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湾岸危機で米側 「軍隊」用い人的貢献迫る 外交文書で明らかに〜結局、法整備は整わなかったことから人的貢献には踏み込まず、総額130億ドルに上る経済支援を行った/nhk
2021年12月22日 12時46分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211222/k10013398141000.html?utm_int=news_contents_news-main_001
湾岸戦争直前の1990年に、当時のアメリカのブッシュ大統領が、海部総理大臣との会談で「軍隊」ということばを使って、日本にも人的貢献に踏み出すよう強く迫っていたことが、公開された外交文書で明らかになりました。
文書には、1990年8月のイラクによるクウェート侵攻で湾岸危機が起きた翌月に、アメリカで行われた、ブッシュ大統領と海部総理大臣による会談のやり取りが記されています。
会談で、ブッシュ大統領は、各国と編成した多国籍軍を念頭に「日本が『軍隊』を中東における国際的努力に参加させる方途を検討中と承知しているが、有益で世界から評価されるだろう」と述べ、日本にも人的貢献に踏み出すよう強く迫っていました。
これに対し、海部総理大臣は「日本にとって海外に出ることは戦後史上初めてなので多くの議論と時間が必要となろうが、新法成立に向けて努力していく」と述べ、人的貢献を可能にする法整備に努める意向を伝えていました。
しかし、結局、法整備は整わなかったことから人的貢献には踏み込まず、総額130億ドルに上る経済支援を行ったものの、国際的には厳しい評価を受けました。
日米関係に詳しい京都大学大学院の中西寛教授は、アメリカ側の強硬な姿勢について「経済的利益を受けている日本がどの程度、人的貢献、いわばリスクをとるかというのがアメリカ国内の説得のためにも非常に重要な要素だという認識があった」と分析しています。
そのうえで、日本側の対応について「まだまだ中身が煮詰まっておらず、国会の審議ではどうなるかわからないが『ともかく、こういうことは考えています』とでも言わないと、非常に強い要求をかわすことができないという危機意識が表れている」と指摘しています。
一方、湾岸危機の際、イラクが日本人213人をいわゆる“人間の盾”として人質にしたことをめぐって行われた当時のフセイン大統領と中曽根元総理大臣との会談記録も公開されました。
会談で、中曽根氏は「日本は平和国家として、平和的解決のために努力したい。憲法改正などもしていないし、自衛隊を戦闘に参加させるものではない」と明言しています。
そして、中曽根氏は、イラク側に非はないと主張するフセイン大統領に対し、みずからがアメリカのカーター元大統領やドイツのブラント元首相とも会談し、戦争回避に努めると語りかけるなど、日本は中立的な立場だと強調しながら、和平交渉に協力する姿勢も示し、人質の解放を働きかけた様子がうかがえます。
会談の2日後、イラク側から一部の日本人を解放する方針が伝えられ、このときは74人が解放されています。
多数の人質に政府は
湾岸危機の発生当時、海部政権で官房副長官を務めていた石原信雄氏が、NHKの取材に応じました。
イラクのクウェート侵攻の日は、夏期休暇などで海部総理大臣が官邸に不在で、石原氏は「私が留守番で官邸にいたが、いきなり侵攻のニュースが飛び込んできた。これは大変だということで、総理には急きょ官邸に戻ってもらい、対応策を議論した」と振り返りました。
危機の発生後、日本人が人質にとられているという情報が入り「いかに救出するかが当面の大きな課題となった。あんなにたくさんの人が人質状態になったのは初めての経験で、外務省を中心にどう解放するかを議論し、関係国とも連絡や情報交換を行った」と述べました。
そして、政府の交渉が難航する中で、民間の呼びかけで、イラクのフセイン大統領と通産大臣の時に会談したこともある中曽根元総理大臣をトップとする非公式の訪問が実現した経緯を明らかにし「なかなかいい手がない中で、大変ありがたかった」と述べました。
そのうえで、石原氏は「アメリカが実力行使に出ると壊れてしまうので、中曽根氏の努力を見守ってほしいと伝えていた」と述べ、政府としては、人質解放前に軍事行動をとらないよう、アメリカ側に働きかけていたことを明らかにしました。
石原氏は、最終的に日本人の人質全員が解放されたことについて「民間人が戦闘に巻き込まれる心配もあったが、結果的にはなかった。政府としても、ほっとした」と振り返りました。
外交文書とは
外務省は、作成から30年以上が経過した公文書のうち、歴史上、特に意義があり、公開しても支障がなく、国民の関心も高いと判断した文書を、毎年1回公開しています。
今回、公開された外交文書は、1989年から1991年に作成された18ファイルで合わせて7319ページです。
この中には、▼1990年に当時の海部総理大臣がアメリカを訪問してブッシュ大統領と会談した際の文書や、▼湾岸危機の際に中曽根元総理大臣とフセイン大統領と協議した記録、それに▼カンボジアの和平実現に向けて、日本政府が開いた「東京会議」の文書などが含まれています。
文書には、極秘扱いとされていた公電も含まれていますが、現在も外務省の情報源となっている人物の名前など、引き続き、外交交渉への影響があると考えられる部分などは一部が黒塗りになっているものもあります。
公開された文書は、外務省外交史料館のホームページに22日から掲載されます。
また外交史料館では原本を閲覧することもできますが、新型コロナの影響で、現在は1日6人までの予約制となっています。
湾岸危機とは
世界を揺るがした湾岸危機は、1990年8月2日、イラクが、突如として隣国のクウェートを侵攻、制圧したことをきっかけに始まりました。
両国の石油政策などをめぐる対立が激しさを増していた中での侵攻で当時のイラクのフセイン大統領は、制圧後、クウェートを19番目の県だとして併合を宣言しました。
国際社会は、容認しがたい行為だとして、一斉に非難。
国連安全保障理事会は、侵攻当日、直ちに「イラクの行動は国際法違反だ」と断定するとともに、クウェートからの撤退を求める決議を採択しました。
さらに、各国は、イラクからの石油の輸入停止などの経済制裁を行ったのに加え、アメリカなどが多国籍軍を編成し、軍事行動も辞さない構えを見せました。
しかし、こうした国際社会の動きにもイラクは強硬姿勢を崩さず、滞在する外国人を人質にとり、対抗しました。
人質は、イラク国内の石油施設や軍事施設など、軍事行動の際、攻撃目標になり得る施設に拘束されたことから、“人間の盾”とも言われ、日本人も213人が人質になりました。
各国による和平交渉の動きもあり、人質は少しずつ解放。
日本人の人質も全員無事、帰国しましたが、その後も、イラクはクウェートからの撤退は拒み、緊張が続きました。
そして、侵攻から半年近くあと、1991年1月、アメリカ軍が主力となった多国籍軍がイラクへの軍事行動に踏み切り、湾岸戦争の開戦に至りました。
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