中国の"恥部"が暴露され、欧米は大フィーバー毛沢東は「周恩来が同性愛者である」ことを知っていた 2016.1.15(金) 高濱 賛 周恩来元首相(ウィキペディアより) 習近平にとって「周恩来の醜聞」はすでに時効?「周恩来はゲイだった」――。 ショッキングな本(中国語)が香港で発売されている。発売と同時に欧米メディアの香港特派員が一斉に報道、すでに英訳が進められているらしい。 著者はいい加減な人ではない。香港のリベラル派雑誌「開放」の編集長だった女流ジャーナリスト、蔡詠梅。 1948年四川省成都に生まれ、80年代に香港に移住。「香港時報」の論説委員などを経て92年から2014年まで「開放」編集長を務めた。1989年の天安門事件の際には1か月にわたり北京で取材活動を続けていた。 お断りしておくが、本コラムではこれまで英語で出た新刊書を紹介してきた。今回の本は中国語。筆者の語学力では歯が立たない。 そこで知人の米香港特派員から得た情報を基に取り寄せた本書の問題部分を在米中国人に英訳してもらうというまどろっこしいプロセスをとった。 The Secret Emotional Life of Zhou Enlai(周恩来的秘密情感世界) By Tsoi Wing-Mui(蔡詠梅) New Century Press(新世紀出版社), 2015 おそらく英訳本が出るとの想定、しかも出れば確実にベストセラーになるとの考えてのことだ。その意味では「番外」ということになる。 ワシントンのチャイナ・ウォッチャーの1人によれば、「周恩来がゲイだった」という噂話は専門家の間ではこれまでにも何度か指摘されていたらしい。 ところがそれを立証する決定的証拠がなかった。だがこれはあくまでの建前論だ。 中華人民共和国の「建国の父」の1人である初代国務院総理(総理大臣)周恩来の名声を傷つけるのを嫌った学者やジャーナリストたちは自己規制していたのだろう。 あるいは同性愛者の存在を認めない中国共産党歴代指導部による「事実上の検閲」がそれを許さなかったのかもしれない。 だとすれば、習近平体制を批判した本を出版発売した香港人が次々と拘束されているのに、なぜ本書が発禁処分を受けていないのか。 中国共産党の同性愛者に対するスタンスが変わったのか。習近平体制にとって「周恩来の醜聞」はすでに時効と考えているのか。 「恋人」への想いを日本留学中に書き留める 本書発刊にまつわる疑問は疑問として、本書が発掘した「証拠文献」をじっくり読んでみると――。 今回、蔡詠梅が見つけ出したのは周恩来が97年前に書いた日記だ。 この日記は「周恩来旅日日記下巻」に出てくる。実はこの日記は1952年に一度公開されたことがある。ところが当時は一切問題になっていない。 日記が書かれたのは、1918年。周恩来の日本留学中に書かれたものだ。 周恩来は天津の南開中学卒業後、1917年に日本に留学。一高を目指すが日本語の習得不足で受験に失敗し、東亜高等予備校を経て明治大学政治経済科に進む。当時19歳。 周恩来には当時、中学時代に知り合った李福景(リー・フジン)いう2歳年下の「恋人」がいたのだ。 「ここ数か月、朝な夕なのそよ風、雨が窓を叩きつける。そして咲き乱れる花。すべてが郷里に残した家族のことを思い起させる。そして弟のヒュイ(李のニックネーム)のこと。たまらなく寂しい」 周恩来は何度となく、李に日本に留学するよう勧めるが、李は香港大学に行くことを決める。 「私の心は激しい痛みにおののいている。すべての幸せが突然音を立てて崩れてしまった。そのショックは、まるで背中から冷水を浴びせられたように、私は気絶してしまった。その悲しみをあらわす言葉すら見つからなかった。空虚さの中をさまよった。夜も一睡もできなかった。自分自身が惨めだった」 周恩来が強硬に香港行きを諦めさせた結果だろうか。李は香港行きをやめて、周恩来とともにフランス経由でロンドンのマンチェスター大学に留学する。 周恩来はエジンバラ大学行きを決めるが、経済的理由から叶わず。結局、英国から生活費がいくらか安いフランスに移り住む。そこでフランスに結成されていた中国共産党に入党、ソ連が拠出していた学費を受けてフランスでの留学を続ける。 欧州で2人の間に何があったのか、プラトニック・ラブだけに終わったのか。その辺は分からない。日記にも記載されていないし、2人が交わした書簡も見つかっていない。 しかし青雲の志を抱いて外国留学中の19歳の男がなぜ年下の青年に恋い焦がれていたのか。周恩来の持って生まれた同性愛的欲望の表れか。 その一方で周恩来は欧州留学中に中国共産党の同志の1人、トウ(登、右こざと)穎超に送った絵葉書の中で求婚している。2人の間にはいわゆるロマンティックな感情はなく、どこまでも共産主義革命を達成させる同志愛しかなかったのだろうと、著者は書いている。 周恩来が毛沢東に上座を譲った理由は? 著者が投げかけている疑問。それは毛沢東は周恩来がゲイだったことを知っていただろうか、という点だ。 「もし毛沢東がそのことを知っていたとしたら、2人の関係に影響を与えていたのだろうか。周恩来は自分がゲイであることを毛沢東に知られないように必死だった。もし知られたら自分の地位も名声も一篇に吹き飛んでしまうと思ったのではなかろうか」 確かに中国共産党の歴史を振り返ってみると、1930年半ばまで党の序列的には周恩来の方が毛沢東よりも上にいた。 しかしその後、毛沢東はカリスマ性と人心掌握術をフルに使ってトップの座に就き、1966年から始まる文化大革命へと突き進む。その間、周恩来は毛沢東の信任をつなぎ留め、失脚もしなかった。まさに「不倒翁」だった。 そして毛沢東は、1976年ガンで逝去した周恩来を追うようにその9か月後に他界している。 元国務省次官補代理(東アジア太平洋担当)でスタンフォード大学フリーマン・スポグリ国際問題研究所客員研究員だったドナルド・カイザーは本書についてこうコメントしている。 「私が大学院の学生だった1970年から72年にかけて周恩来がゲイだという噂や伝聞は聞いていた。ゲイではないにしても異性愛者ではないとは言われていた。ハンサムだし、学生時代には中国古典歌舞伎では女形を演じていた」 「革命期には自宅に100人以上の男の子を引き取っていたこともある。ゲイ説は反共の台湾などでも頻繁に流されていた時期がある。一般論として儒教思想では男色はご法度だった。かと言って古い中国の歴史には男色は存在していた」 確かに、『書経』『韓非子』には諸侯が美少年に親しむことを禁ずる禁忌の1つとして出ている。中国人はそれをこれまで否定し続けてきた。 その意味であの周恩来が同性愛者だったことを中国人が暴露したということで欧米人は騒いでいるのだろう。が、それで偉大な革命家、米中国交樹立の立役者である周恩来の名声が地に落ちるわけでもあるまい。 著者はメディアのインタビューに応じ、こう述べている。 「本書を書く前、正直言って周恩来という男はあまり好きでありませんでした。あまりに格好良すぎて・・・。でもこの日記を見つけてからというもの、何か人間的で、自らの欲望に正直に生きているというか、それを誰にも見られないと思っていた日記に書き記している青年・周恩来が好きになってしまいました」 (文中敬称略 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45765
|