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「ロケット」打ち上げを見守る金正恩(2月7日) 共同通信社
金正恩の度重なる核暴走に韓国で「20年後の後悔」噴出
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160315-00000007-pseven-kr
SAPIO2016年4月号
北朝鮮が「水爆」と称する4回目の核実験や長距離ミサイル発射などで国際社会に軍事的威嚇を強めている。今年5月に予定されている36年ぶりの朝鮮労働党大会開催に向けた金正恩体制の“業績作り”と見られるが、北朝鮮の軍事的暴走を目の当たりにし、韓国の識者の間では「あの時、韓国がイエスと言っていたら現在の事態は無かったかもしれない……」と過去を悔やむ声が聞かれる。
1994年6月の北朝鮮をめぐる“核危機”に際し、米軍が計画した対北朝鮮軍事行動に韓国が「ノー」といって反対した話だ。時は金日成の晩年で、米国はクリントン大統領、韓国は金泳三大統領。北朝鮮の核疑惑が初めて国際問題化した時だ。
昨年11月に亡くなった金泳三元大統領(在任1993〜1998年)は生前、「1994年の核危機に際し、自分は米国が計画していた北朝鮮に対する軍事行動を阻止し国を戦争から救った」と自慢していた。当時、米軍は北朝鮮の寧辺地域にある核施設を破壊する軍事行動を計画した。その時のことが金泳三回顧録には次のように書かれている。
「6月17日未明、電話をしてきたクリントン大統領を厳しく追及した。自分が大統領でいる限り韓半島を戦場にすることは絶対にダメだ。あなた方は飛行機で空襲すれば済むかもしれないが、北は即時、休戦ラインから南の主要都市を一斉に砲撃するだろう。戦争は絶対にダメです。自分は歴史と国民に対し罪を犯すわけにはいかない、と……」
この時の朝鮮半島の“核危機”は、カーター元大統領の平壌訪問と「米朝ジュネーブ協定」で回避された。米国の軍事的脅威を金日成が恐れ、慌てた結果だった。
この協定では北朝鮮の核開発凍結と北朝鮮に対するエネルギー支援を約束した。米韓日など国際社会は見返りとして北朝鮮で原発(軽水炉)建設工事まで始めた。しかし結果的にはその後、北朝鮮の核疑惑が再燃し、協定は反故となった。
協定の裏で北朝鮮は密かに核開発を続けていたのだ。そして核実験を繰り返したあげく「核保有宣言」にまでいたった。米朝ジュネーブ協定はもちろん、その後の「6者協議」も核開発阻止にはまったく役に立たなかったのだ。この二つとも結果的には北朝鮮の核開発推進の隠れミノだったことになる。
それだけに「20年前のあの時、断固として北の核施設を破壊しておけばこんなことにはならなかったかも……」という声が出る。韓国の識者によると最近、ある国際セミナーでクリントン時代の米国防総省OBが同じような感想をもらしていたという。
北朝鮮が何にもまして恐がっているのは米国の軍事力である。朝鮮戦争(1950〜1953年)の際、首都・平壌をはじめ全土を徹底的に報復爆撃されたことが最大のトラウマになっているからだ。
金正日時代の2003年春、米国のブッシュ政権の主導でイラク戦争が起きた。イラクで米軍の軍事作戦が展開されていたころ、北朝鮮では2月から4月にかけ金正日の動静が途絶える「ナゾの50日」があった。
後に韓国の情報筋が明らかにしたところによると、この時、金正日は北部の白頭山の麓にある非常時の地下司令部にこもり、米軍のイラク攻撃を仮想体験していたという。金正日は「フセインの次は自分」だと、真剣に恐れたのだ。
金正恩の軍事的暴走は、大統領選に突入し対外的に動きが取れない米国の足元を見ながらの“駆け込み作戦”というのが平壌ウオッチャーのもっぱらの観測だ。そしてソウルでは、北朝鮮の核問題解決=核放棄には「やはり北のレジーム・チェンジ(体制変化)つまり“金正恩はずし”しかない」との声があらためて広がっている。
●文/黒田勝弘(産経新聞ソウル駐在客員論説委員
【PROFILE】1941年生まれ。京都大学卒業。共同通信ソウル支局長、産経新聞ソウル支局長を経て産経新聞ソウル駐在客員論説委員。著書に『決定版どうしても“日本離れ”できない韓国』(文春新書)など多数。
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