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【矢板明夫の目】中国で最も危険な職業は党政治局常務委員 タブーを破った習近平主席
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20150518/frn1505181804011-n1.htm
2015.05.18 夕刊フジ
酒の席で、中国人学者から「中国で最も危険な職業は何だと思う?」と聞かれた。すぐに思い付いたのが「炭鉱労働者」だ。当局の発表では毎年1000以上が死亡しているが、事故の隠ぺいと過少報告が多いため、実際はその数倍といわれる。死傷者で数えるなら1万人を軽く超えるだろうと考えた。
学者は首を横に振った。「中国には炭鉱労働者が100万人以上もいる。事故に遭う確率は、多く見積もって数%だ」と言った。正解は「共産党政治局常務委員」だった。
1921年に創建された中国共産党は今年まで、最高指導部メンバーである政治局常務委員に上り詰めたのは70人。そのうち、4月3日に汚職などの罪で起訴された周永康・前中央政法委書記をいれて、計27人が党内の権力闘争に敗れ、投獄されたり、迫害されたりして悲惨な人生の結末を迎えている。失脚率を計算すると約40%だ。「共産党の最高幹部たちは、毎日ロシアンルーレットで対決しているようなものだから、半分弱は生き残れない」と学者が言った。
中国共産党の歴史をひもとくと、まさにその通りだ。革命期は国民党軍などと戦いながらも、激しく内ゲバを繰り広げられていた。党が結成したとき、全国で57人の参加者がいたが、初代トップの陳独秀を含めてその後ほとんど追放され、死ぬまで共産党内での名誉を保ちつづけたのは毛沢東と董必武の2人のみだ。
新中国建国後も権力闘争の激しさは変わらなかった。毛沢東のライバルで、党内序列2位の劉少奇が失脚したのは国家主席を務めていた1967年だった。職務が停止され、執務室の電話線が切られて外との連絡が絶たれた。連日のように批判大会が開かれ、妻と共につるし上げられた。
ある日、毛派に指示された紅衛兵が家に乱入し、劉と家族に暴行を加えたとき、劉は「中国人民共和国憲法」を手にして「私はこの憲法に書いてある国家主席だ。あなたたちは今、国を侮辱している!」などと叫んだが、めった打ちから逃れることはできなかった。劉はその後も、過酷なリンチを受け続け、約2年後、軟禁先の河南省で非業な死を遂げた。
毛沢東が1976年9月に死去した。そのわずか1カ月後、毛の文化大革命路線に反対するグループが毛夫人の江青女史、毛から後継者に指名された王洪文・党副主席らを反革命罪で逮捕した。江はのちに自殺し、王は獄死した。
1989年の天安門事件以降、共産党内の抗争はしばらく沈静化した。最高幹部の失脚は25年間も起きなかった。1990年代までに中国を君臨した最高実力者の●(=登におおざと)小平が、党内抗争の激化を避けるため、「刑不上常委」(刑は政治局常務委員に及ばない)という言葉を残したためだ。江沢民、胡錦濤の二人党総書記は●(=登におおざと)小平の教えを守ったが、習近平主席になってから、そのタブーが破られ、周永康氏が逮捕、起訴された。
周氏が起訴された罪は収賄、国家機密の漏洩、職権乱用の3項目だ。収賄金額の大きさから死刑が言い渡される可能性もある。周氏の家族、親戚、元部下ら一族郎党はすでに300人以上が拘束されており、今後、逮捕者はさらに増え続けるとみられる。
党内で長年にわたり治安を担当し、警察と情報部門に大きな影響力を持つ周氏を失脚させることで、自らの権力基盤を固めたいのが習主席の思惑とみられるが、「次は自分も粛清されるのでは」と不安に思う長老も多くおり、党内で緊張感が一気に高まったという。
「やられる前に政敵を倒すしかない」と党内の実力者たちが束になって今後、習主席一派に逆襲する可能性もある。ある共産党関係者は「周永康事件をきっかけに、血で血を洗う抗争が再び始まる予感がする」と話している。
日本の永田町で繰り広げられる権力闘争で、いくら負けても命が取られたり、自由が奪われたりすることはない。みんなの党をつくった渡辺喜美氏は主導権争いに敗れ、党が解散されたが、昨年末の総選挙に無所属で立候補し、落選したものの、選挙区を走り回り、元気いっぱいに政策主張を訴え続けた。
その姿を獄中の周永康氏がみたら、日本の民主主義を羨ましく思うに違いない。
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