01. 2014年12月25日 22:08:07
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危険なイスラム過激派の拡大を止められないアフリカ イスラム国が急速に浸透する歴史的背景〜関係国はどう対応するのか(3) 2014年12月25日(Thu) 吉田 彩子 現在のサハラ・サヘル地域1におけるテロリストグループは、1990年代のアルジェリア内戦で活動していたグループに発している。 当時、GIA(武装イスラム集団、1992年に設立)と呼ばれるイスラム過激派テロリストグループが有名になり、その後1998年にはGSPC(Groupe Salafiste pour la Prédication et le Combat)と呼ばれるGIAの分派が設立された。 90年代から始まった北・西アフリカのテロリストの台頭 GSPCは2006年にアルカイダに忠誠を示すようになり、翌年からAQIM(al-Qaeda in the Islamic Maghreb、イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ)と名乗るようになった。 アルジェリアでも活発なテロ活動を展開したが、強力な治安機関の弾圧を受け、サハラ・サヘル地域(特にアルジェリア、モーリタニア、マリ、ニジェールそしてチャドの一部を含む国境付近)へ追いやられる形となった。 AQIMは、この地域に中央政府の力が及んでいないことを利用し、麻薬売買などの犯罪にも深く関わりながら、影響力を強めていった。その戦略の一つとして、AQIMの幹部たちはその地域出身の女性と結婚し、地域との関係を築き、コミュニティに徐々に溶け込んでいったことがあげられる。 例えばモフタール・ベルモフタール(MBM)2はマリ北部のアラブ系Barabicha族のリーダーの娘の1人と結婚し、地域をコントロールしている遊牧民族との関係を深めていった。 その後、MUJAO(英語ではMOJWA:西アフリカ統一聖戦運動、2011年に作られたAQIMの分派)やアンサール・ディーン(Ansar Dine:サラフィスト・イスラム過激派グループ3)などのグループが作られ、もともとあったトゥアレグ(遊牧民)独立運動グループの活動と一体となりながら2012年のマリ紛争へと繋がっていく。 1 サハラ砂漠南縁部に位置する半乾燥地帯。大西洋から紅海に及ぶ国々を含む。カーボベルデ、セネガル北部、モーリタニア南部、マリ、アルジェリア最南部、ブルキナファソ北部、ニジェール、ナイジェリア最北部、チャド中部、スーダン中部を含む。エリトリア、ソマリア、エチオピア、ジブチを加えることもある。 2 MBMはGSPC、そしてAQIMで活躍していたが、2012年12月に「イスラム聖戦士血盟団」(Les Signataires par le sang)として独立、2013年1月のアルジェリア(イナメナス)人質事件において犯行声明を出した。その後2013年8月にはMUJAOと合併し、「Al-Mourabitoune」を設立した。 3 リーダーのイヤド・アグ・ガリ(Iyad Ag Ghali)は1990–1995年のトゥアレグ独立運動における主要メンバー。 マリ紛争は、2012年1月17日、MNLA(アザワド解放民族運動、トゥアレグ独立運動グループ)とアンサール・ディーンが北部のマリ軍駐屯地を襲撃したことにより始まった。その後、ジハーディスト集団であるAQIMとMUJAOが加わり紛争が激化、複数の街がこれらの武装集団の手に落ちていった。 AQIMが各国政府のコントロールなしに国境を行き来し、様々な犯罪行為を繰り広げていたのはもう何年も前からのことであった。そこへリビアのカダフィ政権の崩壊によって武器と武装兵が流れ込み、マリ北部の反乱グループはマリ軍兵士たちの手におえなくなっていた。それが2012年3月のクーデターに繋がっていったのである4。 こうしたマリ国内の不安定な状況を利用し、トゥアレグ独立運動グループとイスラム過激派グループはそれぞれの主張そして要求を叫び、次々と活動地域を広げようとした。MNLAは2012年4月、アザワド独立宣言5を行なったが、その後、アンサール・ディーンとの同盟は破棄され、ほかのイスラム過激派グループとも交戦状態になっていった。 イスラム過激派の拡大阻止に動いたフランス こうして、イスラム過激派が北から徐々に南下していき、穏健なイスラム教徒であったマリの人々にシャリア(イスラム法)を押し付け、人々の目の前でむち打ちの刑を行うなどの残虐な光景がメディアでも多く報道されるようになっていった。 そして2013年1月11日、マリ政府の要求のもと、国連安全保障理事会の承認(国連安保理決議2085)を得て、「イスラム過激派の南下を防ぎ、首都バマコを守り、マリがその領土を保全する」との目的のもと、フランスのセルヴァル(Serval)作戦が展開された。 この軍事介入は議論を呼んだが、実際には、マリ軍はAQIMなど砂漠での紛争に慣れたテロリストグループに対抗するために必要な能力のある軍隊と装備を持っていなかったことが指摘されている。 また、フランスがセルヴァル作戦以前から、DGSE(Direction Générale de la Sécurité Extérieure、対外治安総局)、COS(Commandement des Opérations Spéciales、特殊作戦司令部)などの活動を中心に、サヘルにおける危機に対応していた点も重要である。 4 クーデターの推進者であるサノゴ(Sanogo)大尉は、武器弾薬の不足や中央政府のテロリズムに対する無能力さから反乱を起こしたとされているが、実際は内部対立も一因であったといえる。当時のマリ大統領アマドゥ・トゥマニ・トゥーレ(Amadou Toumani Touré、ATT:ATT自身は赤ベレー出身)は 、マリ軍の赤ベレー(bérets rouges)と緑ベレー(bérets verts)に待遇の違いを設けて赤ベレーを優遇したため、緑ベレー(サノゴ大尉は緑ベレー)の反発を買っていた。 5 一方的な宣言であり国際社会からは認められなかった。 COSはコードネームを”SABRE”(日本語で「刀」を意味する)と名付け、モーリタニア、ブルキナファソ、ニジェールに特殊部隊を送っており、1er RPIMa(第1海兵歩兵落下傘連隊)やCPA10(空軍第10落下傘コマンドー)などが活躍していた。 派遣の目的は自国の資源戦略の重点となっているニジェール(マリの隣国)のウラニウムの保護6および人質の救出7であった 。2008年頃は、モーリタニアがテロの標的となっていたため、フランス−モーリタニア対テロ協力体制が築かれ、フランスはモーリタニアの特殊部隊の編成とテロリスト撲滅を支援8していた。 このセルヴァル作戦においては4500人の兵士が投入され、フランス軍側は9人が死亡、約60人が負傷する結果となった。しかし数百人のテロリストを殺害9し 、約200トンの兵器や弾薬、および爆薬の原料となる約20トンの硝酸アンモニウムが押収された。 安保理、マリ軍事介入を全会一致で承認 マリ・ガオの通りを歩くイスラム主義組織MUJAO(西アフリカ統一聖戦運動)の若い構成員(2012年7月17日撮影) ©AFP/ISSOUF SANOGO〔AFPBB News〕 3段階で行なわれたこの作戦では、まず首都に向かっていたテロリストの南下を阻止し、次にニジェール川北部のテロリストの温床となっていた地域を制圧してマリの国家主権(選挙を含む)を回復させた。そして最後は、段階的に作戦権をマリ及び国連ミッション(MINUSMA)へ移転させていった。 このようにしてセルヴァル作戦は終わり、サヘル地域におけるフランス軍の再編成が行われ、“対テロを目的とした”バルハン(Barkhane)作戦に移行したのである。 今年8月から始まったこの作戦では悪化するリビア情勢も重視されており、ルドリアン仏国防相は「リビアから大西洋にわたる広い範囲でのジハードグループの台頭を阻止し、この地域がさまざまな犯罪の温床となるのを避けることは、私たちの安全を守ることにつながる」と発言、長期化が予想されるバルハン作戦の重要性を強調した。 日本では、2013年1月のアルジェリア人質事件を契機として一挙にこの地域への関心が高まったようであるが、この地域の治安悪化はフランスにとって以前から悩みの種であった。サヘル地域の国々はフランスの旧植民地であり、軍事・政治・経済などの面で現在も緊密な関係が続いているのだ。 6 フランス原子力企業アレヴァ(AREVA)はニジェールでウラニウム鉱山の開発を行っている。フランスの電力の80%近くは原子力に頼っている。 7 フランスはこの地域で多数の人質事件の被害に遭っている。今月9日にはセルジュ・ラザレヴィック(Serge Lazarevic)がAQIMから解放され、公式には拉致された仏人がいなくなったが、過去において拉致された仏人は、合計15人ほどになる時期もあった。 8 その結果、AQIMはマリの方へ押し出される形となったとも言える。 9 最初の4か月間で400人から800人のジハーディストを殺害したという。 アフリカがイスラム過激派の温床になる歴史的背景 この地域でのテロリズムの展開の流れや特色をまとめると、次のようになる。 アフリカにおける武装テロリストグループ 黒と白の縞模様は武装グループの主要後方基地となる地域、◆はトゥアレグ族の民族政治運動(出所:La Croix) 拡大画像表示 ◆ 2008年のパリ・ダカールの開催中止(その後南アメリカへ移動)に見られたように、かなり前からこの地域の危険性と不安定な情勢は続いていた10
◆ 砂漠地帯の国境におけるセキュリティコントロールに限界がある ◆ 複数のグループが活動している(MNLA, AQIM, アンサール・ディーン、MUJAO、ボコ・ハラムなど、右図参照) ◆ 拉致によって得る身代金、そして麻薬やタバコなどの密売から得た資金で武器を手にいれている ◆ 南アメリカの麻薬マフィアとのつながりがある11 ◆ リビア・カダフィ政権終焉後に大量の武器が流れ込んだ12 また、この背景にはアフリカの歴史がある。アフリカ大陸はもともと人類の発祥の地であり、古い歴史を持っている。15世紀以前は複数の王国によって成り立っていた。 しかし、ヨーロッパとの交流が15世紀末に始まると三角貿易と呼ばれる奴隷貿易が盛んになり、植民地としての歴史が19世紀末から始まる。1884年のベルリン会議ではヨーロッパによるアフリカ分割の原則が決められ、その後、国境線が引かれた。 アフリカ諸国は1950年代後半からは次々と独立していったが、旧宗主国の影響力はいまだに強く残っており、独立後も様々な問題を抱えている。同一民族を分断して人工的につくられた国境線は対立・紛争を生んだ。 また、植民地制度から生まれた白人に対する従属感、反発心などは簡単に解決できる問題ではない。そして資源が豊富な故に紛争が絶えないということも、“混乱が常に存在する大陸”と呼ばれる理由のひとつであろう。 10 DGSE(フランス対外治安総局)は2006年11月にこの地域のGSPC(Groupe salafiste pour la prédication et le combat、 AQIMの旧称)による危険性が拡大したため、政府にパリ・ダカールのルート変更(モーリタニアのネマ〜マリのトンブクトゥ間の中止)を提案している。 11 マリ東部のガオ(Gao)はフランス軍の介入があるまで「コカインシティ(Cité de la Cocaïne)と呼ばれ、南アメリカ麻薬マフィアの大きなネットワーク(ヨーロッパ・エジプト・トルコなどへの運送ルート)の拠点となっていた。現地の人々は、貧しさや政府・行政機関の機能不全から麻薬マフィアに協力するに至っていた。 当時のマリ大統領アマドゥ・トゥマニ・トゥーレ(Amadou Toumani Touré、ATT)はマフィアの賄賂を受け取っていたという。 12 リビアのカダフィ政権終焉後、武器をもったトゥアレグ(カダフィはトゥアレグの傭兵部隊を持っていた)はニジェールにおいては武装解除されたものの、マリにおいてはされなかった。そのため当時の大統領ATTは国民から不信感を買うことになった。 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42410 |