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(回答先: 五輪開催「自殺行為」と楽天社長 米テレビのインタビューで(東京新聞・共同) 投稿者 蒲田の富士山 日時 2021 年 5 月 16 日 08:25:42)
池江選手に五輪辞退をお願いするのは酷くない
藤崎剛人 現代ニホン主義の精神史的状況
Newsweek 日本語版 2021年05月16日(日)20時06分
https://www.newsweekjapan.jp/fujisaki/2021/05/post-10.php
<アスリートと一般市民の利害は今や根本的に対立している。そうさせたのは、コロナ無策のまま五輪を強行しようとする政権の姿勢だ>
5月7日、オリンピック水泳日本代表の池江璃花子選手がTwitterを更新し、選手選考会以後、オリンピック辞退や反対の表明を求めるコメントがSNSなどに寄せられ、中には心ない内容のものもあったとして、「私に反対の声を求めても、私は何も変えることができません」「この暗い世の中をいち早く変えたい、そんな気持ちは皆さんと同じように強く持っています。ですが、それを選手個人に当てるのはとても苦しいです」「頑張っている選手をどんな状況になっても暖かく見守っていてほしいなと思います」と綴った。
このツイートは直ちに各社のニュース記事になり、池江選手には同情の声が寄せられた。「頑張っている選手に辞退を求めるなんて酷い」というわけだ。確かに選手個人に対する誹謗中傷は許されないだろう。しかし、コロナ禍での開催が批判されているオリンピックについて、社会的影響力がある選手に辞退をお願いする人が出てくるのは、それほど違和感はない。そのような手段を自分が用いるかはともかくとして、世間が躍起になって封じなければならないほど悪質なコメントとはいえないだろう。書き方にもよるとはいえ、言論の自由の範疇なのではないか。
厄介なのは、選手本人の気持ち、選手に対する市民の同情とは別個の問題として、選手と市民のあいだには構造的な敵対関係が存在することだ。選手は傲慢だとか、市民は選手を憎悪するべきだとか、そういうことが言いたいのではない。選手と市民がお互いをどのように考えていようが、日本政府とIOCの五輪開催方針によって否応なしに生じてしまっている、実存的敵対関係があるということだ。
★ 選手と市民の実存的敵対関係
オリンピックはスポーツ選手にとって一世一代のイベントだ。いわば選手たちはメダルを獲得するために全人生を賭しているのであって、オリンピックが開催されるか否かは文字通りの死活問題となる。そうした意味では、コロナ禍において選手はオリンピックに反対するのが当然だと批判することはできない。
一方、現在の日本で、コロナ禍が拡大しているのも事実だ。二回目の緊急事態宣言解除後にいちはやく感染者が増えた大阪ではすでに医療崩壊が起きており、死亡者数の増加がみられた。当初、京阪神や首都圏で感染拡大が起こっていた第4波は、今は北海道や福岡県など地方に広がりをみせている。政府のワクチン対応は遅れている。オリンピック開催までに高齢者3600万人の接種を終えるという目標も、1日あたり100万人の接種を前提としなければならず、現在のペースでは非現実的となっている。
アジアでの感染を抑制してきた「ファクターX」が通用しないとされるインド由来の変異株への置き換わりも危惧されている。もしワクチン接種が奇跡に順調に進んだとしても、安心はできないのだ。
こうした切迫した状況で政府は、医療従事者や病床をオリンピックのために確保しようとしている。発熱や肺炎等の深刻な症状が出ていたとしても、ほとんどのコロナ感染者が自宅療養を強いられているこの時期にだ。また、オリンピック選手はワクチン接種を優先して受けられることになっている。
オリンピックに伴う来訪者の数は、できるだけ切り詰めたとしても、選手とその関係者、メディア、各国要人、ならびにスポンサー関係の「招待客」を含め数万人規模になるといわれており、当然ながら、これに対応する国内スタッフ、ボランティアのも必要になる。政府は無観客を示唆しているが、都内の公立校ではオリパラ観戦が行事として組み込まれたままだ。変異株によって、未成年者の感染も増えてきている、
こうした状況を考えると、オリンピックによって膨大な人が移動したり密になったりすることは間違いないだろう。感染者増のリスクもそれだけ増大することが見込まれる。
★ コロナ禍の五輪自体が矛盾
一般市民にとってオリンピックは、コロナ感染リスクおよび感染してもまともに治療してもらえないリスクを高めるイベントになってしまっている。たとえコロナで死亡しないとしても、重篤な後遺症を残す可能性も高い。こうした生命の危機を肌で感じることが増えたのか、世論調査ではオリンピック中止を求める声は過半数に達している。
オリンピックが開催されれば、選手はコロナ感染のリスクに晒されことなく自分の夢を追求できるが、一般市民はコロナ感染リスクを増やされる。オリンピックが中止になれば、コロナ感染リスクはとりあえず増えることなく、医療や行政のリソースをコロナへと集中的に傾けることができる。一方で選手の夢は絶たれる。
これは極度に実存的な対立であり、構造上絶対に和解できない政治的対立なのだ。もちろん構造的な対立でも、その構造を変化させることによって弁証法的に解消させることは、論理の上では可能だ。しかし医療を含む各種リソースを搾取せずにオリンピックを開催することはできない。たとえば選手がワクチンの優先接種を拒否したとしても、開催するのであれば受けてもらうしかない。
そもそも世界的な感染症が蔓延しているときにオリンピックを開催すること自体が大きな矛盾なのだ。その象徴が、公道での実施が中止になったため閉鎖された駐車場のような場所を笑顔でぐるぐる回るだけの、あの薄ら寒い聖火リレーなのだ。
この期に及んで、なぜオリンピックを中止できないのか。それはオリンピックがアスリート・ファーストのイベントだからではなく、オリンピックというイベントが極度に資本主義化されてしまい、もはや止めることができない自動機械になってしまっているからだろう。電通は、今回の東京オリンピックを開催するにあたって、スポンサーの一業種一社ルールを撤廃した。その結果、日本の経済界はメディアも含めてオリンピックに群がり、人々を巻き込んで、制御できない怪物をつくりだした。
いまさらオリンピック中止といえない人たちは今、開催の正当化に躍起になっている。内閣官房参与の高橋洋一は、日本のコロナ感染者数を、他国と比べれば「「さざ波」笑笑」と表現した。この程度でオリンピックを中止すれば、世界の笑い物になるというのだ。しかし問題は他国との比較ではない。現実の日本で、無視できない数の人々がコロナに感染していることなのだ。
★ 利用される選手
オリンピック選手に選ばれた頃から、池江選手はオリンピックの正当化を図る人たちにとって都合の良い正当化材料に使われてきた。オリンピック反対派が池江選手に辞退あるいは反対表明することをお願いするずっと以前から、「池江選手のためにもオリンピックを開催しなければいけない」という主張や、「池江選手の前でオリンピックに反対できるのか」という挑発が、オリンピック賛成派によって行われてきたのだ。
オリンピックのアイコンとして巻き込まれる選手に対しては、同情したくなる気持ちもわかる。しかし一方で、オリンピック選手は市民と、上述した構造的敵対関係のうちにあり、選手たちはその事情を理解したうえでオリンピックの側に立っていることも事実だ。
確かにオリンピックの是非について、選手を中心に議論したり、直接的に選手を巻き込んで議論したりするのは、イベント資本主義の象徴と化スポーツ大会の問題を追求する上では本質的な問題ではないのでやめたほうがよいかもしれない。しかし一方で、いかに一選手といえども、現状でのオリンピックの開催について全くの無関係、無関心でよいということにもならない。
もちろんスポーツ選手にとってオリンピックに出たい気持ちがあること自体は非難すべき事柄ではない。だがそのことによって、オリンピックの中止を望む世間と何らかのコンフリクトが生じる可能性があることは甘んじて受け入れるべきだ。選手の気持ちについても、オリンピック中止を求める人が特権的に配慮しなければならない事柄でもない。
スポーツの政治化が悲劇であることは間違いない。しかし一方で、この世の中で本質的に非政治的なものも存在しないのだ。
<参考記事>仏ル・モンド紙が指摘した東京五輪「変異株の祭典」、「鉄の癒着三角形」とは
https://www.newsweekjapan.jp/imai/2021/05/post-8.php
<参考記事>東京五輪アメリカ代表ユニフォーム、「金持ち白人」的すぎる問題
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/05/post-96279.php
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