹底的に調べていたのです。
02:35
調査された被曝者:「立て」言ったら「はい」、「向こう向け」−「はい」、「おまえ、モルモットじゃ」言うて、言われたような気になりました。
02:47
ナ:報告書は全て日本人の手で英語に翻訳されていました。被害の実態を調べた貴重な記録は、原爆を落とした国アメリカへと渡されていたのです。
03:07
ナ:私たちは、原爆調査を知る数少ない関係者を日本とアメリカで取材しました。浮かび上がってきたのは、被曝者との救済よりもアメリカとの関係を優先させていた日本の姿です。
03:31
元アメリカ調査団医師:《英語》
字:日本の報告書の内容はまさにアメリカが望んでいたものでした。
03:39
元陸軍軍位少佐:早く持って行ったほうが、心証がいいだろうと、原爆のことは、かなり有力なカードであったんでしょうね。
字:はやく持っていった方が、心証がいいだろうと、原爆のことは、かなり有力なカードだった。
03:54
ナ:唯一の被曝国として原爆の悲惨さを世界に訴えてきた日本。その一方で被曝者のために活かされることのなかった181冊の報告書。被曝から65年、封印されていた原爆報告書は何を語るのか、今明らかになる原爆踏査の実態です。
−−−−−−−−−−
04:40
字:(タイトル)封印された原爆報告書
04:50
ナ:65年前、世界で初めて原子爆弾が投下された広島。あの日、町は一瞬にして焼野原となりました。爆心地から4km離れた海沿いに、戦火を逃れ、当時のまま残る建物があります。旧陸軍病院宇品分院。後に181冊にまとめられる原爆調査の最初の調査がここで行われました。
05:43
ナ:収容された被曝者は、2ヶ月間で延べ6千人に上りました。皆、むしろのような布団に寝かされていたと言います。
05:13
ナ:大本営の下、宇品での調査を指揮したのは、陸軍省医務局です。原爆投下からわずか2日後の8月8日、広島調査団を派遣し、敵国アメリカが使った新型爆弾の調査に乗り出していました。
調査の結果は1冊の報告書にまとめられました。タイトルは、『原子爆弾による広島戦災医学的調査報告』。被曝した人がどのように亡くなっていくのか、放射線が体を蝕んでいく様子が詳細なデータと共に記録されています。
調査を受けた被曝者の1人が生きていました。沖田博さん89歳です。宇品の病院で生死の堺を彷徨いました。
当時、広島の部隊にいた沖田さんは、爆心地からおよそ1qの兵舎に居て被曝。突然体に異変が表れ、宇品に運ばれてきました。病院に入っても治療はほとんど受けられず、毎日検査ばかりが続いたと言います。
08:23
沖田さん:「いつまで命があるかなぁ」、確かめるためだと思います。次々と死んでいくからね。「こいつはいつまでいきるんかなぁ」という、それを確認するためだと思います。
08:43
ナ:報告書には、沖田さんの記録もありました。当時の危険な様子が克明に記されています。沖田さんの体温は40度近くまで上がった状態が続いていました。白血球の数は1300、通常の1/4程度にまで下がっていました。家族の必死の看病で一命を取りとめた沖田さん。その後は快復の過程が調査の対象となりました。その時撮影された沖田さんの写真です。放射線の影響で抜けていた髪の毛は、少しずつ生え始めていました。嫌がる沖田さんに構わず、様々な検査が2か月間続けられたと言います。
10:07
沖田さん:「おまえモルモットじゃ」ゆうて、言われたような気になりました。「こんちくしょう」言っちゃやいいんだけど、言えないやね。ぼく自身の中で、「えい、くそう」思うて、思いながら、あんまり態度には出せませんでしたけどね。
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10:36
字:昭和20年8月6日、広島。昭和20年8月9日、長崎。
ナ:広島と長崎に相次いで投下された原子爆弾、その年だけで、合わせて20万人を超す人たちが亡くなりました。
原爆投下直後、軍部によって始められた調査は、終戦と共に、その規模を一気に拡大します。国の大号令で全国の大学などから、1300人を超す医師や科学者たちが集まりました。調査は巨大な国家プロジェクトとなったのです。2年以上かけた調査の結果は、181冊。1万ページに及ぶ報告書にまとめられました。大半が、放射能によって被曝者の体にどのような症状が出るのか、調べた記録です。日本はその全てを英語に翻訳し、アメリカへと渡していました。
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12:15
字:ワシントン
ナ:なぜ、自ら調べた原爆被害の記録をアメリカへと渡したのか、その手がかりをアメリカ公文書館に保管されている報告書の中に探しました。日本が提出した調査記録の片隅に、有る共通するアメリカ人の名前がありました。トゥー、カーネル・オーターソン( To Col. Oughterson)、オーターソン大佐へと書かれたその人物とは、
13:06
字:アメリカ陸軍 アシュレー・オーターソン大佐
ナ:アシュレー・オーターソン大佐。マッカーサーの主治医で、終戦直後に来日したアメリカ原爆調査団の代表です。
オーターソン大佐とともに日本で調査に当たった人物が、カリフォルニアに居ました。
13:35
字:元アメリカ調査団、フィリップ・ロジ氏(92)
ナ:フィリップ・ロジ氏92歳。アメリカ調査団のメンバーに抜擢された最も若い医師でした。ロジ氏はアメリカ調査団が到着すると直ぐに、日本側から、報告書を提出したいという申し入れがあったと言います。
14:03
ロジ氏:《英語》
字:オーターソン大佐は大変喜んでいらっしゃいました。日本が直ぐに協力的な姿勢を示してくれたからです。日本は私たちが入手できない貴重なデータを原爆投下直後から集めてくれていたのです。まさに被爆国にしかできない調査でした。
14:47
ナ:オーターソン大佐に報告書を渡していたのは、原爆調査を指揮する陸軍省医務局の幹部でした。小出策郎軍医中佐、30代の若さで医務局に入ったエリートです。陸軍が最初に行った調査の報告書も全て英語に翻訳されてオーターソン大佐に渡されていました。
15:28
字:東京
ナ:なぜ小出中佐は、終戦前から軍が独自に調べていた情報をアメリカに渡したのか?当時の内情を知る人物が生きていました。陸軍の軍医少佐だった三木輝雄さん94歳です。陸軍軍医のトップ・医務局長を父に持つ三木さん。終戦時は群全体を指揮する大本営に所属していました。報告書を提出した背景には、占領軍との関係に配慮する日本側の意思があったと言います。
16:37
三木さん:いずれ要求があるだろうと、その時はどうせ持っていかなくてはならない。て、いうんで、早く持っていった方が、いわゆる心証がいいだろうということで、まあ、要求が無いうちに持ってったが。
NHKインタヴュアー:心証を良くするっていうのは、何のために心証をよくするんですか?
17:17
三木さん:だからそれは、731(部隊)なんかのこともあるでしょう、ねえ。
17:47
ナ:三木さんが言う731部隊は生物化学兵器などの効果を確認するために、満州で、捕虜を使った人体実験を行ったとされる特殊部隊です。
終戦を前にしたポツダム会談で、アメリカを始めとする連合国は、捕虜虐待などの戦争犯罪に対し、厳しい姿勢で臨むことを確認していました。
小出中佐は、陸軍の戦後処理委を任された1人でした。終戦を迎えた8月15日。小出中佐に出されていた極秘命令です。敵に証拠を得られることを不利とする特殊研究は、全て証拠を隠滅せよ。
大本営に居た三木さんは、動揺する幹部たちの姿を間近で見ていました。戦争犯罪の疑惑から逃れるためにも、戦後のあらたな日米関係を気付くためにも、原爆報告書を渡すことは当時の国益にかなうものだったと言います。
19:07
三木さん:新しい兵器を持てば、その威力っていうのは誰でも知りたいもんですから。
カードで言えば、有効なカードはあんまりないんで、原爆のことはかなり有力なカードであったんでしょうね。
19;51
ナ:自ら開発した原子爆弾の威力を知りたいアメリカ、そして、戦争に負けた日本。原爆を落とした国と、落とされた国、二つの国の利害が一致したのです。
原爆投下から2ヶ月。アメリカの調査団が入ってくると、ニッポンはその意向を強く受けて、調査に力を入れるようになります。
小出中佐に代わって、アメリカ調査団との橋渡し役を務めるようになったのが、東京帝国大学の都築正男教授です。放射線医学の第一人者で当初から陸軍と共に調査に当たってきました。報告書番号14。都築教授と陸軍が共同で作成したこの報告書の中に、当時アメリカが、最も必要としていたデータがありました。原爆がどれだけの範囲にいる人を殺すことができるのか、調べた記録です。
対象となったのは、広島市内で被曝した17000人の子供たちでした。どこで何人死亡したのか、70ヶ所で調べたデータが印されています。
爆心地から1.3qにいた子供たちは132人中50人が死亡。
8kmでは560人全員が死亡しています。
8月6日の朝、広島市内の各地に、大勢の子供たちが学徒動員の作業に駆り出されていました。同じ場所で、まとまって作業していた子供たちが、原爆の殺傷能力を確かめるためのサンプルとされたのです。
22:56
ナ:調査の対象となった一つ。(旧広島市立)第一国民学校。そこに通っていた佐々木妙子さん77歳です。当時一年生だった佐々木さんたちは、空襲に備えて防火地帯を作る建物疎開の作業に動員されていました。学校に建てられた慰霊碑です。屋外で作業に当たっていた175人は被曝しました。佐々木さんのすぐ隣にいた親友、上田房江さんも亡くなりました。
23:54
佐々木さん:ほんとごめんね。うちだけ生きてから(生き残って)、ああゆうな一生懸命、それこそお国のためじゃないけど、そういうふうにして(建物疎開に)出て、もう帰るときには、姿も無いようなことではねえ、あまりにも酷いですよ。8月、来るけんね。
24:36
ナ:報告書によると、第一国民学校175人の内、108人が死亡、佐々木さんを含む67人が重傷となっています。都築教授たちが調査を行った背景には、アメリカからの要請がありました。アメリカ調査団の代表オーターソン大佐が、このデータに強い関心を示していたのです。
ワシントン郊外にあるアメリカ陸軍病理学研究所。日本からのデータは、全てここに集められました。オーターソン大佐は調査の結果を『原爆の医学的効果』と題する6冊の論文にまとめていました。
25:51
アメリカ陸軍病理学研究所員:《英語》
字:6巻には子供たちの被害データがあるので、政治的な配慮から機密解除が遅れました。
26:06
ナ:1700人を超す子供たちのデータから導かれたのは、一つのグラフでした。爆心地からの距離と死者の割合を示す死亡率曲線です。原爆がどれだけの人を殺傷できるのか、世界で初めて具体的に表したこのグラフは、アメリカ核戦力の礎となりました。
こうしたデータを基に当時アメリカ空軍が行っていたシミュレーションです。ソビエトの主要都市を攻撃するために、広島型の原爆が何発必要かを算出していました。
オーターソン大佐の研究を引き継いだジェームズ・ヤマザキ氏です。死亡率曲線は広島と長崎の子供たちの犠牲が無ければ得られなかったと言います。
27:26
ジェームズ・ヤマザキ氏:《英語》
字:革命的な発見でした。原爆の驚異的な殺傷能力を確認できたのですから。アメリカにとって極めて重要な軍事情報でした。まさに日本人の努力の"賜物"です。貴重な情報を提供してくれたのですから。
−−−−−−−−−−
28:00
ナ:建物疎開の作業中に被曝し、多くの同級生を失った佐々木妙子さん。友人たちの死が、日本人の手によって調べられ、アメリカの核戦略に利用されていたことを、初めて知りました。
28:30
佐々木さん:あぁでも、「ばかにしとるねー」言いたいんです、私は。はぁ残念ですね。ほんと、手を合わせるだけのことです、わたしはもうなんにもできません。
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29:12
字:東京大学
ナ:日本が国の粋を集めて行った原爆調査。参加した医師は、どのような思いで被曝者と向き合ったのか。山村秀夫さん90歳、都築教授が率いる東京帝国大学調査団の一員でした。当時、医学部を卒業して2年目の医師だった山村さん。調査は全てアメリカのためであり、被曝者のために行っている意識は無かったと言います。
29:59
山村さん:もういっさいだって、結果は日本で公表することももちろんダメだし、お互いに持ち寄って相談するということもできませんですから。とにかく自分たちで調べたら全部向うに出すと。
30:22
ナ:山村さんが命じられたのは、被曝者を使ったある実験でした。報告書番号23、山村さんの論文です。被曝者にアドレナリンと言う血圧を上昇させるホルモンを注射し、その反応を調べていました。12人の内6人は、わずかな反応しか示さなかった。山村さんたちは、こうした治療とは関係のない検査を毎日行っていました。調べられることは全て行うのが、調査の方針だったと言います。
31:19
山村さん:生きてる人は生前にどういう変化を起こしているかということを、少しでも何かの手掛かりは見つけて、調べるということだけでしたから、それ以外何にもないですね。あんまり他のことも考えれなかったですね。とにかくそれだけやると。
31:39
NHKインタビューアー:今となってみたらどうお感じになりますか?そのことは。
31:42
山村さん:(苦笑)、今となってみたらねぇ。そうですねえ、まあもっと他にいい方法があったのかも知れませんけど、だけど今と全然違いますからねぇ、その時の社会的な状況がね。
32:05
ナ:亡くなった被曝者も調査の対象になりました。救護所で亡くなった被曝者は、仮説の小屋などに運ばれて、次々と解剖されたといいます。200人を超す被曝者の解剖結果は、14冊の報告書にまとめられています。その一冊に、子供の解剖記録が残されていました。報告書番号87、解剖されたのは、長崎で被曝し、亡くなった、オノダマサエさん、まだ11歳の少女でした。マサエさんの遺体は、どのような経緯で提供されたのか、長崎に遺族が居ることがわかり、訪ねました。マサエさんの甥に当たる小野田博行さんです。
33:38
小野田さん:これが、ただ一枚のですね、政枝おばさんが4歳の時の写真なんです。
33:50
ナ:政枝さんが解剖された経緯を、父・一敏さんから聞いていました。
被曝した政枝さんは長崎市中心部の救護所に運ばれていました。兄・一敏さんが駆け付けた時、政枝さんは高熱にうなされ、衰弱しきっていたといいます。
34:30
小野田さん:なくなる前にですね、まあ何時間か前ぐらいじゃないかと思うんですが、「兄ちゃん家に連れて帰って」その言葉が最期だったらしいですね。
34:49
ナ:一敏さんが、政枝さんの遺体を負ぶって帰ろうとしたとき、救護所の医師たちが声をかけてきたと言います。
35:03
小野田さん:病院の先生たちが将来のために、妹さんを解剖の方に預けて頂けないかと言う話を、親父(一敏さん)の方に来たらしいですね。一応は、断りを入れたらしいですけど、やっぱり親父(一敏さん)もたくさんの亡くなった方の、ああゆう状況を見ておりますもんで、お与えするような気になったんじゃないかと思うんですよね。将来のためにという思いで。
35:51
N:被曝者のために役立ててほしいと、医師に託された、政枝さんの遺体。その後どうなったか、家族に知らされることはありませんでした。
政枝さんたち被曝者の解剖標本は、報告書とともにアメリカに渡っていました。放射線が人体に及ぼす影響をより詳しく知るために利用されました。そして昭和48年、今は広島と長崎の大学に保管されています。
小野田政枝さん標本が、長崎大学にあることがわかりました。
36:56
字:長崎大学 医学部
ナ:博行さんが写真でしか知らない政枝おばさん。
37:05
長崎大学医学部員:ご説明させて頂きます。小野田政枝さんの標本、プレパラート標本5枚になります。
37:14
ナ:政枝さんは、肝臓や腎臓などを摘出され、5枚のプレパラート標本になっていました。
37:36
小野田さん:これがおばさんですかねぇ、こんな形でお会いするとは思いもしませんでした。
37:59
ナ:アメリカでつけられた標本番号は249027。原爆被害の実態を伝えてほしいと提供された11歳の体が被曝者のために活かされることはありませんでした。
原爆投下直後から始められていた、国による被害の実態調査。この65年間、その詳細が被曝者に対して明らかにされることはありませんでした。
−−−−−−−−−−
38:59
ナ:平成15年から全国で相次いだ原爆症の集団訴訟。自分たちの病気は、原爆によるものだと認めてほしいと訴える人たち。国は、その主張を退けて来ました。
39:27
ナ:30年以上、被曝者の医療に携わり、原告団を支えてきた医師の齋藤紀(オサム)さん。181冊の報告書の中に、被曝者の救済に繋がる新たな発見は無いか?
沙五男さ齋藤さんが注目したのは、ある医学生が書いた手記です。
40:00
齋藤さん:学生さんが書かれた、まあ門田(モンデン)さんという方ですけど、
40:07
字:"私の被爆症体験"
ナ:報告書番号51、ここに、これまで国が認めてこなかったある被曝の実態が綴られていました。
40:20
字:門田可宗(モンデンヨシトキ)(当時19歳)さん
ナ:手記を書いたのは門田可宗さん、山口医学専門学校の学生でした。門田さんが広島市の中心部に入ったのは、原爆投下の4日後のことでした。直接被曝をしていないにも関わらず、門田さんに原爆特有の症状が表れます。街に残った放射線による被曝。いわゆる入市被曝です。長年国は入市被曝による人体への影響はないとしてきました。しかし、門田さんの手記に書かれていたのは、直接被曝した人と同じ症状でした。
41:26
声(門田さん役):8月15日、熱は39.5℃まで上がる。
8月17日、歯茎と喉の痛みが増してくる。
41:46
ナ:さらに8月19日、門田さんを不安に陥れる症状が襲います。体中に多数の出血犯斑が表れたのです。
41:06
声(門田さん役):私も原爆の被害者なのか?いや、そうではない。8月6日、確かに私は広島に居なかったではないか?不安のあまり、その日は眠れなかった。
42:33
ナ:8月30日、被曝者の症状について解説した新聞記事を目にします。そこに書かれていたのは、自分と同じ症状でした。
42:55
声(門田さん役):私の症状は、被曝者の症状と全く同じではないか。ああ、何ということだ。私も原爆の被害者になってしまったのだ。
43:18
ナ:齋藤さんは、門田さんの報告書がありながら、国がこれまで入試被曝の影響を否定し続けてきたことに、憤りを感じてきています。
43:32
齋藤さん:今まで考えられてきた被害はないんだと、入市被曝者に原爆症は現れないんだということの考え方が、実は根底から崩れてしまうというような意味を持ってるんですね、これは。そういった意味では、65年も埋もれておったと、埋もれさせられておったと。
44:04
ナ:原爆症訴訟で長年国を訴えてきた被曝者の中に、門田さんと同じように入市被曝した女性がいました。
44:23
字:齊藤泰子さん(享年65)
ナ:齊藤泰子さんです。3年前、被曝が原因とみられる大腸がんで亡くなりました。
44:36
字:広島、母・幾さん(97)
ナ:当時4歳だった泰子さんが母・幾さんに連れられて疎開先から戻ったのは、原爆投下の5日語のことでした。親戚を探しに、爆心地近くに入り、一緒に歩き回ったと言います。
45:11
幾さん:泰子はこれです。
45:17
ナ:しばらくすると泰子さんに、高熱や下痢など、被曝によるとみられる症状が現れました。
45:25
幾さん:連れて来なきゃそういうことはたぶんなかったと思うんですよ。ほんと悪かったなーと、今でも公開しております。
45:41
ナ:その後、白血球が減少するなど、原爆の後遺症に悩まされた泰子さん。59歳の時、大腸がんを発症します。原爆症と認めてほしいと訴えましたが、国は、被曝はしていないと、退け続けました。4年前、泰子さんは最後の法廷に臨みました。その時の言葉です。
46:25
字:齊藤泰子さんの最終弁論
ナ:「私は末期がんで余命幾ばくも無いことを医師から言われております。もうわたしにはじかんがありません。国は私のような入市被曝者の実態をわかっていません。多くの入市被曝者が私以上に苦しんでいます。」勝訴判決が出たのは、泰子さんが亡くなって3ヶ月後の平成19年のことでした。幾さんは、門田さんの報告書の存在がもっと早くわかっていれば、泰子さんが生きている内に救済されたのではないかと思っています。
47:28
幾さん:ほんとに間に合いませんでした。かわしそうですよね。遅すぎましたね。
47:58
字:岡山 倉敷
ナ:1人の医学生が書いていた入市被曝の報告書。筆者の門田可宗(モンデンヨシトキ)さんが、岡山倉敷で生きていました。どのような思いで手記を綴ったのか、齋藤さんは、同じ医師として訊きたいと訪ねました。
48:31
齋藤さん:初めまして、齋藤でございます。
48:36
ナ:門田可宗(モンデンヨシトキ)さん、84歳です。64年間、原爆の後遺症の恐怖と戦い続けてきました。心臓や腎臓を患い、療養中でした。
48:55
齋藤さん:あのう、調子の悪いときは、先生、おっしゃって下さい。日記見ますと、8月の19日にですね、体の出血に気付かれるんですけども、先生、ご記憶にありますか?
49:11
門田さん:ありますよ。皮下出血がありましたね。胸のあたりに出血斑があったんですね。こりゃいかんなと、非常に危うんだんです。その当時は分かりませんのでね。
49:27
齋藤さん:先生自身は日本語で、書かれたんですねえ。
門田さん:そうです。日本語で書きました。
49:36
齋藤さん:こういうふうに訳されてアメリカにあることは全く知らなかった?
門田さん:知らなかったです。
49:45
ナ:門田さんによると、日記を書いたのは山口の医学専門学校に戻ってからでした。山口まで訪ねてきた東京帝国大学都築正男教授に、日記を書くよう勧められたと言います。
50:10
門田さん:まあ、あの当時、研究者で名前がナンバーワンで出てきたのは都築先生ですからね。わざわざ山口医専までおいでになったんです。直接面談をしましてね、いろいろ質問されたりしましてね。それでその時に、要するに「今から日記を詳細につけるように」と言われたんですね。それで日記だけは付けておこうと思ったんですね。例のオーターソンというアメリカの軍医がですね、熱心にぼくの手記を求めているってこともわかったわけですよ。
51:06
ナ:報告書の最後に、門田さんは、自らの思いを記していました。
51:15
齋藤さん:アトミックディジーズの研究のため、私はこの手記を書いた。それで、もし、これが役立つならば、非常に幸せであると。言うふうに書いてますねえ。
51:33
門田さん:懐かしいですな。
僕が残しておかないと誰が残すんだというような気持ちがありました。それは医学に携わる者として多少具体的なことを書いておかないと。
齋藤さん:どうもありがとうございました。
52:00
ナ:一人の医師の使命として自らの被爆体験を後世に残そうとした門田可宗(モンデンヨシトキ)さん。その思いは届きませんでした。
52:28
ナ:65年前に失われた多くの尊い命。そして、生き残った人たちが味わった苦しみ。その犠牲と引き換えに残された記録が、被曝者のためにいかされることはありませんでした。世界で唯一の被曝国でありながら、自らの原爆被害に目を向けてこなかった日本。封印されていた181さつの報告書が、その矛盾を物語っています。
53:25
字:封印された原爆報告書
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