1. 中川隆 2015年6月29日 07:40:43
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日本と中国の間にある尖閣列島は歴史的にも、支那地方の政府が支配したことがなく、日本の明治政府が歴史的に初めて領土宣言をしているから、領土問題は存在しない。 「領土」というのもが、「どの政府も領土していない」ところを、どこかの政府が領土宣言して、それが10年もどこからも異論が出なければ確定する. その後、100年ぐらいして文句をつけたら、戦争の火種を作るだけで意味がない.もしそれができれば、日本は「今の中国は全部、日本の領土だ」と言っても良い. そんなことを認めたら、国際的に決められている領土は、またかつての帝国主義時代のように「力のある国がかってに人の領土をとる」ということになって問題がある。 http://takedanet.com/2010/09/post_6962.html 尖閣諸島は中華人民共和国の領土では有り得ない
我が国は尖閣諸島を中華民国からも清朝からも、尖閣諸島を奪ったものではありませんが、奪った奪わないの議論以前に中華人民共和国が成立後にその国が一旦領土とした部分から何も取っていないのは時間軸から見ても明らかです。 後から出来たアメリカ合衆国が、元はインディアンがこの辺にも住んでいたからと言ってカナダや中米地域までの領有を主張するのはおかしなことです。 尖閣諸島を我が国が領土化したときには中華人民共和国はなかったのですから、何故中華人民共和国の領土から盗めるのか、論理矛盾も甚だしい主張となります。 中華人民共和国による尖閣諸島領有の主張は、仮に日本が実力で奪ったというのが正しいとしても、中華人民共和国がの国が出来る前のことですから、今のイタリアが古代ローマ帝国の版図を基準に今のフランスやギリシャやエジプト、トルコ等に侵略されていると主張しているようなことになります。 領土を返すべきかどうかは第二次世界大戦後秩序以降に限るとしても、そもそも中華人民共和国建国前に遡るならば、彼ら中華人民共和国自身が、今の領土を戦後の1949年に武力で中華民国から奪ったものですから(チベット侵攻=併呑も建国後のことです)中華民国やチベットに返すべきでしょう。 http://www.inagakilaw.com/asof/wordpress/2012/10/19/ 占領されると領土が拡がる中国 http://blogs.yahoo.co.jp/mozugoe/1090122.html
支那という地域を理解するのに、まだまだその歴史を勉強しなければならない。それはまず、この地図だ。
http://blogs.yahoo.co.jp/mozugoe/GALLERY/show_image_v2.html?id=http%3A%2F%2Fimg3.blogs.yahoo.co.jp%2Fybi%2F1%2Fc1%2F4f%2Fdaikitighost%2Ffolder%2F946722%2Fimg_946722_21472677_1%3F20101229014034 この地図は歴史家・宮崎淳子先生が画かれたもので、中華民国ができた時の支那地域の支配図である。もともと中華民国ができる前の国が「清」だったが、清は満州族の国家で、モンゴル、新疆、チベットとの「連邦国家」だった。
清の前の王朝である明が周辺諸国に嫌われ、清は良い状態を保ったのは、清が連邦国家だったからで、「清の領土」というけれど、モンゴル、新疆、チベットは広い自治権が認められていたし、満洲はもともと宗主だから、別格だった。
このような経過があったので、清の終わりの袁世凱や、孫文が中華民国を作った時には、その支配は「昔の秦」の領域だった。ここで少し歴史的な地域分配を見てみよう.
http://blogs.yahoo.co.jp/mozugoe/GALLERY/show_image_v2.html?id=http%3A%2F%2Fimg3.blogs.yahoo.co.jp%2Fybi%2F1%2Fc1%2F4f%2Fdaikitighost%2Ffolder%2F946722%2Fimg_946722_21472677_2%3F20101229014034
まず最初に「統一国家」を作った秦であるが、揚子江を中心として北は黄河、南は南シナ海、西は山で囲まれた地域に支配圏があったことがわかる。秦という国がチャイナという国名の元であり、それが漢字で支那と書かれることはすでに書いた。
それから後、新しい王朝は支配する地域が少し違うけれど、おおよそ秦の領土に近い。たとえば、秦からかなり年代がたった明は結構、領土が広かったが、それでも次のような図になる.
http://blogs.yahoo.co.jp/mozugoe/GALLERY/show_image_v2.html?id=http%3A%2F%2Fimg3.blogs.yahoo.co.jp%2Fybi%2F1%2Fc1%2F4f%2Fdaikitighost%2Ffolder%2F946722%2Fimg_946722_21472677_3%3F20101229014034
秦に比べて少し山岳の方に入っているけれど、そのほかは同じだ。東と南ははともに海だからあまり検討する必要はないが、問題は「北」である。秦の時代も明の時代も北からの異民族の侵入が特に怖かったので、その防御のために万里の長城をつくった。
万里の長城を作ったのが、秦と明だったのはそれほど偶然ではない。秦は漢民族が「統一国家」を作った時にフト気がつくと「北」だけが危ないことがわかり、秦の始皇帝が「万里の長城」を作った。
明の時には国家を作った人にも北方民族の血がかなり流れていたが、それでも当面、元が北に帰った後の土地をもらったと言うこともあって、やはり北が怖かった。そこで北京のすぐ北に万里の長城を作ったのである.
「万里の長城」というのは「国境」だから、支那地域の北の領土は万里の長城という事は確定している.
その北にはモンゴルと満州がある。中国の歴史で今のところ大失敗しているのが、満州民族だ。中国というところは普通の常識では考えられないことをする。
たとえば、「漢人は漢人を平気で殺す」ということで、たとえば前漢の末には国民に4人に3人が殺された。
中国人は何でも食べるというけれど、時によっては人間も食べた.約束を破る、裏切るなども普通に行われるが、それを日本人の倫理観で考えてはダメで、人間は動物だから、動物のように「その時の自分に得になるように動く」のが摂理でもある。
「尖閣諸島はもともと日本の領土だ」などと言ってもムダで、「尖閣諸島が何も無ければ日本のもの、資源があれば中国のもの」というのが中国流の倫理観なのである.
そんな倫理観の支那に満州人が侵入した。それが「清」で、大いに繁栄して、モンゴル、新疆、チベットとも連邦を組んで、大帝国をつくった。モンゴルの時代を除けば、中国で歴史的な「最大版図」になったのである.
ところが、不思議なことが起こった。
清朝はもともと満州族が作ったのだから、支那は満州に占領されていたのが清朝だ。その清朝が衰えて、満州に帰った。そして、もともと漢の時代に「中国」の領土だった「支那(秦、china)」の地域に中華民国ができた。
その次に驚くべき事が起こったのだ。
それは「中華民国」が「満洲は俺の領土だ」と言ったことだった。中華民国は支那の国だから、武力があれば支那を統一するだろう。それは秦や明が万里の長城から南を領土にしたのと同じだから、「支那は中国人の固有の領土」と言っても不思議ではない。
ところが、満洲はずっと満洲人の領土だから、満洲人が支那地域を占領していたのを引き上げて、満洲に戻ったのだから、満洲は支那ではない。満洲が支那を占領していたのだから、満洲が支那を「領土」と宣言することはあるが、占領されていた支那が満洲を領土にするというのは「世界の常識」から言えば「逆」である。
たとえば、次のような話をすればさらに理解が深まる.
豊臣秀吉が朝鮮に出兵して北京まで進軍しようとした。日本では「そんなことはできなかった」と思う人が多いだろうが、さすが豊臣秀吉だ。支那の地域は漢から三国時代が終わると、支那には人がいなくなり、次々と北方民族が占領していたのだ。だから、「支那の北方民族の一つの日本が北京を占領する」というのはごく普通のことである.
そして日本軍が朝鮮を占領し、さらに駒を進めて北京から揚子江ぐらいを占領したとする。しばらくは秀吉も生きていて、大陸の占領が成功したので、首都も中間の平壌に移したが、100年ぐらいして大陸にも興味が無くなり、日本軍は日本に引き揚げたとする.
占領された支那は新しい王朝ができる。そうすると、奇妙な論理が登場するだろう.それは、「日本は中国だ」ということである。
支那を満洲が占領した。しばらくして満洲が支那を放棄して故郷に戻ると、支那は「満洲は中国だ」と言った。
もし、日本が支那を占領し、しばらくして支那を放棄して日本に帰ると、支那は「日本は中国だ」と言っただろう.
つまり、武力にも工業にも頼ることができない支那の人はそれなりに生きるすべを身につけていた。それは
「自分のものは自分のもの、他人のものは自分のもの、自分の土地を占領した人の土地は自分のもの」
という「なんでも自分のもの」という主義である。
これを中華思想という。 http://takedanet.com/archives/1013800787.html
中華思想
昨年、中華思想とは「自分が中心で周りは属国」ということで、周囲の国を尊敬するどころか、鮮卑とか、凶奴とかいうようにひどい名前をつけて「呼び名でさげすむ」というのが特長で、そして、やがてその「さげすんでいた人」が力をつけて「自分の主人」になると、さすがに主人をさげすむ訳にはいかないので、「同列」にする。つまり、さげすんでいた人の領土を自分の領土と同格に格上げして、その土地を自分の土地にするという思想であることを述べた。 (ややこしいので、一度、読んでも分からないぐらいだが・・・)
つまり中華思想での「格上げ」というのは「満洲の人に占領されたから、満洲は支那の領土になる」ということになる.現在の満洲が支那の領土になっているのは、「支那が満洲を占領したから」ではなく、逆に「満洲が支那を占領したから」である。
でも、このような巧妙な事を実施するには作戦がいる。タダで人の土地を手に入れるのだから戦略はかなり高度でなければならない。
普通は戦争で土地を手に入れるのだから、それと比べれば、平和主義といえば平和主義だ.
まず、第一に文化程度を高めておくことだ。常に田舎者が東京に来て恐れおののくようにしておくということと同じである.
支那の国に行くと「祖先はこんなに偉かった、墳墓の大きさに驚いたか!。こんなに綺麗な飾り物がある、この絹は素晴らしいだろう。美味しい中華料理も、女性も綺麗でエレガントだ・・・」と続く。
それには大きな宮殿もいるし、宮殿までの道路も広くて両側には虎の彫り物も欲しい・・・ということで「支那の文化」ができた。
今でも、日本から支那に行く陽気で単純で偉い人は、これにすっかり引っかかる。みんな笑顔で迎えてくれるし、美味しいご飯は食べられる.万里の長城も宮殿の素晴らしく「さすが、中国4000年!」と感激して、日本の技術をソックリ差し上げてくる人もいる。
だが、もともと支那の歴史は2000年、それも中抜け、虐殺、属国の歴史だが、それらは全て、隠されている.
なかなか、素晴らしい作戦だ。
つまり、支那の文化は「負ける文化」であり、「負けても繁栄する」という戦略をもっている。だから、「勝つ文化」、つまりヨーロッパの文化が清の時代にやってくると支那はこと軍事力ではひとたまりもなく破れた。
そこで、清王朝はそれまでの支那文明とはまったく違う文明を受け入れた.
日清戦争で支那が日本に負けて「支那文化」を捨てたということが岡田英弘先生の本に書かれているが、それはそうだろう。小さな属国と思っていたところにいとも簡単に負けてしまったからだ。
でも、その時に捨てたのは政治、軍事、社会、技術などであり、中華思想は捨てていない。だから、「勝つ国」が、「負けても勝つ中華思想」と一緒だからややこしくなっている。
もう一つの中華思想の戦略は、「ウソを記録する」という方法である.
「過去に起こったこと」を記録するときに、「できるだけ事実に忠実に記録する」という方法と、「自分に有利になるように記録する」というのがある。
事実だから事実をそのまま記録すれば良いじゃないかというけれど、人間の社会というのはそれほど単純ではない.たとえば2010年に日本と中国の間で起こった尖閣諸島問題でも、少し前から日本の図書館から古い地図が抜き取られているという事件がある。
日本と中国の間には古くからいろいろな歴史がある。それがそのまま残っていると中国には不利な記録もあるが、それを早く消してしまえば、新しく「作り上げた歴史」を書くことができるからだ。
だから、日本と中国、朝鮮の古地図に関係するところが無くなっている.だれが破ったり盗んだりしているのか分からない。普通に考えると、関係する中国か韓国の人が自国に有利になるように歴史を消しているとも採れるし、逆に日本人が中国や朝鮮に対して圧力をかけようとして謀略をしているのかも知れない。
事実はかくのごとく複雑であり、なかなか明確には分からないのである.だから、その間隙をついて、「歴史を自分の有利なように書き換える」というのはきわめて単純な「だまし」の方法になる.
言ったことはそのうちに消えるし、事実そのものも分からなくなる。でも、書いた物はそのまま残るので、書いた方が勝ちであることを支那は知っていた.
「王朝を開いた皇帝はこのように英雄であり、人格が高かった」、「周囲の野蛮な国を平定して国に平和をもたらした」、「中興の祖の**帝の時に最大版図になった」というような事であり、そして地図にはその王朝の「最大版図」を記録して、後は捨てる.
そうすると、あたかもその王朝の領土は「最大版図」であるような錯覚に陥る.
たとえば、前漢や後漢の領土として知られている地図は、「平均的な領土」でもなければ「固有の領土」でもない。もともと「国境」がハッキリしていないのだから、「固有の領土」なるものはない。「書いたが勝ち」で最大版図がその王朝の領土であったことになる.
先に豊臣秀吉の大陸攻撃と、もし秀吉が北京に首都をおいたら日本は中国に編入されているということを書いたが、日本と中国の常識がいかに違うかを、今度も領土について示してみたい。
http://blogs.yahoo.co.jp/daikitighost/GALLERY/show_image_v2.html?id=http%3A%2F%2Fblogs.c.yimg.jp%2Fres%2Fblog-c1-4f%2Fdaikitighost%2Ffolder%2F946722%2F13%2F21898913%2Fimg_1%3F1294836007&i=1
この地図は「大日本帝国」の「最大版図」である。今の日本は自虐的で、かつ世界の孤児だから、このような地図を示すと「侵略を正当化するのか!」と叱られる.でも、中国は常に「最大版図」しか示さないことに注意すべきである.
支那の王朝の「領土」をもし日本の教科書に書いてあるように示せばこのようになるということで、それを叱っても意味がない.日本の思想で日本国を示せば、南は千島から北は沖縄になるが、中華思想で示せば、大日本帝国の時の最大版図になるということだ。
中国人が日本人なら、この地図の「色分け」はしない。もともと日本領土だったところ、朝鮮と満洲、フィリピンなどを色わけすると、そこは日本とは違うように見える.
ところが、全部を同じ色で塗って、「日本」と書けば、何回か見ている内に「ほんとうの日本はこんなに大きかった」と錯覚する.
それが今の中国と言っている領土の範囲なのだ。
それではなぜ歴史学者が、支那の王朝の領土を「事実」に基づかずに「公的に示された最大版図」を示すのだろうか? それは中華思想そのものにある。つまり、人間は自己の責任を問われるのを恐れるから、「お墨付き」のあるものを使いがちであり、それが間違ったものでも使っていると本当になるという深い考えが含まれているからである.
筆者は自然科学者としてよく経験しているが、科学の専門家でも、専門が細かく分かれているので、自分の研究対象以外のところは「当たり障りなく、公的なデータ」を使いたがる傾向がある。
最近見られるその典型例が「地球温暖化が起こっていて、原因は人為的に排出されるCO2」という「社会現象」である。もちろん温暖化もCO2も自然科学なのだが、現実にデータを持ち、研究をしているのは一部の気象学者と地球物理学者、それに温暖化に興味のある学者だけである。
そのほかの人は自然科学者も含めて「大勢の人が言っている」とか、中華思想的な場合は「公的な方が正しい」と判断している。
つまり、「ウソでも公的に記録されれば現実になる」という中華思想はけっこう人の認識の弱点を巧みに突いている.
まとめると、
1.自分と同じになれば他人のものは自分のもの。だから占領される毎に領土が増える.
(普通なら「取られた」と思うがその反対)
2.人は「事実」より「公的に記録されたもの」を真実と錯覚する。だから事実が何かを調べる必要は無く、公的に記録すればそれが事実になる.
なかなか巧妙な思想である.
ここに書いたことは、中国を批判しようとか、日本の占領を正当化しようということではまったくない。中国を理解するためには、日本の考えを離れて、中国人の見方を取り入れなければならないということである。 http://blogs.yahoo.co.jp/daikitighost/21898913.html
正論を言えば
千島列島は日本の領土ではなくアイヌ人固有の領土 尖閣は日本の領土でも中国の領土でもなく、台湾先住民固有の領土 まあ、アメリカインディアンがニューヨークは我々固有の領土だから返せと言っても相手にされないけどね。
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