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父の戦争〜それでも子供たちを戦場に送りたいですか!?(wantonのブログ)
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投稿者 赤かぶ 日時 2014 年 12 月 22 日 21:38:06: igsppGRN/E9PQ
 

父の戦争〜それでも子供たちを戦場に送りたいですか!?
http://ameblo.jp/64152966/entry-11967149290.html
2014-12-21 12:13:28 wantonのブログ


パラオ島沖の海を漂流、
生死のはざまを越えて生還した従兄の物語
   (赤澤 喜美得「私の戦争史・新編」より) 


★はじめに


 昭和20年6月29日、岡山が空襲を受けてから今年は60年目、
むかし祖母が亡くなったのはその2日後のことで、7月1日が命日である。
先日私は、今年も祖母の命日にお墓参りをして墓前の草むしりをしながら、
60年の歳月をふり返り、お葬式のとき元気な男子は全部出征していて、
いつ空襲警報があるかもしれぬ中を……わびしかった思い出がうかんできた。
 
祖母は子供5人、孫は男女16人いた。何事かあると、
分家や親戚の従兄弟などがすぐ集まる。
棒切れや竹をふりかざして走りまわり、外の方は賑やかな戦場となる。
おばあさんも、
「この孫が大勢育っておるけん、
私が山へ上がる時には輿の担ぎ手には困らんで、
しっかりしたもんじゃなあ」
 と頼もしそうに笑っていた。
 


そのガキ大将らも成人して、徴兵検査に合格し、
兵役について次々に出征して行った。
お葬式の時は孫6人が出征していて、祖母の出所の甥2人も応召していた。
屋守の叔母は、
「三人も男の子が奉公しておりますけん、
どの子かが天皇陛下に上げます子になっても、しょうがありませんなぁ」
 と覚悟ができたように話していた。
 
お位牌は父が亡くなっているので、女の私が持ったが、
世相が緊迫しているので、何とも言えぬわびしい野辺の送りであった。
 


★その頃、従兄は死線を越えて
 
分家の十九一さん(私の従兄)は、現在88才(大正6年生まれ)、
少し体調がすぐれないので、見舞い方々、話を聞きに行った。
(平成17年3月23日のこと)


「おー、わしも大平洋を12時間も泳いで助かった命じゃ。
ジャングルの中で弾丸の間をくぐり抜けた命じゃが、
ようもったもんじゃ、もういつ死んでもええぞ」
 
側にいた奥さんの笑子さんが、
「また始まったで」 と笑っている。
日頃、話の端々から激戦地で戦ったくらいには思っていたが、
よくも生きて帰られたなぁ、只ならぬ生命であると、つくづく思い、
ぜひ後の人に書き残したいと思った。
 


★現役兵として入隊
 
昭和14年1月10日、加古川高射砲隊へ現役兵として入隊し、
4ヵ月間加古川で初年兵としての訓練を受ける。
続いて陸軍病院で衛生兵としての教育を受ける。
4月から12月まで。その後、内地で衛生兵として勤務をする。
昭和16年夏頃、大連から上陸して、旧満州のチャムスで約半年勤務する。
昭和17年4月、満期除隊になって、図門(朝鮮半島北部)を通って帰還した。
 


★1年8ヵ月して再び応召
 
昭和18年11月末、赤紙が来て再び軍隊に入る。
姫路中学校講堂へ集結して、外地へ向けて出発の準備をする。
12月、宇品出港。にきち丸(1400トンの徴用船)で、
南洋のパラオ島へ向かって出発した。
九州を過ぎたあたりより、米潜水艦が尾行して来た。
行方を隠すために西へ東へとジグザグに走行して、
直行なら1週間で着く予定だが、23日かかってパラオ島沖へ着いた。
別々に走行した船は、パラオ島沖で5隻の船団を組むため5日程停泊した。
 


★爆発した船から海へ投げ飛ばされる
 
昭和19年1月1日、船は赤道直下を通過した。
食糧の乏しい中を赤飯を炊いてお酒をつけて赤道まつりをして祝った。
上空にはいつも連合軍の飛行機が飛んでいたが、出発当初は爆撃はなかった。
十九一さんも、金光、連島の近郷出身の人がいたので、
戦友として特に親しくなり、
「おーい甲板は危ないぞ、船室へ下りろ」と迎えに来る。
下へ降りると、これもまた不安でまた上がる。
直撃を受けるぞ、と呼びに来る。スコールで烈しく雨が降り出した。
何百の敵機が雲の上をゴーゴーと舞っている。
2時間程したらスコールもおさまった。
すると200機程の爆撃機が一斉に船をめがけて襲撃をはじめた。


「下が危ないから上がれ!」
「上は直撃を食らうぞ、下りろ!」
夕方7時、応戦するすべもなく、にきち丸の弾薬庫に敵弾が命中し
大爆発を起こした。
十九一さんは気がついたら爆風で海中に投げ飛ばされていた。
船から離れるために必死で泳いだ。
浮かんでいる竹竿の束につかまり後を見たら、
船は4・5回大きく揺れて、見ている間に水没してしまった。
 
夕暮れの甲板には照明灯を振って大きく円を描きながら、
海中へ投げ出された兵隊等に別れを告げて、
船諸共沈んでいく船長の姿を見た。
 


19年1月10日午後7時、南緯5度7分の地点で
5隻の船団は一度に壊滅してしまったのである。
この時の被害約3万5千人、この海域では最も大きい損害であった。
(注:輸送船や被害者の数字は確かではない)
船室にいた戦友は助けようもなく、二度とまみえる事はなかった。
 
この船団はオーストラリアへ、9万の兵隊を送り込む作戦であった
けれど、輸送船の調達も充分でなく、爆撃の損害も大きくて、
この計画は失敗に終わったのである。
 


★大平洋を漂う
 
一方、海に投げ出された者は、助けをもとめるすべもなく
夕闇の海中に漂うよりほかはなかった。
暗黒の12時間、気がついたら片方の靴が脱げていた。
赤道直下とはいえ夜の海中は寒かった。
海中で小便をしたら、ほっかりと海水が温かく感じられた。
一度に放尿したら後が長いので、少しずつ出して、
その時だけでも暖かく感じて、自分が生きていることを確認しながら、
夜の明けるのを待った。
 
広い太平洋に朝が来た。速度の速い小型の駆潜艇が、
シャーと近づいて来て縄梯子を下ろしてくれたが、
どうしても自力では身体が水から離れない。
縄梯子を引き上げてもらって、やっと甲板に這い上がった。
助かった。運がよかった。
小型船なので海上に残されるかも分からない。それこそ必死であった。
 


★ニューブリテン島に上陸
 
十日間ほど島影をくぐり、ニューブリテン島に上陸した。
この島は3年程前から日本軍が占有している。
近くのガダルカナル島は九州の強豪な軍隊で固めていたが、
既に撤退していた。
すぐ近くのブーゲンビル島も米軍が1ヵ月程前に上陸して
激しい戦闘が行われている。
12月15日にはニューブリテン島へ約4千人の連合軍が
南岸から上陸して攻撃している。
この周辺の島や海域は次第に連合軍の支配が広くなって、
非常に危険な状態になってきていた。
 
ニューブリテン島の中心ラバウルは、原住民が約5万人、
土民の首長が島を支配していて、2カ所に副首長がいて
世襲制であるが、一見不気味であった。
 


★やっと上陸ができ、同郷の戦友に出会う
 
島へ上陸したら早速、お前等は顔色がよい、
元気がよいので応援に出てくれ、と命令された。
20人程の小隊を組んで山中へ入り、負傷兵の収容に当たる。
本隊へ戻ると、また出て行けと繰り出される。
前から島にいた兵隊も疲れ切っていた。
いよいよこの島の西端に近く中隊本部があるタラセヤという所へ
行くことになった。


この島の真ん中に巾8キロメートルにわたり底なしの沼がある。
米軍はかつてこの沼にはまり大勢の兵隊が命を落とした所だ。
海岸を通れば敵軍に狙い撃ちされる。
南岸は4千人の連合軍が攻撃態勢にある。
4千メートルの高い山を越えて、戦闘部隊が先にジャングルを切り開き、
衛生兵が傷病兵を看護しながら徒歩で15日かかって到着した。
 
タラセヤには弾薬倉庫があり、岡山師団の1ケ中隊が駐屯していた。
1ケ中隊に衛生兵20人と2人の軍医がついて、ここへ野戦病院を作った。
ヤシの葉を敷物にヤシの枝を組み合わせて、10人程収容できる屋根を覆い、
これで1棟出来上がり。野戦病院も簡単である。
 


戦死した兵士達は、全身を火葬にすることができないので、
小指を一本切り落として、ヤシの油で焼いて火葬とした。
遺髪と共に小指の骨を故国に帰すのである。
山中に入っては負傷兵を探して、病院へ運び治療する毎日であった。
 
ある日、他の部隊と連絡をしていると、
「岡山県玉島出身の中山さんがいるで。あんたも玉島か……」
「ああ、その人は隣家の亀一さんだ」
ということで連絡がついたので、早速休暇を取って面会に行った。
約50キロメートルの道のりは危険な所であった。
こういう所で近隣の人と出会うとは、もう懐かしく、
うれしさで一杯であった。


3回程お互いに往来して面会したが、中山さんもニューギニア沖で
爆撃を受け大平洋を一晩中泳いで助けられた同じ経験を持ち、
お互い相通じる気持ちで抱き合って互いの無事をよろこんだ。
中山亀一さんは、最後の時は腕を切断する大負傷を負っていた。
お互い別れる時がいつ最後となるかも知れぬ厳しい状況であった。
 


★戦況は厳しい
 
ニューブリテン島も、兵隊は次々に倒れ、食糧は乏しくなり、
援軍はなかなか来ない。激しい戦闘のない時は山へ入って木の実を探す。
ヤシの実が一番食べやすく、木に登って実を落として、
未熟なものは草むらに埋めて、熟した頃を見計らって食べる。
大体年中木の実がある所なので、どうにか命をつないだ。
 
この頃の島の指揮官・今村大将に
「軍司令官同格の待遇をするから、米軍援助の食糧を受けるように」
と米軍側から交渉があったが、大将は心苦しいと拒否した。
こうして日本軍人の誇りを貫いたエピソードが残っている。
 


★最後の決戦に挑む
 
司令部本部より「全員ラバウルに集結せよ。最後の総攻撃を決行する。
団体行動は取らなくてよい。
一人になってもラバウルに集まれ」と命令が出た。
中隊本部も引き揚げた。
野戦病院でも負傷者を同行することはむずかしい。
傷病兵の枕元へ2個の手榴弾と、残った食料を分けて置いた。
自決するか、投降するか、いずれを選んでも再び会うことのできない
最後の別れを交わした。無念の別れであった。
 


★ラバウルへの道は嶮しい
 
生きのびてラバウルをめざすには、4千メートルの山岳地と、
裾の8キロメートルの沼地がある。
大きく横たわる河はワニの棲息地である。
この自然条件の中を敵弾を避けながら脱出するのである。
中隊は5つの小さい集団を作って行動したが、
難関をくぐり抜ける度ごとに戦友が倒れていく。


沼近くの通り易い所には先に通過した部隊の犠牲者が
連なって倒れている所もある。
河も泳いで渡らねば方法がない。
一緒に泳いでいた戦友が仲間から少し遅れた。
それをめがけてワニが飛びついた。
目前でワニの餌食となっても、自分が逃げるのが精一杯で
誠に無惨なことであった。
 
南方特有のはげしい雨期にかかった。
棒を切ってヤシの葉をのせ、一人用の小屋を作り、
その下で雨をしのぐ。夜な夜な潜行すること60日、
やっと日本軍の勢力のある村に着くと、多少気持ちが落ちついた。
 この村にはよい水があり、しばらく心身を癒していると、
「危ないぞ、早く逃げろ……」
と連絡がとび、急にバラバラになって村落を逃げ出した。
 


★終戦の声を聞く


命からがらラバウルの日本軍本部に辿りついた。
本部自体が弱体化して、統一行動も充分ではなかった。
60日間、生と死のはざまを往復して参集した兵隊にとっては
いささか淋しかった。
 終戦の報道があった。
6万人の生命は先ず傷病兵から引き揚げられ、
十九一さんは昭和21年4月24日、故国の土を踏んだ。
十九一さんが一気に語り終えた60年前の鮮明な記憶は、血涙の記録である。
 
木の葉のように大海に吹き飛ばされた小さい命。
痛恨極まる数々の思い出を胸に抱き続けた生涯。
──88歳の翁の証言を、決して風化させてはならないと思った。


ベトナム美女レイプ


管理人


動画の構成は、あまり趣味が良いとはいえませんが、
しかし、全て史実に基づいたものです。
「集団的自衛権行使」によって、
韓国軍のところが、自衛隊に取って変わる日 が、
そう遠くない将来にやって来るでしょう。


あまり危機感を感じていない日本の多くの
親や子供たちは、いずれ、信じられない悪夢を
現実のものとして体験することになるに違いありません。


その時に、後悔しても・・・
時すでに遅し。


もう、あまり時間が残されていません。
今、我々に何が出来るのかを真剣に考える時です。


齋藤 拳太郎 @kentaro_s1980 12月19日
https://twitter.com/kentaro_s1980/status/545940514487300098


安倍晋三自民党政権が続けば、


『日本は公共事業として武器輸出をする国』


になるだけでなく、


『公共事業として戦争を仕掛ける国』


になる。


東京新聞:国が企業向け促進策検討 武器輸出に資金援助
http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2014121702000121.html



n_n  ‏@henoko_tushin
https://twitter.com/henoko_tushin/status/545356511048769536


集団的自衛権で辞職 元自衛官インタビュー | 沖縄タイムス
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=76498
 


安倍政権になってから、訓練内容が大幅に変わりました。


人を標的とする訓練が始まりました。


これまでは、相手を捕獲することが基本でしたが、
もう今までと違います。



「日本と中国をどのようにして戦争に突入させるか」 
    〜2005年10月25日キャピトル東急
http://ameblo.jp/64152966/entry-11432403299.html


2005年10月25日、26日、
ブッシュの支持基盤であるネオコン派の政治家、知識人が集まるワシントン
の政策研究所、AEI・アメリカン・エンタープライズ・インスティテュートが
主催して日本の国会議事堂裏のホテル、キャピトル東急で
「政策研究集会」が開かれた。


テーマは
「日本と中国をどのようにして戦争に突入させるか、そのプラン作り」
である。


参加者は
AEI所長クリストファー・デムス、次期総理・安〇晋〇、鶴〇公〇(外務省総合
外交政策局審議官)、山〇昇(防衛庁防衛研究所副所長 陸将補)、
民主党前党首・前〇誠〇、その他自民、民主の複数の議員。



テーマは「有事、戦争にどう対処するか」では無く、


「中国と日本をどのようにして戦争に持って行くか」


である。


以上は裏付けが取れた正確な情報である。


 

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コメント
 
01. 2014年12月23日 00:40:25 : nsEedPas6s

あの過酷な戦争の時代にも命を賭して、
勇敢に反戦・反軍をたたかい抜いた聡明で美しい若者たちがいる、
彼らこそ時代を照らす真の英雄であった。
http://esashib.com/kenpo05.htm
「この戦争はおかしい」と言いながら諾々と戦争を遂行していった侵略と特攻の若者と、
「この戦争はおかしい」と言いながら命を懸けて軍部と対決し反戦の戦いを貫いた若者と、
真に慰霊されるべき若者がどちらかは言うまでもない。

諾々と命令に従った卑怯者の薄汚い戦争遂行英霊兵士どもの侵略強盗殺人犯罪はどのように祀られ誰に参拝されようと消えはしない。
https://www.youtube.com/watch?v=knyILz-Fi3I
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2012-03-19/2012031915_01_1.html


02. 2014年12月23日 08:10:31 : ytIWoEzSFI
今回の記事に関連して、当方が最近書いた投稿をお読みください。

最悪の選択<本澤二郎の「日本の風景」(1861) <低投票率・低得票で自公圧勝>
http://www.asyura2.com/14/senkyo176/msg/396.html
投稿者 笑坊 日時 2014 年 12 月 14 日 21:14:27: EaaOcpw/cGfrA

●当方の投稿です。
http://www.asyura2.com/14/senkyo176/msg/396.html#c6

当方の高校時代の恩師が、退職後に選挙に出た話です。先生は、「教え子を戦場に送るな。」をテーマに出馬しました。教え子たちが応援しましたが、あえなく落選しました。先生が出馬したのは、1980年代のナカソネ右傾化政治に危機を抱いたからでした。「このままでは日本は戦争させられる。」今のアベコベは、30年前のナカソネよりも危険な政権です。

●さて話は変わりますが、今のアベコベは日本を戦争できる国にしようと、日本国民の「思想改造」を行なっているようですね。それの現われが「永遠のゼロ」とか言う、あの防弾装備全くなしの「パイロット殺し戦闘機」励賛小説であったり、パンツァーなんとかと言う、女の子が戦車を操縦するアニメとか、「艦これ」などと言う軍艦が出てくるアニメ。人気を上げるために、派手な番組宣伝をしているようですね。

こうしてアベコベ・日本軍国主義政権は、若者たちを自衛隊に志願させたり、軍需産業に就職させようとしているのでしょう。しかし、戦争に駆り立てられた若者たちは悲惨な目に合わされたのです。例えば、上に書かれているような「父の戦争」の内容です。次のような描写があります。

★何百の敵機が雲の上をゴーゴーと舞っている。
2時間程したらスコールもおさまった。
すると200機程の爆撃機が一斉に船をめがけて襲撃をはじめた。

●輸送船団を攻撃したのは、多分次の軍用機でしょう。

TBF (航空機)
http://ja.wikipedia.org/wiki/TBF_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)
グラマン社が開発した、空母搭載の雷撃機です。爆弾も搭載できます。途中で、ゼロ戦キラーとして知られたF6Fヘルキャットの増産のために、生産をゼネラル・モーターズに移管し、TBMと称しました。各型合計9,836機生産。

SB2C (航空機)
http://ja.wikipedia.org/wiki/SB2C_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)
こちらはカーチス社が開発した、空母搭載の急降下爆撃機です。7,140機生産。

★世界三大海軍と呼ばれた日本の帝国海軍を壊滅させたのは、これらTBFアヴェンジャーやSB2Cヘルダイバーの活躍でした。連合艦隊の象徴と呼ばれた、世界最大の戦艦大和や武蔵は、これらTBFアヴェンジャーやSB2Cヘルダイバーの魚雷攻撃、爆弾攻撃で沈没したのです。

亡くなった祖母が言っていましたが、戦争で苦しくなると、日本政府は国民に金属供出を強制しました。このため、結婚指輪ですら供出したのです。ご先祖様は武家でしたが、そのご先祖様が江戸時代に寺に寄付した釣鐘も供出した。そこまでさせたのに、ボロ負けです。もう戦争は、してはならない。そう心に決めた祖父と祖母は、「新しく作られた日本国憲法を絶対守るんだ。」と言うことで、護憲の日本社会党を亡くなるまで応援していました。

あれだけ懲りた戦争を二度とやらないと決めたのに、終戦から70年になろうとする今日、あの忌まわしい日本軍国主義が復活しつつある状況を何とかしなければいけません。若い親たちにいいたい。子供たちに、戦争おもちゃで遊ばせてはいけませんぞ。当方の子供の頃はピストルが流行りましたが、うちは絶対に買ってもらえませんでしたよ。今はやっている戦争ゲーム。あれも危険だ。子供たちは、これをやることによって、戦争はかっこいいものだと思うようになる。

繰り返しますが、戦争おもちゃを買うな、遊ぶなです。これをやると、戦争をやりたい大人になる。


03. 2014年12月23日 14:01:44 : nJF6kGWndY

>子供たちを戦場に送りたいですか

ムダな戦争を避けるのは当然のことだが

世界にはイスラム国みたいな邪悪な侵略・略奪者や、北朝鮮のように他国から子供を拉致して利用するのも平気な国家がごろごろいる

ヤジディ、かってのユダヤのような目に遭いたくなければ

価値観を同じくする友好国との間に集団安全保障を確立し、

警察力(軍事力)を確保し、必要なら行使する以外に選択肢はないだろう

戦争は嫌だなどと口にできる余裕ができるのは、その後だ


http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00282578.html
クルド人兵士は「黒い旗を見ろ。イスラム国はあそこにいる」と話した。
遠くにはためくイスラム国の黒い旗。
「ペシュメルガ」とは、イスラム国と戦っている少数民族、クルド人の兵士たち。
各地で続く戦闘。
橋を挟んで両者がにらみ合うこの街には、広い敷地内に、生活用品などが散乱する奇妙な場所があった。
大きな難民キャンプの跡が残っているが、およそ1カ月ぐらい前に、イスラム国の攻撃を受けて、危ないということで、みんなここから去って行った。
難民キャンプにまで攻撃を加えるというイスラム国。
およそ400世帯1,200人が暮らす、ラリッシュ難民キャンプには、過酷な迫害を受けた人々もいる。
ヤジディ教徒の難民・マルワさん(20)は「弟たちは殺されたり、連れ去れたりした。わたしもけがをしました」と話した。
マルワさんは、ヤジディ教徒。
教義などの違いから、イスラム国は彼らを異教徒として、容赦なく扱っているという。
マルワさんは「まだわたしの足には、弾丸が残っています」と話した。
逃げる途中で銃撃されたというマルワさん。
まだ走れない状態が続いている。
さらに、ヤジディ教徒の難民から、「彼らは人を焼き殺していました」、「子どもたちは捕まって首を切られたのです」という証言もあった。
ヤジディ教徒に対するイスラム国の非人道的な行為は、ほかにもある。
それは、イスラム国が宣言した、奴隷制。
捕らえられたヤジディ教徒は、奴隷にされることもあるという。
専門家は、イスラム国がこの奴隷制度を、勢力拡大に利用していると指摘する。
放送大学の高橋和夫教授は「大半のイスラム国の兵士は、イスラム諸国から来ているんですよね。貧しい層から来てて、故国にいれば、おそらく結婚も難しいような状況の若者たちが多くて、でもイスラム国に行けば、『ヤジディ教徒は奴隷としてとっていい』と。(ヤジディ教徒の)『女性、子どもを、戦闘員に、兵士たちに戦利品として分配することが許されてる』という発想があるわけですよね。それがやっぱり、人集めにつながっていて、イスラム国の拡大の背景にあると思いますね」と話した。
故郷を追われ、荒野の中で暮らすヤジディ教徒たちに、安住の地はまだない。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%BA%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC
サッダーム・フセインの政権下では、村落破壊と強制移住が強いられた。ただし、サッダームはヤズィーディー、イスラームを問わず、クルド人全てを迫害した[1]。
2007年8月14日: ニーナワー県のヤジディー教徒が多く住む二つの村で同時自爆攻撃が発生。死者は400人以上。当時、イラク駐留していたアメリカ軍は、アルカイーダによる自爆テロとの見解を表明。後日、同年9月3日に行った空爆で、自爆テロを計画、指揮した首謀者を殺害したと発表した[5]。
2014年8月8日: イラク政府及びクルド人自治区に激しい攻撃を加えていたイラクとシャームのイスラーム国に対し、アメリカ軍が限定的な空爆を実施。併せてイスラーム国の攻撃により、イラク北部のシンジャルの山地へ避難していたヤジディー教徒に対しても支援物資の空輸が行われた[6]。
2014年10月15日: 拘束したヤズィーディー教徒の女性を戦闘員に分配していたイスラーム国は、奴隷制の復活を宣言した[7](イスラム社会における奴隷制度についてはイスラームと奴隷制の項も参照のこと)。


04. 2014年12月23日 17:07:08 : w3M1BHSquE
>>02
戦争の歴史を絶対に繰り返してはならない と言う意見には、まったく異存は有りません その通りです

しかしながら、「永遠のゼロ」 が 戦闘機励賛小説というのは、実際に読んだ者から言わせてもらえば
全く違うと言いたい 原作者の百田尚樹氏に右翼思想が 有るか無いかは別として
少なくともこの小説は ゼロ戦を賛美する内容はほとんど読み取れませんでした

むしろ、戦争への道を突っ走り 若者たちを将棋の駒のように使い捨てした 軍上層部の 無能と非道ぶりを
これでもかと言うほど 思い切り暴露しており、右翼連中は真っ赤になって怒るであろうほどの内容です

「私は この戦闘機を作った人を恨みたい、確かに往復8時間も飛んでなおかつ戦闘も出来る機体は凄い
しかし、この戦闘機を作った人は 中に入って操縦するのは生身の人間だと言う事を判っていたのだろうか」

主人公 宮部久蔵に小説の中で こうまで言わせたのです
実際、ゼロ戦の長大な航続力に頼り切った“1000キロ先の ガダルカナルへの無理な攻撃”が
歴戦の搭乗員を大勢死なせ、日本の最大の敗因となった事実を この小説は断罪しております
よろしければ ぜひ一度読んでもらいたいものです

作者の百田尚樹氏は なにやらネトウヨ受けするような発言を時々しているようですが
少なくともこの作品はそうではないと、“ネトウヨ嫌い”の私が保証します

百田氏の本心は計りかねますが、ウヨ連中にこれを一度読ませたくて ワザと言ってるような気がします
なぜなら、この手法 昔の漫画 「紫電改のタカ」 と同じ手法だからです
百田氏ならば当然この 紫電改のタカ は読んでいるであろうと思われます

紫電改のタカ は、当初は 血沸き肉躍るような戦争アクションの漫画であって
子供の頃の軍オタ少年だった小生は、夢中で読みふけりました 引きずり込まれました
しかし、中盤以降は 主人公が戦争そのものに疑問を持ち始め、戦争って何なんだろうっていう葛藤に
さいなまれる主人公の姿が大きくなって行き、ついには特攻を命じられ帰らぬ人となります
実はとんでもない“戦争批判”の漫画だったのです、前半のチャンチャンバラバラ戦争アクションは
軍オタ少年を引き付けるためのエサだった訳です

紫電改のタカ の、ラストシーン 息子の大好物のオハギを造って基地を訪れようとする何も知らない母の頭上を
特攻隊として 二度と帰らぬ出撃をしていくそのシーンは、トラウマになってしまうほどの衝撃でした。


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