< 財団法人 理化学研究所 > ●1917年(大正6年)に渋沢栄一を設立者総代として 皇室・政府からの補助金、民間からの寄付金を基に「 財団法人理化学研究所 」を東京都文京区駒込に設立。 ●1924年(大正13年)には理研の作業収入の8割をビタミンAが稼ぎ出す状況であった。ビタミンAの1カプセルあたりの製造原価は1〜2銭だったが、これを10銭で直接販売して暴利を得ていた。 ●1927年(昭和2年)に、理研の発明を製品化する事業体として理化学興業を創設し、大河内が自ら会長に就任した。理化学興業と理化学研究所は工作機械、マグネシウム、ゴム、飛行機用部品、合成酒など多数の発明品の生産企業を擁する理研産業団( 理研コンツェルン )を形成してゆく。 ●1939年(昭和14年)の理研の収入370万5000円のうち、特許料や配当などの形で理研産業団各社が納めた額は303万3000円を占めた。その年の理研の研究費は231万1000円だったので、理研は資金潤沢で何の束縛もない「科学者たちの楽園」だった。のちに理研コンツェルンの事業を継承した会社にはリコー等理研グループと呼ばれる企業群がある。 ●1937年(昭和12年)に仁科芳雄研究室が日本で最初のサイクロトロンを完成させた。1943年(昭和18年)に大型サイクロトロンを完成させた。 ●1941年(昭和16年)、陸軍の要請を受け、仁科芳雄が中心となって原子爆弾開発の極秘研究( ニ号研究 )を開始。 ___その後、急に研究自体にストップが掛かり・・・・、 仁科の弟子であった湯川秀樹は、「 ヨハンセングループ( 大本営 ) 」からの要請でマンハッタンに、仁科研究所の研究成果( 中間子理論 )を売り渡し、巽工業製のウラン濃縮用遠心分離機の提供とともに、米国の原爆製造が実現に漕ぎ着けた__という経緯がある。その功労賞として、戦後スグに、湯川にノーベル賞が贈られた。
そのワケが・・・、 ______________ ●マンハッタン計画において、ディロンの社員として現場で核兵器開発を指揮したのがデイヴィッド・カーママンである。カーママンは、広島、長崎に投下する核兵器製造の専門家であると同時に、ニューヨークでディロン社の兵器を販売する商社カーママン&ウィットキンを経営していた。 ●カーママン社は、カーママンと昭和天皇ヒロヒトが共同で設立した兵器商社である。天皇はこの商社を通じ、日本軍の使用する兵器を敵国・米国から密輸し、その販売利益を「 天皇個人の財産 」として、スイス銀行の口座に密かに蓄財し続けていた。 ●天皇はディロン社の日本代理人であり、第二次世界大戦の武器密売で利益を蓄積した武器密売人であった。天皇と同じ会社ディロンで「 働く 」カーママン。商社カーママン社を天皇と共同経営する「 天皇の同僚 」カーママンが、広島、長崎へ投下された原爆の製造担当者であった。 ______________ ・・となっている。
●1946年(昭和21年)、太平洋戦争終結とともに連合国軍最高司令官総司令部の指命により理化学研究所、理研工業( 理化学興業の後身 )、理研産業団は解体され、仁科研究室のサイクロトロンも海中に投棄された。公職追放された大河内に代わって仁科芳雄が第4代所長に就任。 ●戦前は理研コンツェルンと呼ばれる企業グループ( 十五大財閥の一つ )を形成したが、太平洋戦争の終結と共にGHQに解体された。1958年(昭和33年)に特殊法人「 理化学研究所 」として再出発し2003年(平成15年)10月に文部科学省所管独立行政法人「 独立行政法人理化学研究所 」に改組された。2015年(平成27年)4月「 国立研究開発法人理化学研究所 」に名称変更。 ______________ 中華大陸・満州で行われていた731部隊の人体実験なども、戦後の、ミドリ十字や北里研究所に引き継がれていった過程と同じような経緯・中身が存在している。天皇財閥( 旧皇族 )+インフラ財閥( 三菱・住友三井、以下 )+アカデミズム各研究機関、はいつの時代も連動して動いている__というコトだ。
STAP細胞事件も、実際には、なにが起こっているのかは、まだハッキリしていない・・。
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