01. 2014年10月29日 11:13:49
: nJF6kGWndY
経済や軍事で十分、自立しておらず、愚かな政治で衰退する国は、海外から狙われ分割・崩壊に危機に晒されることになる経済を資源に依存するロシアもまた油断はできない http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42081 ウクライナとロシアと欧州の血塗られた国境線 2014年10月29日(Wed) Financial Times (2014年10月28日付 英フィナンシャル・タイムズ紙) 1914年に生まれて1992年に亡くなるまで、リビウという町にずっと住んでいた人がいたら、その人は生涯にわたり5つの国に住んだことになる。 リビウは、1914年当時にはレンベルクと呼ばれており、オーストリア・ハンガリー帝国の一部だった。1919年には名前がルブフに変わってポーランドの一部になっていた。1941年にはドイツに占領され、1945年には旧ソビエト連邦に編入された。そして1991年には新たに独立したウクライナの一部になった。 プーチン大統領がポーランド首相にウクライナ分割を持ちかけた? こうした変化のほとんどは戦闘と流血を伴うものだった。そのため、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が数年前にポーランドのドナルド・トゥスク首相(当時)に対し、ウクライナを再度分割しよう――ロシアが東部を取り、ポーランドがリビウなど西部を取る――と持ちかけていたとの話が先週示唆されたときには、大騒ぎになった*1。 プーチン氏とトゥスク氏の会話の詳細は――そういうやり取りが本当にあったかどうかも含めて――関係各方面からの否定や釈明によってすぐにうやむやにされた。 しかし、ウクライナを分割するという構想に多くの人々が激怒したことは、やはり多くのことを物語っていた。というのは、欧州大陸に引かれている国境線はまた変わるかもしれないし、その場合にはさまざまな危険が生じるだろうという、至極もっともで深い恐怖感が欧州に存在することがこの一件で明らかになったからだ。 ウクライナ東部にロシア国旗掲げた装甲車 ウクライナ東部ドネツク州で軍服を着て武装した男性たちを乗せ、ロシア国旗を掲げて市内を走る装甲車〔AFPBB News〕 ある意味で、ウクライナの分割はすでに始まっている。ロシアは今年、概ね無血だったとはいえ、力ずくでクリミアを併合した。 ウクライナ東部ではその後、戦闘で数千人が命を落としており、一部の地域はロシアの支援を受けた分離主義者が掌握するに至っている。 ウクライナでは先週末に議会選挙が行われたが、親ロシア派に占領された地域では投票を行えなかった。 EUの「リアリスト」が唱える分割容認論 欧州連合(EU)で影響力を持つ一部の人々からは、ウクライナ国民に「現実を受け入れよ」と促す声が上がっている。 劣勢の消耗戦を戦うのをやめ、国の東部すべてを取り戻すことをあきらめ(取り戻したら、荒廃した都市を復興させなければならない)、まだ支配下にある大部分の国土を繁栄させることに注力した方がいい。ロシアによる支配の合法性を否定することは可能だが、それでも現実は受け入れるべきだ、というわけだ。 *1=ポーランド前外相のラデク・シコルスキ氏が米誌ポリティコのインタビューで語ったもの。大騒ぎになると、シコルスキ氏は発言を事実上撤回し、謝罪した これは「リアリスト」によるウクライナ分割論である。しかし、影響力を持つ別の人々からは、欧州の国境線は軍事力によって再度変更できるとの見解をたとえ口には出さなくとも容認してしまうのは、とんでもない間違いになるのではないか、との声も上がっている。 スウェーデン外相の座をつい先日退いたカール・ビルト氏は、「欧州の国境線はそのほとんどが、この数百年間の野蛮な戦いで流された血によって描かれている」と率直に語っている。この国境線の引き直しを許せば、「血が再び流れ始める」事態を招くことになるだろう、というのが同氏の考えだ。 ウクライナ分割がはらむ大きな危険 最も明白なリスクは、クリミア併合を正当化する際に使った論理――ここは歴史的にも文化的にもロシアの土地であるという論理――をロシア政府が再び持ち出し、ウクライナ領のざっと4分の1を占める地域(ロシア政府は今では習慣的に、ここを「ノボロシア(新しいロシア)」と呼んでいる)の奪取を正当化しようとすることだろう。 ウクライナの海岸線はすべてこの地域にあるため、ここを失うことはこの国にとって、人間で言うなら足が不自由になることを事実上意味する。 仮に、ウクライナの分割が本格的に始まることになったら、そこに割って入りたいと思う国がほかにも出てくるかもしれない。 一部のEU加盟国政府から「バルカン半島のミニ・プーチン」と呼ばれているハンガリーのビクトル・オルバン首相は、第1次世界大戦後にハンガリーの領土の3分の2が失われたことは悲劇だと考えると明言している。かつてハンガリーだった土地の中には、今ではウクライナ領になっているところもあれば、スロバキアやセルビア、ルーマニアの領土になっているところもある。 ウクライナが本当にバラバラになり始めたら、ポーランドの一部の人々からも、リビウを取り戻したいという声が上がるかもしれない。 哲学者カントの教え ドイツ政府はロシアに甘いと批判されることが多いが、欧州内の国境線の変更について語ることは一切やめなければならないととりわけ強く主張している。第2次世界大戦後にポーランド領やロシア領になった土地の返還請求をドイツがすべて取り下げたのは、1970年になってからのことだった。 そうした土地の中には、少なくともロシアにとってのクリミアと同じくらい、ドイツ文化にとって重要なところもあった。例えば、ロシアの飛び地であるカリーニングラードはかつてケーニヒスベルクと呼ばれた都市で、プロイセンの首都であり、ドイツの偉大な哲学者イマヌエル・カントが住んだ街でもあった。 カントは、ある行為の道徳性は、それが「普遍的法則」になったら何が起こるかという観点から判断できると説いた。平たく言えば、「誰もがそれをやったらどうなるか」ということだ。 このルールを用いると、ロシアによるウクライナ領の一部併合を一見実用主義的な観点から容認することが多くの危険をはらんでいるのはなぜなのかが見えてくる。 もし欧州が今再び、そのよりどころが歴史的なものであれ民族的なものであれ、各国が隣国の領土の一部の権利を主張し始めることを許してしまえば、そのプロセスが欧州大陸を激しく揺さぶる恐れがあるのだ。 国境線がひとたび崩れ始めると大量の血が流れる この危険な過程をスタートさせたのは実は西側だとロシアは主張している。北大西洋条約機構(NATO)が1999年にコソボ紛争に介入したこと、そして2008年にコソボを独立国として承認したことがその発端だとしている。 このプロセスについては、EUの中でさえ議論がある。しかしクリミアと違い、コソボは隣国に編入されたわけではなかった。コソボは独立を志向した、旧ユーゴスラビアの一地方だった。この過程でセルビアとコソボの境界が変更されることはなかった。またコソボ紛争は、ユーゴスラビア解体後に戦いが何年も続くという文脈の中で起こった出来事だった。 しかし、1990年代のバルカン半島での戦いは、ある意味でウクライナと関連がある。バルカンの戦いは、欧州で国境線がひとたび崩れ始めると大変な量の血が流れかねないということを明らかにしてみせたからだ。 By Gideon Rachman
|