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ゼロ戦乗りを目指し海軍予科練へ入団した若尾さん
元特攻隊員だけど何か質問ある? 【第4回】若尾巌さんの場合(前編)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150101-00041554-playboyz-soci
週プレNEWS 1月1日(木)6時0分配信
元特攻隊として生きてきた男たちが、今あらためてリアルに人生を語るシリーズ連載。
年始にお届けする第4回は、人間魚雷として米軍にも恐れられた海軍の秘密兵器・回天の操縦員が登場。ゼロ戦に比べマイナーな回天だが、その実態はどうだったのだろうか。
「ゼロ戦に乗って国のためにやるんだ!」ーーそう思って予科練(海軍飛行予科練習生=航空搭乗員を養成する機関)へ入団した若尾巌さん(87歳)。しかし、若尾さんに与えられた任務は飛行機ではない、もうひとつの特攻作戦だった…。まずは、そんな若尾さんの幼少時代とは?
若尾 小さいときはガキ大将でしたね。学校では野球をやって、家に帰ってチャンバラごっこや戦争ごっこをやっていました。
―“戦争ごっこ”とはどんな遊びなんですか?
若尾 ふた手に分かれて、木の枝を小銃に見立てて「突撃ー!!」ってバンバン言っているだけですよ。ただ、私が子供のときは、兵隊さんが人気だったし、みんなの憧れでした。日中戦争が開戦したときも、提灯(ちょうちん)行列をやって「勝った、勝った!」と盛り上がっていましたよ。子供だったから、それは興奮しましたね。
―軍事教練とかも熱心に?
若尾 私は岐阜で育って、中学は名古屋まで通っていました。そこでは日露戦争を経験したおじいちゃんの配属将校がいて、それは厳しかったですね。でも、銃剣を着剣した三八式小銃を持たせてもらったときは、重たくて「これが本物か!」と胸が高鳴りましたよ。
―学校ではスポーツとかもやっていたのですか?
若尾 陸上をやって学校の代表になっていました。
―陸上ってことは、昭和15(1940)年に開催予定だった東京オリンピックを目指したり?
若尾 オリンピックは話題にもなっていませんでした。それより国防競技です。
―国防競技?
若尾 5人ひと組のチームで、手榴弾の遠投。2mの壁を越えたり、ほふく前進をする障害物競争などをやるんですね。あと小銃を担いで2000m走とか。ちょっとしたゲームですよ(笑)。私は足が速かったから、3年生のときから学校代表としてやっていましたね。
―昭和16(1941)年の12月8日。太平洋戦争が開戦した日はどこにいたのですか?
若尾 中学3年のときです。講堂に生徒が集められて校長先生から「開戦した」と報告がありました。ちょうど試験前で「試験がなくなるぞ!」って。開戦より試験のことでみんな浮かれていました。でも試験は予定どおり実施され、みんながっかりでしたよ(笑)。
―予科練の募集は学校で?
若尾 17歳のとき、昭和18(1943)年。朝礼のときに募集がありました。「これはいい機会だ!」と思いましたよ。当時は予科練をテーマにした歌『若鷲の歌』や、映画『少年航空兵』もあって自然に予科練へ憧れていましたしね。予科練の象徴でもある七つボタンの制服がカッコよかった。女性から見ても予科練の兵士たちは「ときめく存在だった」と、うちの奥さんが言っていましたよ(笑)。
―では予科練を即受験ですか?
若尾 「ゼロ戦に乗ってみたい。ゼロ戦に乗って国のためにやるんだ!」。その思いで予科練の試験を受けました。
―試験の難易度は?
若尾 試験は岐阜で2日間かけて行なわれました。身体検査から始まって、学力は全教科の筆記試験を行ないました。二次試験は広島の大竹海兵団でやって、ここでは体力測定もありましたね。
―どんな問題が出題されたんでしょうか?
若尾 科目がばらばらで、時事問題もありましたね。とにかくすごい量の○×問題が出題されるんです。試験時間内に最後までいけない出題量でしたよ。
―予科練の合格は郵送?
若尾 海軍省から電報が届きました。それはうれしかったですね。実は試験勉強もしていませんで、受かるとは思っていませんでしたから(笑)。
―予科練の訓練はどこで?
若尾 昭和18年の12月から奈良県で行ないました。天理教の施設を借りて兵舎にした所でした。畑を埋め立てて練兵場を造ったから、私が赴任したときは石がまだゴロゴロありましたね。そんな練兵場で闘球をやっていました。
―闘球とは?
若尾 ラグビーです。これが、海軍式なのでスポーツじゃないんです。ボールを奪い合うケンカなんですよ。体中が傷だらけでしたね。
―予科練でキツかったのは?
若尾 予科練は歩行が禁止なんです。移動は全部、駆け足。海軍で整列する場合は背の高い者から前列に並ぶんですね。だから、どうしても小柄な者は動きが遅いと上官に見られてしまう。そうなると、すぐ怒られるんですよ(笑)。バッターです。
―バッターとは?
若尾 訓練教官が「海軍精神注入棒」と呼ばれる硬い木の棒でお尻を叩くことです。これをやられると、お尻が痛いというかね、頭にジーン!って響く。2、3発もらったら失神しそうになる。
海軍ではすべてが連帯責任ですから、何か失敗をすると班単位でバッターを受けました。なので、モールス信号が苦手なのがいたら、休み時間にみんなで必死に教えましたよ。これは今の若い人にはわからない感覚かもしれませんが、連帯責任だからこその助け合いが戦友同士で生まれるんですね。
―食事はどうでしたか?
若尾 とにかく体ばかり動かしていましたから、何を食ってもうまかった。でも印象的なのは魚。ちゃんと骨が抜いてあるんですよ。
―量的にも満足でしたか?
若尾 当時、民間では珍しかった白米がね、丼で食べられるです。だいたい茶碗に4杯分ぐらい盛られていました。でも、もっと食べたいから、食卓番という配膳係のときは自分の飯だけ大盛りにして席に置くんですよ。
―食べすぎですよ!
若尾 でも、いざ着席して食べようとすると上官が「全員、席を1個ずれろ!」と。だいたいバレていましたね(笑)。
―休暇はありましたか?
若尾 昭和19(1944)年の夏に休暇があって、実家へ帰りました。地元の岐阜県じゃ、白い海軍の制服なんて珍しいですからね。それは目立ちましたよ。親戚の家に挨拶へ行ったり、母校で講演したり。ちょっとしたヒーローでしたね。ゆっくりできるかと思ったら、まったくくつろげなかった(笑)。
―憧れだった飛行機の訓練も始まったんですか?
若尾 予科練に入ってから3ヵ月後に操縦分隊に配属されました。ここでは地上に置いてある旧式の機体のエンジンを始動する訓練をしたり、グライダーを使った飛行訓練をやって「よし、これで飛行機の操縦ができる! ゼロ戦に乗れる!!」と喜びましたね。
―ほかにはどんな飛行訓練を?
若尾 飛行訓練はグライダーで終了でした。
―え!?
若尾 8月のはじめ頃に、講堂に総員集合になって、そこで上官から「もう貴様らが乗る飛行機は予定がつかない。しかし、新兵器が完成しているので、それに乗ってもらいたい」と発表がありました。そして紙が配られて、新兵器を志望する者は◎、志望しない者は○、どうしても飛行機に乗りたい者は名前のみを記名しろと。
※この続き、後編はこちら!
http://wpb.shueisha.co.jp/2015/01/02/41558/
若尾巌
1926(大正15)年9月9日生まれ。88歳。岐阜県出身。現在の愛知県立愛知商業高等学校在籍中に予科練を受験。航空機の訓練を受けるも、回天の搭乗員へ志願。広島県、山口県で訓練を続け、山口県の大津島基地で終戦を迎えた
(取材・文/直井裕太 構成/篠塚雅也 撮影/村上庄吾)
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元特攻隊員だけど何か質問ある? 【第4回】若尾巌さんの場合(後編)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150102-00041558-playboyz-soci
週プレNEWS 1月2日(金)6時0分配信
ゼロ戦乗りを目指したはずが、すでに日本には若尾さんが搭乗する戦闘機はなく“新兵器”の搭乗員が募集されはじめていたーー。ゼロ戦どころか、飛行機にすら乗れない状況で若尾さんがとった行動とは?
元特攻隊として生きてきた男たちが、今あらためてリアルに人生を語るシリーズ連載、第4回後編!(前編はこちら http://wpb.shueisha.co.jp/2015/01/01/41554/ )
ー「新兵器が完成しているので、それに乗ってもらいたい」と発表があり、志望の紙が配られ…。
若尾 どうやら飛行機に乗れないのは間違いなさそうな雰囲気でした。でも、「国に尽くすのは飛行機だけじゃない!! ほかの兵器だっていいじゃないか。死ぬ覚悟は予科練に入ったときにできている!」。そう思って新兵器を志願するに◎をつけて提出しました。私だけじゃなく、皆もだいたい◎で提出していました。
―このとき新兵器がどんなものだかわかっていたんですか?
若尾 まったくわかりません。ただ新兵器というだけで、飛行機ではないという感覚しかありませんでした。
―新兵器への搭乗を志願した後はどちらへ?
若尾 昭和19年の9月1日に予科練を卒業して、広島県の呉(くれ)基地に赴任しました。卒業した時点で特攻隊員になりました。
―呉といえば戦艦大和の母港ですよね。
若尾 呉のドックにいる大和を見ましたよ。周りの戦艦とは格が違うほど大きい。ビルみたいでした。当時は「これがあれば大丈夫だ!」と思いましたね。
―新兵器とはどこで初対面したんですか?
若尾 昭和19年の12月。広島県の暗号名でQ基地と呼ばれる基地(江田島市)から山口県の光基地に移動したとき、新兵器・回天を初めて見ました。
―あの人間魚雷と呼ばれる回天を初めて見た感想は?
若尾 回天の基になっているのは当時世界最高の性能を誇った九三式魚雷です。「これが新兵器か!」と士気が高まるのと同時に「これはよく考えられた優秀な兵器だな」と感心しましたね。
―実際に乗った感想は?
若尾 湿気はないですが、とにかくにおいが強烈でした。ガソリンがこもったような変なにおいです。内部の照明は豆電球のみ。でも、何回か乗ったら慣れましたよ。 回天の基礎訓練を終えて、昭和20(1945)年の6月には山口県の大津島の基地へ赴任しました。
―回天は訓練中の事故が多かったと聞いてます。若尾さんは事故を経験されたことは?
若尾 1回、回天が故障して海底に突っ込んだことがありました。
―どのように生還を?
若尾 推進器を空回りさせると海面に泡が出るんですね。訓練中は教官が乗っている追従艇が回天の後方にいますから、泡で合図を送っていました。
―追従艇の気配とか音とか感じられるんですか?
若尾 音だけ聞こえるんです。でも、なかなか近くまで来ない。結局、故障してから2時間半後に発見されました。潜水夫が回天の上部をコンコン≠ニやってきた。私は運がよかったんでしょうね。
―なかなか発見されないとき、回天内で遺書とかは?
若尾 耳を澄まして集中していましたから、遺書を書くとか余裕はありませんでしたね。死ぬとか考えるより、ただ救出されることを考えていました。
―若尾さんが経験した以外の事故はあったのですか?
若尾 訓練中に米軍のまいた機雷に接触した機体がありました。しかし、機雷の爆発と同時に上部ハッチが吹き飛んで、操縦員もそのまま射出されるという事故がありましたね。これで助かったんです。本当に運がいいですよ(笑)。
回天は事故が多かったと強調されがちですけど、私としてはそんなことはなかったと思います。訓練も劣悪ではなかったし、機体で問題箇所があったらすぐ改修されました。操縦員、整備員ともに士気も高かったですからね。
―休憩時間に戦友との交流は?
若尾 もう「早くうまくなりたい!」だけでしたから、ゆっくりお酒を飲んで戦友たちとダベったりとかはなかったですね。「回天で特攻して敵を確実に沈める」。特攻の恐怖より、それしか考えていませんでしたよ。
―瀬戸内海に面した山口県の大津島だと、8月6日の広島の原爆は見えたのですか?
若尾 ちょうど練兵場にいたら、広島方面の空が真っ暗になっていた。「広島で何かあったな!?」というのはわかりました。
この時期は毎日B29が飛んできて、近隣を爆撃していましたね。大津島は秘密基地だから反撃もできない。高射砲で反撃したら位置がバレますから。だから、B29を見るたびにしゃくに障りましたよ。
―この時期には敗戦を覚悟してたんですか?
若尾 当時は「相当追い込まれてはいるけど、負けることはない。回天で米軍の本土上陸を阻止する!」と思っていました。
―玉音放送は大津島で?
若尾 なんの告知もなく突然でしたね。ただ、初めて陛下の声を聞いて何を言っているかわからなかった。だから「まだまだやるんだ!」と解釈していた連中のほうが多かったですよ。上官から「終戦だ!」と言われても納得できなくて結局、8月20日まで訓練を続けていましたね。それぐらい士気が高かったです。
―「特攻隊は米軍に捕まってひどい目に遭わされる」というような噂があったのですか?
若尾 「米軍に皆殺しにされる」という風評がありました。だから制服や書類、そして写真も全部処分しました。回天も上層部が米軍に引き渡ししたそうです。私は呉まで行って、屋根のない貨物列車で名古屋へ帰りました。
―最後に、若尾さんから見た最近の若者とは?
若尾 若い人たちが体を持て余しているんじゃないかと思います。だから変な事件が起きる。学校以外にいろいろなことを教育する機関があればね、2年間みっちり心身鍛えられるような。何より集団行動を学べます。集団行動のなかで生まれる友情もある。連帯責任で総員修正ですから(笑)。徴兵じゃなくても、若い人たちがそういうものを学べるシステムがあってほしいと思っていますね。
若尾巌
1926(大正15)年9月9日生まれ。88歳。岐阜県出身。現在の愛知県立愛知商業高等学校在籍中に予科練を受験。航空機の訓練を受けるも、回天の搭乗員へ志願。広島県、山口県で訓練を続け、山口県の大津島基地で終戦を迎えた
(取材・文/直井裕太 構成/篠塚雅也 撮影/村上庄吾)
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