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5月27日の朝6時30分に“長江(揚子江)”の観光遊覧船「“東方之星”」は江蘇省の省都“南京市”北部の“栖霞区”にある“五馬渡碼頭(五馬渡埠頭)”に到着した。これは東方之星にとって今年3回目の五馬渡埠頭への接岸であり、翌28日には乗客を乗せて出航する予定だった。今回の航行は、南京市から長江を上流へ遡り、風光明美な三峡を経て重慶市までの約1800キロメートルを11日間かけて沿岸の観光地を順次巡るものだった。
東方之星は重慶市“万州区”に本部を置く国有企業「“重慶東方輪船公司”」(以下「東方輪船」)が所有する観光遊覧船で、乗客の数に応じて南京・重慶間を不定期に運行するものだった。東方輪船は1967年に創立された長江の水運会社で、当初は貨物輸送を行っていたが、その後旅客輸送に転じ、今では重慶・南京間の観光遊覧船の運航を本業としている。その所有する船は、主として外国人観光客を対象とする豪華客船“東方大帝”、国内観光客を対象とする客船“東方之珠”、“東方之星”、“東方王子”、“東方皇宮”、“迎賓3号”の5隻、計6隻で構成されている。船名に“東方”を冠する5隻は重慶市から“文明船(マナー船)”の認定を受けており、年間の旅客輸送数は延べ8万人を超えている。
東方輪船は傘下に“重慶東海旅游有限公司”、“成都東海旅行社有限公司”、“宜省中長海旅行社有限公司”という旅行業者3社を持ち、これら3者を通じて長江遊覧の観光客を集めている。5月28日に五馬渡埠頭を出航する東方之星の旅程は次のようになっていた。
1日目(5月28日):南京市の五馬渡埠頭を出航
2日目(5月29日):安徽省“安慶市”に停泊し、市内観光
3日目(5月30日):江西省“湖口市”に停泊し、“石鐘山”および“九江”観光
4日目(5月31日):湖北省“武漢市”に停泊し、市内観光
5日目(6月1日): 湖北省“赤壁市”に停泊し、赤壁古戦場を観光
6日目(6月2日): 湖北省“荊州市”に停泊し、荊州古城を観光
7日目(6月3日):湖北省“宜昌市”に停泊し、市内観光
8日目(6月4日):三峡の“香渓峡口”に停泊し、三峡の景色を観光
9日目(6月5日):三峡の“巫峡”に停泊し、三峡の景色を観光
10日目(6月6日):重慶市“豊都県”に停泊し、“鬼城”を観光
11日目(6月7日):重慶市の“朝天門埠頭”に到着
5月28日午後1時、東方之星は南京市栖霞区の五馬渡埠頭を出航して、終点である重慶市の朝天門埠頭を目指して11日間の航行を開始した。この時、東方之星に乗船していたのは、旅客405人、旅行社のガイド5人、乗組員46人の合計456人であった。旅客405人は各地からの観光客で、その地域別内訳は、上海市:97人、江蘇省:204人、浙江省:11人、天津市:43人、福建省:19人、安徽省:8人、山東省:23人であった。また、46人の乗組員の構成は、船員が、船長:“張順文”、一等航海士:3人(“譚健”、“程林”、他1人)、操舵手:3人、甲板長:1人、水夫:3人、機関長:“楊忠権”、1等機関士:1人、2等機関士:1人、3等機関士:1人、給油係:3人(“陳書涵”、他2人)、電機係:1人の計19人、旅客部門が、マネージャー:1人、責任者:1人、放送係:1人、班長:1人、サービス係:9人、作業員:14人の計27人であった。
ところで、東方之星による長江航行11日間の旅の料金はいくらなのか。東方輪船と提携している上海市に本拠を置く“協和旅行社”がネットに掲載していた三峡観光ツアー広告には、観光遊覧船で南京から重慶まで上る11日間のツアー料金は最低998元(約2万円)、逆に重慶から南京まで下る11日間のツアー料金は最低1298元(約2万6100円)となっていた。ニュースサイト「澎湃新聞」が協和旅行社に取材したとして報じたところによれば、最低の998元は6人1部屋の三等船室の“上舗(2段式ベッドの上段)”の料金であり、一般的な2人1部屋の一等船室は2898元(5万8400円)/人であり、最も高い特等船室は1部屋で6888元(約13万8700円)なのだという。
協和旅行社のツアー広告には「長江沿岸8省を巡り、三峡の全景を心行くまで堪能する観光遊覧船11日間の旅」とあったが、最低の998元では1日当たりの料金はわずか約91元(約1800円)に過ぎない。この91元の中にどのような食事が含まれていのかは分からないが、それにしても998元の料金では観光遊覧船と聞いて連想するような豪華な旅でないことだけは確かである。ちなみに、豪華客船「東方大帝」による重慶から宜昌まで4日間のツアー料金は、最低1600元(約3万2200円)であるから、11日間で998元という料金がいかに安いか分かると思う。
一方、456人が搭乗する東方之星とはどのような船なのか。東方之星は“普通客船”に分類されるもので、1994年2月に東方輪船が所有する船舶修理建造工場で建造され、1997年と2004年に改造された。乗客の定員は534人(一等寝台:44人、二等寝台:184人、三等寝台:306人)である。船体の構造は、全長:76.5メートル、肩幅(最長幅):11メートル、型深さ(船底から上甲板までの距離):3.1メートル、喫水:2.5メートル、総トン数:2200トン、純トン数(旅客用スペースの容量):1320トンである。1994年建造であるから、すでに就航から21年経過しているが、法律で義務付けられている客船の廃船期限である30年にはまだ到達していない。
話は本題に戻る。長江の観光遊覧船は、昼間は観光地に停泊してその地の名所旧跡を見学し、夜間は長江を航行する。5月28日午後1時に南京市の五馬渡埠頭を出航した東方之星は、上記の日程に沿って、29日安慶市、30日湖口市、31日武漢市と航行を続け、6月1日の早朝に赤壁市へ到った。朝5時1分、赤壁市の埠頭に停泊した東方之星から降りた乗客たちは7時30分から8時頃には観光名所である「三国赤壁古戦場」を訪れて見学して回った。見学を終えた乗客たちは次々と東方之星へ戻り、東方之星は午前11時38分には次の目的地である荊州市へ向けて出航した。当日の天気は今にも泣き出しそうな空模様だったが、出航して間もなくすると雨が降り始めた。時間が経つうちに雨脚は次第に強まり、夕方6時頃には稲光が走り、風が強まり、ついには暴風雨になった。夜7時頃には“湖北省中心気象台”が“気象災害4級緊急対応命令”を発したのだった。
東方之星は激しい風雨を突いて長江を遡上し一路、次の停泊地である荊州市を目指した。ますます強まる風雨の中を東方之星は航行を続けたが、9時過ぎには長江の“監利段(監利区間)”とよばれる湖北省荊州市に属する“監利県”の流域に差し掛かっていた。篠突く雨は激しさを増し、風は吹き荒れ、空には稲光が走り、長江の波は逆巻き、船体は大きく揺れ動いた。
5月28日に東方之星と相前後して南京市の五馬渡埠頭から出航した観光遊覧船“長江観光1号”は、6月1日の10時頃に東方之星より1時間半程先行して赤壁埠頭を離れた。但し、暴風雨の影響を少しでも避けるべく、長江観光1号は通常より速度を落として慎重に航行したため、午後9時19分に監利区間で東方之星に追い越された。長江観光1号の船長は風雨を避けるために、9時9分から16分までの7分間および9時20分から10時23分までの63分間、錨を下ろして船を停止させたが、東方之星は停止することなく、暴風雨に立ち向かうかのごとく航行を続けた。長江観光1号の船長は前方を行く東方之星を確認していたが、風雨に煙っていたこともあり、東方之星は次第に見えなくなり、視界から消えたという。
それもそのはずで、9時23分に東方之星は突然バランスを失って船体を傾かせ、豪雨で水量を増した流れに押されて180度以上転回し、そのまま逆走する形で下流へ流されたのだった。下流へ流される間に船体の傾きはますますひどくなり、それから7分後の9時31分に東方之星は転覆して沈没したのだった。当時船内の乗客はその大部分が船室に鍵を掛けて就寝中であり、突然の衝撃と冷たい水の流入に動転したことは想像に難くない。東方之星に乗船していた456人は誰もが助かろうと必死の努力をしたと思うが、無情に流入する水は次々と人々を呑み込んで行った。そこに待っていたのは無念の死であった。
上述した長江観光1号の船長は、東方之星が視界から消えたので無線で呼びかけを行ったが、応答がなかったことから、東方之星は後方へ後退したものと解釈し、10時23分に錨を上げて航行を再開したという。監利区間の川幅は約1キロメートルであり、2回目の停止中であった長江観光1号と転覆沈没した東方之星の距離は約500メートルあった。周囲は時折光る稲光を除いては漆黒の闇であり、しかも激しい暴風雨の中では、長江観光1号が東方之星の所在を確認することは到底できないことだった。
天津市からやって来た乗客の“呉建強”(58歳)は妻と同じ村の8人と共に東方之星に乗船した。6月1日の夜9時20分頃、呉建強が妻と一緒に一等船室の421号室で就寝しようとしていた時、突然に船が傾いて水が船室へ流れ込んで来た。水圧で彼は窓際まで押し流されたし、妻は倒れて来たベッドに押し倒された。妻を助け起こした呉建強が、ベッドを動かそうと妻から手を放した瞬間に、呉建強は強い水流に押し流され、気付いた時には船の外にいた。そこは岸まで約150メートルの所で、呉建強は激しい流れと闘いながら十数分泳いで岸に上がった。岸から振り返ると、稲光に照らされて、転覆した東方之星が沈みつつあるのが見えた。それから長江の岸辺を30分程走って人影を見付けて、通報を依頼したのが東方之星転覆沈没事故の第一報であった。
こうして救援活動が始まったが、救助されたのはわずか14人に過ぎなかった。救助された14人のうち氏名が公表されたのは9人だけであったが、その中には乗客3人(上記の呉建強を含む)と旅行ガイド1人の他に、驚くべきことに何と船員が5人も含まれていた。その5人とは、張順文(船長)、楊忠権(機関長)、譚健(一等航海士)、程林(一等航海士)、陳書涵(給油係)である。張順文と楊忠権の2人はすでに“公安部”によって拘束されて取調べを受けているが、どうやら張順文と楊忠権は救助された時に救命胴衣を着ていたようなのである。さらに、彼らは9時23分に東方之星が傾き始めてから2分後には船から脱出したようで、船内に非常警報を出すことも、乗客に救命胴衣の着用を呼びかけることも、乗客を誘導することも、船の指揮官としての義務を何一つ果たさないまま逃げ出したものと思われる。
東方之星には、救命浮き輪:30個、救命胴衣:672個、児童用救命胴衣:27個が配備されていた。救命浮き輪は舷側周辺に配置されていたし、救命胴衣は各船室に旅客の数だけ配備されていたが、そのほとんどは利用されぬままとなったのだった。但し、これらが利用されていたとしても、果たしてどれだけの人数が生還できただろうか。事故発生後に公表された乗客リスト(乗客405人中の判明分305人)を分析した湖北紙「武漢晨報」が6月2日に報じたところによれば、305人の構成は下表の通りであった。
年令 | 人数 | 構成比(%) |
---|---|---|
3〜10歳 | 3人 | 1.0% |
30〜39歳 | 2人 | 0.7% |
40〜49歳 | 8人 | 2.6% |
50〜59歳 | 51人 | 16.7% |
60〜69歳 | 147人 | 48.2% |
70〜79歳 | 84人 | 27.5% |
80〜89歳 | 10人 | 3.3% |
この時点では残る100人の年令は判明していないが、305人の年令構成と同じと推定すれば、50歳以上が95.7%を占め、60歳以上では79%となる。中国ではプールが有る学校は今なお少なく、50歳以上の人で泳げる人は極めて少ない。さらに、中国の60歳以上の人は日本人と比べると外見上10歳以上老けて見えるのが常で、見るからに老人で体力的にも衰えている。これに加えて、長江の流れの速さがある。長江を見たことのある人は分かると思うが、遊泳中に溺れ死ぬ人も多い。いわんや長江は折からの暴風雨で水量が増し、波は逆巻いていた。たとえ救命胴衣を着用したとしても60歳以上の乗客たちが無事に生還できたかというと、その可能性は極めて小さいように思われる。
こうして見ると、乗員456人中の442人が死亡した東方之星の転覆沈没事故は、船長が無謀な航行をせず、長江観光1号の船長のように、激しい風雨に立ち向かうことなく、慎重に停船を繰り返してさえいれば、避けられたように思われる。風雨の激しい夜間で月明かりもなく、人里遠く離れた場所で事故が発生したことも要因であったが、転覆沈没という最悪の事態さえ起こらなければ、442人もの尊い人命は失われずに済んだはずである。
なお、長江では2015年1月15日にもテスト航行中のタグボートが、江蘇省内の“福姜沙北水道”で操縦ミスにより沈没する事故が起こり、22人が死亡した。死亡者には日本人1人を含む8人の外国人が含まれていた。長江流域では過去にも何件もの船舶の沈没事故が発生しているが、東方之星の転覆沈没事故は長江の水難史上最大の悲劇であった。
日中両国が本当の意味で交流するには、両国民が相互理解を深めることが先決である。ところが、日本のメディアの中国に関する報道は、「陰陽」の「陽」ばかりが強調され、「陰」がほとんど報道されない。真の中国を理解するために、「褒めるべきは褒め、批判すべきは批判す」という視点に立って、中国国内の実態をリポートする。