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安倍晋三は旧長州藩の一派である。歴代の首相に長州藩が多い訳/ネット記事から
プーチン来日時、山口県で接待した。
《以下、ネット記事から》
旧長州藩出身の首相;伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介(声なき声)、佐藤栄作(沖縄で平和賞)、安倍晋三
なぜ長州出身の総理大臣が多いのか?
それは歴史を知っていれば納得できる事実です。
ざっくり言えば、江戸幕府を倒し明治政府に長州藩の人材が多く入っていたからです。
もともと徳川幕府を倒して明治政府を作った中心が薩長だったわけで、西南戦争を通じて勢力を殺がれた薩摩に比べ長州は人材が残った。そういうことでしょう。
明治政府=長州幕府みたいなものですから。
しかしこれも戦後だけみると山口県より群馬県出身の総理大臣の方が多いのです。
地政学的に長州藩というのは、常に外敵にさらされ、国防という意識の強くなる場所柄だったのかもしれませんね。
長州藩の毛利敬親は1849年に若き長州藩士の育成の場として藩校・明倫館を萩城下に置きます。
明倫館は東京ドームより一回り大きい広大な敷地であったと言う。
これにより以後、長州藩は優秀な藩士を排出する結果にも繋がっています。
《長州藩が倒幕に至った理由》
長州藩は幕府徳川家にとって仮想敵国でした。
関が原の戦いで本来は潰しておくべきだったこの藩が、幕府によって国土を四分の一に削られながらも生き残り、やがて倒幕に向かうことになることは歴史の必然だったのかもしれません。
この藩は他の藩が太平の永い眠りにあるときにも常に国防を考えていました。
当時の "政府" は幕府でした。しかし、秩序が保たれ、誰もが安心して暮らせる社会をつくり、人々から信頼される政治を行なっていたと言えるでしょうか?
外国船が次々に押し寄せ、要求されるがままに日本に不利な条約を勅許なしに結び、一般庶民に不安を抱かせた江戸末期の幕府。その直属の家臣である旗本・御家人たちをはじめとする、武士階級の堕落。そんな世の中に反感を持ち、変革を望む人々が現れたのは当然でしょう。
勿論、幕府側に有能な人材が全くなかった訳ではありません。が、そうした一部の人々が改革を行なうには遅過ぎたのです。250年間ぬるま湯に浸かり続けてきた幕府には、既に近代化を果たし、開国を迫る西欧列強を退ける力はありませんでした。
実際に長州は長い海岸線を持ち、しかも朝鮮や中国に近く、海外に触れる機会の多い藩でした。
黒船来航以前に長州藩に近い対馬藩がロシアに一時占領された事実(ロシア軍艦対馬占領事件)を知らない人が多いのですが、このとき長州藩は外敵に対して 非常な恐怖体験をしました。
黒船来航後の幕府と外国との通商条約締結後は、下関海峡を外国船が通ることにもなり、当時の世相尊皇攘夷主義の雄藩である長州藩は外国の脅威を肌で感じるようになります。
長州藩の思想家吉田松陰は、沢山の維新の志士と戦士を育てましたが、彼の思想がこの勤皇の志士の行動原理になり、彼の育てた塾生は最初から倒幕思想の要素を色濃くもっていました。
尊皇攘夷について私なりの解釈を書いてみます。
尊皇攘夷とは本来日本の主である天皇を崇め奉りまもり、外国の脅威をはねつける強い国体を作る運動・・・・と理解しています。
尊皇攘夷の思想から見ると、朝廷をさしおいて幕府が威張ることは間違いで、このまま幕府に日本の国を任しているとやがてはこの国は外国に攻められ荒らされ、やがてはとられてしまうと多くの不満分子は考えました。
隣国の中国がアヘン戦争によって、外国に侵略されようとしている情報を聞くにつけこれを知ったものにとっては危機感は募るばかりです。
そして、1850年に長州藩は、沿岸の警備増強を図っています。
すなわち幕府から自立して諸外国の脅威に対抗する姿勢を見せたのです。
1858年には、西洋人が長崎に持ち込んだコロリ(コレラ)が流行しただけでなく、大老・井伊直弼の安政の大獄となって、尊王攘夷派は弾圧され、長州藩ではこのまま幕府に任せていたら、いよいよ本当に日本が危ういと考えます。
吉田松陰は外国船に密航しようとして捕まり、最初は士分を剥奪され自宅軟禁状態による罰をうけ、その期間沢山の若者の教育をし 、やがて今度は当時の幕府老中真鍋詮勝の暗殺計画を企て、最後は安政の大獄により江戸で罪人として斬首されます。
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