26. 2015年12月22日 19:34:43
: GCai6QIacs
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盛り上がりに欠けた国会デモ国会が安保法制を採決したことにつき、野党は「民意を無視した」「民主主義を破壊する行為」などと批判の声を上げた。確かに、報道番組の多くは安保法採決を批判的に論じたし、不安を口にする民間人の言葉ばかりを紹介する番組もあった。また参議院での安保法採決前の主要各紙の世論調査でも、「審議不十分」「今国会で成立させるべきでない」との意見が多く、しかも、2015年8月30日には国会周辺の安保法制反対デモに12万人もの人が集まったという(主催者発表)。このようにマスコミの論調、世論調査結果、デモの規模などから見ると、「安保法制反対」が民意であるように見える。 野党も「民意は安保法案に反対である」とし、それでも強行採決しようとする自民党を厳しく批判した。さも自分たちが国民の意思を代弁しているかのように振る舞った。 ところが、実際には国会前デモは2015年8月30日をピークに徐々に人数は減っていき、2015年9月19日未明に参議院で採決が行われた時には、1000人程度しかいなかったという。法案成立後も各地でデモは行われているが、2015年8月30日の規模を超えたことは1度もない。与党が衆議院を通過させた時点で、本当に国民が激怒していたなら、参議院通過までの間に、日に日に規模が拡大していくのが自然であろう。少なくとも60年安保や70年安保のような盛り上がりはなかったのである。 そもそもデモの規模が、主催者発表の12万と、マスコミ報道では大きな隔たりがあった。朝日新聞は「最大デモ」としつつも「警察関係者によると、国会周辺だけで参加者は約3万3千人」と伝えたし、産経新聞も上空からの写真にマス目を掛けて算出し「多くても3万2千人程度」としている。 確かに、国会前に何万人も終結することなど、そうあるものではなく、それは反対意見が大きいことを示しているが、「それが民意だ」という見方には首をかしげた人は多い。その1人、大阪市長の橋本徹氏は、2015年8月31日に投稿したツイッターで「デモは否定しない」としつつも、「デモで国家の意思が決定されるのは絶対にダメ」「こんな人数のデモで国家の意思が決定されるなら、サザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主的だ」と述べている。これは橋本氏一流の皮肉であるが、確かに今年(2015年)行われたサザンの全国ツアーの東京公演では、初日だけで5万人を動員したというのだから、国会前の3万人よりは遥かに規模が大きいと言える。 デモが国政を動かすのは民主的なのか しかし、そもそも、デモが直接国政を変更させたとしたら、果たしてそれは「民主的」と言えるだろうか。 日本では表現の自由が認められているため、法令の許す範囲で、自らの政治信条を訴えることは問題ない。だが、日本は民主主義を是とする法治国家であり、民意を反映させて国会意思を決定するプロセスは、憲法以下法令で細かく規定されているのだから、そのプロセスに従って淡々と国家意思を決めれば「民主的」なのである。それ以外の方法で国家意思を決定し、あるいは変更させたとしたら、それはむしろ「民主主義を破壊する行為」ではないのか。 デモが政治を動かすことを「民主的」と言い得るのは、民主主義がない国でのことに限られる。例えば、中華人民共和国や香港、もしくは中近東で起きた民主化デモは、民主主義を勝ち取るための実力行使であり、民主主義の仕組みが出来上がっている日本とは事情が根本的に異なる。 日本では、力が政治を動かす時代は幕末の戊辰戦争で終わっている。それ以降、西南戦争、2・26事件、5・15事件など、クーデターは全て未遂に終わっているし、政治家が暗殺されることで国政が変更されることもなくなった。デモで政治を動かそうとすることは、中国やロシアがしている「力による現状変更」と同じようなものではないかと思う。国会前のデモをしている人たちは、「民意を踏みにじるな」「民主主義を破壊するな」などと叫んでいたが、もし彼らの望み通りに成功してデモが政治を変えたなら、今度は彼らが「民主主義の破壊者」となることに気付いていない。 しかも、国会前デモは道路使用許可を申請していなかったという。また国会前での拡声器使用は法律で禁止されている。「憲法守れ」と叫んでいる人たちが、法律を守っていなかったという笑えないオチまで付くのである。 一連の国会前デモでは、学生団体シールズの活動が注目され、大学生たちがマイクを握って熱い思いを語る姿が連日報道された。テレビを見ていると、大勢の若者が国会前に集結しているように思えるが、実際は違う。私は何度も国会前に足を運んだが、高齢者が大半を占め、若者の姿などほとんど目にすることはできなかった。要するに多くのメディアは学生のいる所の映像ばかりを、恣意的に流していたのである。 3万人が国会前に集まったというのは、それ以上でもそれ以下でもない。それをもって「民意」だと言い切るのは間違いである。国政は「選挙」によって動かすのであって、決して国会前「占拠」で動かすものではない。 安保法案が参議院で可決された直後に、シールズの中心メンバーである奥田愛基君が「選挙に行こう」と呼びかけたと報道された。奥田君が最後の最後になって初めてまともなことを言った。そう、国政を動かすのは「選挙」なのである。 「民意」を何から知るか 安保法案の審議を通じて、「民主主義とは何か」ということを疑問に思った人も多いだろう。国会前に集まった人数が民意でないことは述べた通りだが、世論調査も民意とは異なる。 確かに法案の審議中、各社世論調査では安保法への批判意見が圧倒的に強かった。しかし、参院を通過して可決した直後に各社が行った世論調査の結果を見ると、あまり内閣支持率は落ちていない。主要紙で一番低い数字を公表した朝日新聞ですら、35%だった。そのうえ、2015年10月になると、TPP合意が評価されたようで、内閣支持率は大きく躍進し、読売新聞が46%、朝日新聞ですら41%を叩き出した。もし国民が安保法成立に激怒していたら、わずか1カ月で内閣支持率が跳ね上がるだろうか。 また、安保法成立直後の各社世論調査によると、朝日新聞は安保法に「賛成」が30%(「反対」が51%)、産経新聞が「評価する」が38.3%で、毎日、読売、日経は朝日と産経の中間に入る。つまり、安保法支持の割合は内閣支持率より低く、これは、安保法には反対だが、別の理由で内閣を支持する人も一定数いることを示している。しかも、朝日新聞のいう数字を賛成と反対の比で示すと、37対63。大雑把に言えば、賛成と反対は4対6の比率ということになる。安保法に対して根強い批判があったことは確かだが、成立直後の朝日新聞の世論調査でも、「圧倒的に反対」とは言えない。「反対が優勢」と言える程度であって、国論は大きく2つに分かれていたというのが正確なところであろう。 世論調査の結果は、各社ばらつきがあるだけでなく、人によって重視する点が異なるため、主要法案の支持率が必ずしも内閣支持率と一致するものではなく、また時間と共に変化するのである。そんな世論調査を「民意」と決めつけることはできないであろう。 では民意とは何か。民意(国民の意思)とは、国民が理性をもって行動した時に選挙結果や国会の決議に表れるものである。「理性をもって」というのが重要な部分である。いくら選挙が行われても、有権者が理性を失い、自己だけが得する方に皆が投票してしまったら、正しい国政は行われない。我が儘をいくら集めても巨大な我が儘になるだけであり、それは国民の意思ではない。国民の意思とは、個人の意思の総体ではないのである。 国家の意思は1つであるから、最後は国民の意思も1つにしなくてはならず、それは選挙で選ばれた国会議員が国会で審議して可決することで確定する。だがそれとて、国民の意思と同じであると「推定」されるに過ぎない。その判断が真の国民の意思に合致するかどうかは、歴史が判断することである。つまり、選挙結果ですら、真の国民の意思と完全に同一ではない。ルソーは「一般意志は常に正しく、常に公の利益を目指す」と述べているが、「一般意志」こそが、時のデモや世論調査で決まるものではないはずである。 我々有権者は、選挙結果が真の国民の意思と同じになるように、謙虚に努力を重ねなくてはいけない。私利私欲を捨て、公の利益を目指して行動しなければいけないのである。日本国民の大半がこのような見地に立って行動するようになった時、本当の民主主義が完成する。 国会前デモに価値があったとすれば、民主主義を考える契機となったということだろう。
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