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原爆裁判60年 現代への教訓/清永聡・nhk
2023年08月03日 (木)
清永 聡 解説委員
https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/486425.html
広島と長崎に原爆が投下されてまもなく78年です。
今回はある裁判の話をします。戦後、日本が独立を回復して間もなく、被爆者や遺族が、原爆投下の責任を追及し訴えを起こしました。
「原爆裁判」と呼ばれます。
60年前、判決は原爆投下を「国際法違反」と初めて明言し、大きな影響を残しました。今回は被爆者の訴えとかつての司法の判断が、何をもたらしたのか解説します。
【今も残る裁判記録】
埼玉・所沢市の弁護士事務所です。
この事務所の一室に「原爆裁判」の記録が今も残されています。担当した弁護士が保管していました。訴状や意見書、口頭弁論調書など数十点に上ります。
本来保管すべきは裁判所ですが、今回私が問い合わせたところ、裁判所は判決以外の原爆裁判の記録を廃棄していました。
今となっては、多くがここにしかない貴重な記録です。
【「原爆裁判」とは何か】
原爆裁判とは、広島と長崎の被爆者や遺族5人が起こした訴えです。
担当した弁護士は最初、1953(昭和28)年にアメリカの裁判所でアメリカ政府を訴えようとします。
しかし、当時は日本が独立を回復した翌年です。アメリカを訴えることに弁護士の多くは消極的で、周囲の理解は得られません。
結局、55年(昭和30年)に、日本政府を相手どって東京地方裁判所に損害賠償を求め提訴しました。
保管されていた訴状には、原爆の被害についてこう書かれています。
「原子爆弾投下後の惨状は数字などのよく尽くすところではない。人は垂れたる皮膚を襤褸として、屍の間を彷徨号泣し、焦熱地獄なる形容を超越して人類史上における従来の想像を絶した惨鼻なる様相を呈したのであった」。
そして「原子爆弾の投下は残虐で、無差別爆撃などを禁じた国際法に違反する」と主張しています。
【8年に及んだ審理】
保管記録によると、裁判所の審理は、準備手続きだけで実に27回、口頭弁論は結審まで9回、通算8年に及びました。
裁判で国は「原爆投下が国際法違反とは断定できない」と争い、被爆者への賠償や補償の義務も否定します。
中心だった岡本尚一弁護士は、弁論が始まる前に亡くなり、当時30代だった広島出身の松井康浩弁護士が1人で担当します。提訴の時はまだ被爆者支援の法律もなく、原爆への国民の理解も十分でなかったと言います。
最大の争点は、原爆投下が当時の国際法に違反するかどうかでした。
裁判所は双方の申請に基づいて、3人の国際法学者に鑑定を依頼します。
このうち2人は国際法違反と断定、1人は違反の判断に傾きつつも、確定的に断定できないとしました。
被爆者側と国の主張は、大きく対立したまま審理を終えることになります。
【「国際法違反」そして異例の言及】
判決は1963年、昭和38年12月7日に言い渡されました。
当時の報道によれば、東京地裁では、法廷で判決理由の要旨が読み上げられました。
主文は被爆者への賠償を認めませんでした。しかし、裁判長は最大の争点、国際法について、こう指摘します。
「広島、長崎両市に対する原子爆弾による爆撃は、無防守都市に対する無差別爆撃として、当時の国際法から見て、違法な戦闘行為であると解するのが相当である」
核兵器が国際法に違反するという裁判所の判断は、世界でも初めてのことでした。
当時の報道によれば、裁判長が国際法違反と述べた瞬間、法廷は誰一人言葉を発することなく、静まりかえったといいます。
そして判決は、最後にこう述べました。
「国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかも、その被害の甚大なことは、とうてい一般災害の比ではない。被告がこれに鑑み、十分な救済策を執るべきことは多言を要しないであろう」
「しかしながら、それはもはや裁判所の職責ではなくて、立法府である国会および行政府である内閣において果たさなければならない職責である。しかもそういう手続きによってこそ、訴訟当事者だけでなく、原爆被害者全般に対する救済策を講ずることができる」
「われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはいられないのである」(判決文より抜粋)
こう述べて、被爆者への支援策の実現を強く促したのです。
【判決がもたらした影響】
判決はそのまま確定しました。
裁判は支援の必要性を改めて示し、「国際法違反」という判断も、行政に対策を求める根拠となりました。
提訴後には「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」が作られ、判決後には世論の高まりもあって、「原子爆弾被爆者に対する特別措置法」が制定されます。そして94年、「被爆者援護法」が制定されました。
被爆者の認定がなお不十分という意見もありますが、制度は少しずつ作られてきました。
日本被団協は「この裁判は、被爆者援護施策や原水爆禁止運動が前進するための大きな役割を担った」と評価しています。
【国際司法裁判所でも】
影響はさらに広がります。判決は英訳されて海外でも知られるようになりました。
96年、国際司法裁判所は初めて核兵器の使用と国際法についての勧告的意見をまとめます。
そこには「核兵器の使用や威嚇は、一般的には国際法の上では人道主義の原則に反する」と記されました。
一方で「究極の自衛権行使の際には違法か合法か結論づけることはできない」とも書かれ、中途半端という指摘もあります。
それでも国際司法裁判所が核兵器を「国際法に違反する」と勧告したのは、初めてです。
日本反核法律家協会の大久保賢一会長は、この勧告的意見について、「原爆裁判は個別意見に言及されていて、参照すべき先例と位置付けられ、国際司法裁判所の判断枠組みにも影響を与えている」と評価します。
その判断は、現代まで長く影響を与えてきたのです。
【判決を出した裁判官は】
ところで、この原爆裁判の判決を書いた裁判官は、誰なのでしょう。
最初に紹介した保管記録の中には、口頭弁論調書があります。これを見ると裁判官は多くが異動で交代していますが、1人だけ、第1回の弁論から結審まで担当した裁判官がいます。
それが、日本初の女性弁護士で戦後裁判官となった三淵嘉子判事です。
来年の連続テレビ小説の主人公のモデルでもあります。彼女自身は生前、この裁判について、何も語っていません。おそらく評議の秘密に配慮したためでしょう。また、判決を書いたのは、裁判長を含めた3人の裁判官(裁判長古関敏正、裁判官高桑昭)のため、誰が判決文のどの部分を記したのかは、分かりません。
ただ、彼女は戦争によって夫と弟を亡くし、戦後10年あまり、1人で子どもを育てながら裁判官として働き続けます。戦争の悲惨さは自らも痛感していたはずです。
それはおそらく彼女だけではありません。ほかの裁判官も、松井弁護士も、さらに言えば国側の代理人も、戦争は当時、人々のいわば“共通体験”でした。
悲惨な戦争と、原爆の被害を2度と繰り返してはならないという思いは、彼女に限らず、実はみんな同じだったのではないでしょうか。
判決から60年を迎える原爆裁判。
そこに書かれた「核兵器は国際法違反」という言葉は、司法の判断にとどまらず、今なお、重い意味を持ち続けます。
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