22. 2015年6月14日 15:39:49
: BRuRmJdtYk
輿水の場合 日本語で社会に物を言う人は共通の文法と表現法の価値観にも責任を持たないといけないのは当然だ。ネットブロガーが個人商店的経営は当然だし、それ自体はどこからも文句の出るところではない。では何が問題となるのか?言葉は法的性質を持つ。法律の公式な成文法も言葉で表現される。 言葉が特定の価値を正確に規定してしまう性質を持つのはご存じの通り。 また言葉は、個人の価値体系の秩序に即した表現になる。 自分はこうだと思うとして、言葉と文法表現の工夫で、狙いの価値の表現をするわけだ。自分だけの範囲内での言葉による価値観の扱いに関しては、殆ど自由だろう。 しかし、社会的な価値観の領域で特に、判断を誤れば、大きな損害出るような対象への断定的な主張の場合、完璧な裏付けがあって、即座に全体を納得させられるような場合でなければ、断定&\現は、使えない。 狙いとしては「社会的にこれが正しい見解であって間違いはないというところ」の一般的な公の社会に対しての発言が問題なのだ。それはこうであるべきで態度や考えを修正しろという方向の表現だからだ。それが体をなしているならば、即座に多くの人は納得できようが。 そこで問題になる場合とは何か? たとえば今日のネットの言論の場合は第一にミス・リードだろう。 一応社会に成人としての社会的価値観の責任を共有しているという立場から物を言い、相手の話を聞く、ということだ。 「食べて応援」にリードされるのかよ、となった場合の反応がわかっていない。そこでの疑問に納得のいく回答もそれぞれに用意されていない。断言なら、そうすべきなのに。 そこで、の社会的な問題に対しての問題提起や解決案提示というような表現の場合は根本的に同じ方向性の人の間では「全否定・全肯定」ということにはなりにくい。「部分否定・部分肯定」ということになる。これが相場だと思われる。 「良い部分は何々…、悪い部分は何々…」という表現で、同一方向の中では、根本的な相手の価値観とその判断能力等の全面否定は無くなり、通じ合う回路≠ヘ残せるのだ。つまり後の関係の継続は有ると言うことだ。 どうでもよいこと価値≠ノ対してのミス・リードなら、誰も反感も持たないし、関心も無い。しかし、福島第一原発事故を対象としての無害断定≠ヘ異質である。 その異質さの「燃料棒はなかった」裏付けが、八割原発反対の共有価値観の持ち主の誰も納得させていない。異質側からそうした努力もしようとしていない。千万人単位の人間だろうが、それで平気なのだ。そこでの平気は不要の平気だろう。 一番痛いところはこの「異質放射能被害見解」と「高評価金融マフィア抵抗」とを今後も輿水は、確信的にひとつの抱き合わせで行くつもりの様子だと言うことだ。ふつうの感覚の人間ならば考えられないところだろう。 まあ最後の判断は自分が決めること。 もう周囲からは一応の話も出尽くしたことだろうと思う。当然に工作員の対立拡大、分断扇動の的となろう。 「見解の相違ですね」というところを越えて「おまえ等全員は根本から馬鹿だ」と言い続けるならば、現在は多数いるはずの「馬鹿見解かつ支援者達」も、自然と離れていくだろう。 常軌を逸してしまい冷静な判断が何年も継続して続けている愚かな人間が日本には多数いて、それが「放射能こわいこわい」というパニックに陥った錯乱人間らしい。 「放射能燃料など一本もなくて、小型核爆破と人工地震海底核爆破だけなのに、放射能拡散というデマが狙いの大嘘芝居の馬鹿騒ぎに乗せられて、哀れな奴等が千万単位いて、みんな常軌を逸して、簡単に軽くあおられてこわいこわいと現実の分析もできない情けない小物の阿呆ばかり」と世間様全般に対しての継続的発言いうのは失礼だし、無理がある。しかも善意助言も拒絶すると言うことだ。まあ、一人の人間の中でこれほどの大きな矛盾が同居している例は知らない。 こういう見方を、911等を本当に勉強して成果上げ始めている人たちもいるのに、全面否定で、パニック人間として馬鹿にしていたら、最悪の悪手と言って良いだろう。 輿水は国民八割の共通見解の人間は、途方もない放射能騒ぎの全部が全部何もなかった空騒ぎ芝居なのに、揃って現実の総ての情報の精査分析の能力を欠き、整合性も達成できない馬鹿だと言っているのだ。 自分とそして同じ見方のだけが絶対に正しいと。だから反対の論証も見もしない。 別に腹は立たないが、稚拙さに、腹が立つのだ。 無用の敵をわざわざ、おそらくは偏見による不要の言葉で作ってしまう性癖なのだろう。悪意のない善意の人間を時に敵視して叩く理由もわからない。 おまえ等全員はパニック錯乱中のまともな判断も出来ない阿呆だと、言うわけだ。 「日本を恐怖に陥れていいる半分の放射能は忘れてしまえよ、傀儡売国権力叩きだけやればいいのさ」「福島原発事故は核爆弾以外の放射能はなかったことを認めて忘れよう」そうして「権力批判不正選挙裁判の主張は、みんなに聞いてほしい」ということなのか?パニック錯乱中の物事のわからないことにされたままの多数の人々であれば、ずっと馬鹿にされつつ私の御高説を拝聴しなさいと。 個人商店店主から国民待望のビッグなリーダーにと期待したが「少々言葉の荒い矛盾も問題発言も多い基本は善良素朴かつ個性的な個人店主」、で居続けていてほしい人間のようだ。期待がかかったとはいえ過大評価も良くないのだ。 こうした指摘なら工作員と誤認されて、感情的な侮蔑と拒絶が返るばかりだろうが、それで大人の話が通じ合うとは考えにくい。 まあ、原発事故関係以外では、そこそこ良質な雑貨商品は揃う店ではあり続けるのだろう。それは必需品としてニーズがある。そういう道なのだろう。 飯山は最初は輿水を評価していたのだ。 輿水の無用の「こわいこわい」で反感を持ったと言うことだろう。このタイプの人は多く当然の成り行きだ。 別に「見解の相違は相違」のままでよくて、なにも「こわいこわい臆病者」「パニック錯乱人間」は、余計なのだ。 そうですか、私の見解とは違いますねと。 たとえ相手が本当のパニックだったとしても、馬鹿にしたり拒絶したりすべきところではなくて冷静に丁寧さを失わず「他の方々の意見は一応は承知してます。けれども私とは見解の相違ですね」を繰り返せばいいだけのこと。 パニックという言葉は相手がパニックの自覚がないのにパニック決めつけで、発言否定を繰り返されたら、ふつうハラをたてるだろう。 本当に元営業マンなのか疑わしい。 この安易な余計が、自分にも周りにも他者にもどういう危険になるのか輿水にはどうでい良いことのようだ。人を指導する立場の人は、言葉は注意すべきところと、みな知っていることなのだから、輿水は個人商店店主より上はいかないだろうという見方が妥当だ。それならば福島県の子供達に甲状腺ガンが異常に増加していることに鈍感でも問題はないだろう。そういう目でみればよいだろう。
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