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終戦から77年 墓碑が語る戦争/清永聡/nhk
2022年08月15日 (月)
清永 聡 解説委員
https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/472301.html
今年も「終戦の日」を迎えました。先の大戦で犠牲となった方は、およそ310万人にのぼります。
全国にはその戦没者の墓碑や追悼碑が残されています。しかしいま、遺族の高齢化などで管理ができず、維持が難しいところも出ています。
今回は各地に残る墓碑や追悼碑をどう受け継いでいくのかをテーマに伝えます。
【“軍人墓”とは何か】
皆さんの近くの墓地などで、こうした形のお墓を見たことはないでしょうか。頭の部分が尖った方錐形と言われる特徴があり、一般の墓石よりやや細く、背が高いものもあります。
これは戦争で亡くなった兵士などの墓です。「軍人墓」などとも呼ばれますが、実際は軍人以外も含まれるため、ここでは墓碑と表現することにします。
自治体や地域の共同墓地、お寺の一角、個人の墓に建てられていることもあります。全国各地でみられ、その数ははっきりとは分かりません。
この独特の形。明治時代に当時の陸軍省によって規定されました。それが明治以降、各地に広がっていったとみられています。
もちろん、これ以外にも宗教によってさまざまな墓があります。さらに戦没者の追悼碑なども建てられ、全国で祈りがささげられています。
【墓碑の活用と建立の背景】
この墓碑や追悼碑には、実に多くの情報が刻まれています。名前だけでなく、死亡年月日、年齢、階級、戦没地、所属していた部隊。さらに軍歴や戦闘状況を詳しく記した碑文もあります。
こうした情報は、地域の歴史を伝える記録として、今も郷土史の研究や調査に活用されています。自分の地域からどの戦地へ向かい、どこで亡くなった人が多いのかなど、地域の特徴を見ることもできます。また、追悼碑は地元の学習などにも活用されています。
国立歴史民俗博物館が90年代から2000年代に全国で行った調査によれば、戦後、戦没者の父や母、夫を亡くした妻などが建てるケースが多いということです。
また、四国や東北の墓石を調査した大本敬久学芸員によると、昭和30年代を中心に建てられたものが比較的多いということです。戦後すぐは生活が厳しく、暮らしが落ち着き始めた13回忌や17回忌などの法要に合わせて追悼のために建てたとみられます。
ただ、戦後77年。戦没者の父母はもちろん配偶者も多くが亡くなりました。この結果、管理されないままの墓碑や追悼碑が増えています。雑草で覆われ、書かれた文字も読めず、荒れている場所も少なくありません。
また、遺族とは別に当時の陸軍や海軍が設けた墓地もあります。規模が大きいだけに、その管理は、いっそう課題となっています。
【真田山旧陸軍墓地の現状は】
大阪の「旧真田山陸軍墓地」です。1871年に作られました。この墓地を研究している横山篤夫さんによれば、ここには西南戦争から太平洋戦争まで、実に5200基を超える個人の墓碑と4万3000人分以上の遺骨や遺髪などを収めた納骨堂があります。
ただ、今もここを訪れる遺族は20家族にも満たないということです。明治時代の墓碑が多く傷みも目立ちます。剥がれ落ちているものや折れているものもあり、文字を読み取ることも難しくなっています。
財団法人「真田山陸軍墓地維持会」の事務局長、田中正紀(たなか・まさのり)さんたちは、ここで長く墓地の手入れを続けてきました。
今は剥がれ落ちたかけらを1つずつ集めて、貼り直す作業も続けています。しかし、すべてを補修することは難しいと言います。
4年前には台風で多くの墓が壊れました。この時は、ボランティアの力を借りて、行政とともに何とか修復を行ったということです。
【戦後の管理の難しさ】
こうした旧陸軍や旧海軍の墓地は全国に90か所あまりあると言われます。管理はどうなっているのでしょうか。
国立公文書館に保管されていた行政文書です。昭和21年、当時の大蔵省が「旧軍用墓地」の扱いを記したものです。
戦後、陸軍省・海軍省がなくなったことに伴い、大蔵省は「維持・管理・祭祀は地方の実情に応じ、都道府県や市町村、宗教団体や遺族会などにゆだねる」と通知しています。
この結果、専門家によると軍の墓地だけでなく、自治体の共同墓地などでも、敷地の管理は自治体、墓の維持や追悼は遺族会などが担うところが多くなったとみられます。行政には政教分離の原則があるため、自治体は敷地の管理までにとどめ、追悼などは民間にゆだねることで、いわば行政と民間で、長く「役割分担」をしてきたわけです。
ところが、いまは遺族会も高齢化し、活動が難しくなっています。この結果、管理が行き届かなくなっているのです。地域の共同墓地でも同じように管理できないところが出ています。
先ほどの旧真田山陸軍墓地も、国は墓地の建物の耐震化などを行い、市は敷地の管理をしています。しかし墓碑の復元や追悼の式典などは財団が行っています。
また、地元の人たちなどによってNPO法人「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」が作られ、研究や見学会などが行われています。ここでは、地域による保存や活用の取り組みは、比較的活発です。
ただ、財団法人の田中事務局長は、「民間による管理にも限界がある。行政は文化財と考えて、もっと積極的に保存に関わってほしい」と話しています。
こうした陸軍墓地などは、今後行政による一層のサポートが必要でしょう。また、戦後各地に建てられた墓碑や追悼碑も、保存のあり方を考える時期を迎えているように思います。
【戦没者の追悼とは何か】
戦争で亡くなった人をどのように追悼すべきかは、かつても国による新たな追悼施設の設置などをめぐって、さまざまな議論が交わされたことがあります。
ただ、そうした議論とは別に、私たちの地域には、1人1人の名前が刻まれた墓碑や追悼碑が残されています。これをどう守っていくのかは、地域ごとに考える必要があります。この課題は単なる墓の問題にとどまらず、「戦没者の追悼とは何か」ということを、今の私たちに問いかけているのではないでしょうか。
【戦争の犠牲は小さな島にも】
戦没者の墓碑は瀬戸内海の島々にも、数多く残されています。
松山から船で1時間ほどの野忽那島。周囲わずか5.7キロの小さな島です。
ここの共同墓地にも戦没者の墓碑が数多く並んでいました。現在の島の人口は70人あまり。島の戦没者は実に40人を超えます。戦没地としてフィリピンなどの地名が記されていました。
並んだ墓の一部は、海を向いていました。ある住民は、静かな島から召集され、はるか遠い戦地で命を落とした人々に、せめて、故郷の海を見せたいと願ったのだろうと話していました。
戦争の犠牲は、このような小さな島にも、押し寄せていました。
墓碑や追悼碑には、国のため命を落とした肉親を忘れないでほしい、という遺族の願いも、込められています。こうした思いを受け止め、地域で守り、次の世代へ伝えていく。
そのことが現在の私たちに課せられた責務のように思えてなりません。
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