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日本人は謝罪が好きである。
韓国であやまり、中国であやまり、東南アジアであやまり、太平洋諸島であやまる。
会社であやまり、家庭であやまり、学校であやまり、テレビであやまる。
悪い事などしていなくてもあやまる。人の為に尽くした後にもあやまる。謝ることを満期にした暁には褒美にでもありつけるのではないかと思わせるほど謝ることに対して完全に自分を開ききった謝りっぷりである。謝り教の信徒かといいたくなるくらい積極的かつ能動的に謝る。
日本人は謝ることに一切の妥協がない。いつでもどこでも、どういう理由でもとにかく謝る。
あやまることに王国を築こうとしているのではないかと疑いたくなる。正直の押し売り、まごころの安売り。そんなに謝ってどうする?
夏季五輪に平アヤマリという種目があったら日本勢の圧勝だろう。冬季五輪ならどうかというとやはりライバルなどいるわけがないから、アヤマリ―ングは日本のお家芸に定着決定だ。
謝罪教という国教を背負った日本人。なんでそんな趣味みたいに謝り、三度の飯の数だけ謝り人生を謝意に全うするのか?
敗戦がいけなかったのか?否。謝罪教のバイブルとされる島崎藤村の破戒(主人公が何もしていないのにとりつかれたように謝りまくる話。)は常勝明治時代の作品である。日本人は富国強兵の最中にもすすんで土下座を日課にしていたのである。
よっ、世界一の謝罪民族ジャパニーズ!!!
どうせ謝るのなら、やはり高いスタンダードで謝罪第一の謝罪振興を目指して生きていくべきである。謝罪教の法人化も必至だ。
謝罪教の教祖。その代表といえば誰だろうか?村山トミイチはいなくなったし、焼肉酒家えびす社長もインパクトがイマイチ。この男の顔をみれば謝罪が思い浮かぶという謝罪のプロ、謝罪の象徴は誰だろうか?
いたー、思い出したー
オウムの井上嘉浩だ。これほど出てくる度に義務のように謝罪をしている男はまずいないだろう。まさに謝罪=人生という日本人の鏡である。
謝罪のエリートだけあって、井上嘉浩(ヨッシー)はTV初登場ですでに百点満点の謝罪を披露している。
何も悪いことはしていないのに、ひたすら謝る。これこそが謝罪の模範演技である。
ヨッシーは逮捕と同時に謝罪と反省をはじめた珍しいオウム幹部であった。常に謝罪への最短距離にいた謝罪予備のチャンピオンでもあったということである。これでこそ謝罪教の教祖ではないか。
逮捕されるやいなや、他の信者へ脱会を呼び掛けるびっくりするくらいの変わり身の早さもさることながら、ヨッシーはそれから20年間、まるで早押し謝罪クイズの防衛戦でもやっているかのごとく、率先して謝罪ばかり繰り返してきたのである。今年(2015年)にも、新年そうそう新たな謝罪で自己の謝罪記録を塗り替えた。
そんで、何を謝ったのかというと— 最後のオウム逃亡者といわれた高橋克也の裁判に証言人として登場したヨッシー。「私が彼の上司であったので、彼のやったことは私の責任です」という謝罪だったらしい。そんな解釈は誰も聞いていないし、法的に争うことでもないのに、どうしても謝意を表明して点を稼がないと気が済まないヨッシー。
江川紹子(早大卒、初体験は20代後半)はそんな彼を精神分析してこう言っている。「十代の頃に教祖に気に入られるために必死で良い子になろうとしていた井上君は、今でもまったく同じピュアな十代の精神で今度は司法・法曹人相手に良い受刑者でいようとふるまっている。人格的な成長が子供のまんまストップしている」と。
それで何がいけないんだ。謝罪の基本はドラマ「ひとつ屋根の下」で江口が言っている通りである。「幼稚園で、悪い事をしたら謝れって教わりませんでしたか!」。謝罪は無垢でピュアでなくてはいけないものなのだ。別の言葉でいえば〇障、失礼なことをいわせるな。
ウィキによると、井上嘉浩は京都市の出身であるらしい。京都というと早稲田界隈を除けば全共闘学生運動が一番さかんだった街であり、その後も共産党員が知事をやっていたような全国的にみても異常なサヨクの巣窟である。おそらくヨッシーは、サヨクまみれの環境で育ち、サヨク教師達から謝罪教の手ほどきを受けて良い子に育ったのだろう。日本人は悪いのだ、日本人は謝り続けるべきなのだ、と。
現在、同じく東京拘置所においてタダ飯に甘んじる元オウム幹部、ミラレパこと新実智光氏。彼はヨッシーとは正反対の信念を通している。「今の世界は間違っている。悪業の中で腐敗した人類を救済するには武力革命しかなかったのだ。教団はエスタブリッシュメントに敗北したが間違ってはいないし降参する気などさらさらない。代々木公園で、私と尊師を公開処刑にしてくれればいい。」
それでもだいたいのオウム受刑者は謝罪をして深く反省を表明した。その謝罪レースにおいて、井上嘉浩は抜きんでていた。謝罪真理教というスピンオフ企画では、古株を抜いてファイナル・ステージまで上り詰めてしまった感がある。謝罪マシーンに徹するために、いわなくていいような証言をしたり、もう死刑を受け入れて悔悟の日々を送っている仲間の些細な記録を掘り返して心情を無視した訂正をおこなったりするなど、暴走気味とさえいえるだろう。
それでもヨッシーは誰も止められない。謝罪戦士ヨッシー。謝罪長官ヨッシー。藤村『破戒』を金字塔とした原因の未明な謝罪(Shazai)こそが日本が世界に誇る精神財産であり、明らかに日本が世界をリードする病理、否、文化行為なのである。
I am Yoshi. Je suis Yoshi. Ich bin Yoshi. 私はヨッシー
メディアに登場するたびに謝罪教を布教するヨッシーへの賛同者はこれから増えるのであろうか。世界に広げよう謝罪の輪!とスローガンは全国を駆け巡るのだろうか?オリコンでは「謝罪を知らない朝鮮人(シナ人)」がヒットするのであろうか?「謝罪をするために人を殺しました」なんていう自白が三面記事を飾る日も近い?
私はもし面会する機会があったなら、ヨッシーにこういってやろうと思うのだ。「いやあわざわざすいません、反省中に申し訳ない、手ぶらでごめんなさい」これで私も謝罪王。
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