03. 2014年9月26日 18:44:01
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田母神俊雄公式ブログ イスラエルを訪問して 2014-09-20 14:42:24
9月10日から17日の間、イスラエル国防視察ツアーに視察団長として参加した。これは福岡県郷友連盟吉田邦雄会長、永嶋直行氏らが計画し、「〜田母神(元)航空幕僚長と行く〜『イスラエル国防視察団8日間』」と名を打って実施されたものである。参加者は総勢22名で、警備会社であるテイケイからは河田洋志関西ブロック部長以下10名の皆さんが参加していただいた。一行は成田発13名、福岡発9名で、香港で合流しテルアビブに向かうことになっていた。今回研修内容をブログで紹介するが、量が多くて読みにくいと思うのでイスラエル訪問記T〜Wに分けている。それぞれを読んで頂いてもいいかと思う。 イスラエル訪問記T 9月10日(水)第1日目 成田組は予定より30分も早く香港に着いたが、福岡組は出発が遅れ香港からイスラエルのエルアル航空の飛行機が離陸する少し前に香港に到着した。日本国内であれば便宜を図って乗継がうまく行くであろうが、エルアル航空は、保安上の理由から、搭乗前の本人の状況や荷物の確認のため多くの時間を必要とするため、福岡組は予定の便に乗れなくなり、ルートを変えてバンコック経由で、翌日朝のテルアビブ到着となった。成田組も香港から11時間半の飛行でテルアビブ到着が現地時間午後11時40分くらいだったので、ホテルに到着してベッドに入ったのは11日の朝午前1時半頃だった。11日の朝成田組は8時にホテルを出発して、空港に福岡組を迎えに行って、その後一緒に行動できたので、到着の遅れが視察日程に影響を及ぼすことはなかった。 但し、羽田から送ったトランクなどが成田組は13人中6人分が届かず、福岡組も9人中4人がテルアビブで荷物受領が出来なかった。羽田出発時に本人と同時に届く確率5割とか言われていたが、正にその通りになった。これらの荷物は翌11日の夕方にエルサレムのホテルに届けられたが、福岡から参加した今回の国防ツアーの幹事永嶋直行氏の荷物は2日遅れて12日の到着となった。イスラエル旅行の際は、日用品などは機内持ち込みにした方がよい。 9月11日(木)第2日目 朝0830頃に視察団の合流が終わり、空港からテロ対処などのための機関銃、無人警備車、偵察用無人飛行機、消防車などが展示されているエキシビジョン会場に向かった。各会社がいろいろと説明をしてくれた後、無人警備車や消防車などを実際に動かして展示してくれた。イスラエルではパレスチナとの関係でテロが起きる可能性が高いということで、極めて実戦的な装備品になっていることを実感した。 次にIAI(Israel Aerospace Industries)を訪問し、会社の概要、主要製造品などの説明を受け、会社で昼食をいただいた。イスラエルの食事はどうなんだろうと思っていたが、思いのほか美味しかった。因みにホテルの食事も美味しい。視察旅行の楽しみが増えた。食事の後、工場を見て回った。IAIの説明ではUAV(無人飛行機)を最初に造ったのはIAIであり、アメリカを始め世界中で使われているということであった。人間が抱えて飛ばす小さなものから大きな航空機のようなものまで何種類もある。またビジネスジェット機ガルフストリームは、アメリカのガルフストリーム社が販売しているが、IAIが開発、製造しているものだそうだ。IAIの研修では、会社側が特に強調して説明し、技術力の高さを主張していた。 その後ホーム・フロント・コマンドの司令部を訪問した。これは災害のときに被災者などの救助に当たる災害救助部隊で、多くの医者、看護師などを抱えている。司令部要員の訓練と現場で行動する隊員の訓練が、コンピューター・シミュレーターを使って行われている。東日本大震災のときも、3月下旬から60名ほどが約2週間日本に派遣されて、宮城県で被災者の救援に当たってくれたそうだ。我々を迎えてくれた陸軍准将が、きちんと訓練をして能力を向上させていることを説明するとともに、被災時の日本国民の自制した行動を賞賛していた。 そこから聖地エルサレムのホテルに移動した。ホテルでは、ヘブライ大学のベン・アミン・シロニー教授と意見交換し、その後夕食を共にした。シロニー教授は日本の研究を30年以上やっておられる方で、親日家で日本語も上手、日新報道から「日本の強さの秘密」(青木偉作/上野正 訳)という本も出版しておられる。日本が尖閣諸島で中国の脅威を受けているが、侵略を抑止するためには、国を守る意思を強く表明する必要がある、それが抑止力であると強調しておられた。穏やかな大変人を和ませる人であった。 イスラエル訪問記U 9月12日第3日目 朝0745にホテルを出てヘルツェルの丘、国立墓地に献花に行った。ヘルツェルというのは、戦後イスラエルの建国に努力したイスラエルの英雄である。広大な墓地に約2万人の国家の英雄が埋葬されている。大統領や首相から一兵士までの墓があり、将軍と一兵士が隣り合わせで祀られている場所もある。その後外務省を訪問して、前駐日大使であったニシム・ベンシトリット氏を表敬訪問した。彼はいまイスラエル外務省ナンバー2の外務次官である。日本では昨年まで6年間大使として滞在された。毎週金曜日はイスラエルの安息日であり官公庁は休みであるが、ベンシトリット次官は、わざわざ外務省を開けて我々を迎えてくれた。 次官の話では、イスラム過激派組織「イスラム国家」にはイギリス人などと共に9人の日本人も参加しているということだった。初耳である。次官は軍事専門家のようにミサイルのことなども話し、パレスチナからのロケットを撃墜する「アイアンドーム」の効用についても話していた。アイアンドームによってイスラエルの被害が最小限に抑えられ、その結果パレスチナに対するイスラエルの航空攻撃も最小限に抑えられる。従ってアイアンドームは、イスラエルのみならずパレスチナ人民まで守っていると言っていた。 次官は安全保障の根幹は教育にあると言っていた。軍の中では大統領の息子も一市民の息子も平等に扱われる。そしてイスラエル国民としての、国を守る重要性、方法などが徹底的に叩き込まれる。イスラエルは徴兵制だが、日本も国民教育のために徴兵制を取り入れてはどうかと提案していた。次官自身も奥様や子供たちも徴兵(男は3年、女は2年)を経験していると言っていた。因みに私は、日本では全青年の徴兵は、現状では自衛隊の受け入れ能力がないので、すぐにやるとしたら、国会議員に立候補する者、上級職公務員試験を受験する者、小学校から大学までの教員を目指す者、これら三者に限定して1年程度の徴兵義務を課してもいいのではないかと思っている。 またベンシトリット次官は、第二次大戦中にユダヤ人救済に行動した杉原地畝のことにも触れて、親日振りを表明していた。 その後、ナチスドイツのホローコースト記念館を訪れた。ユダヤ人は2千年前にパレスチナ国家がローマ帝国に滅ぼされて、ヨーロッパ諸国に散って行った。約2千年間それぞれの地でユダヤ教の教えに基づく生活を送っていたが、第二次大戦でヒトラーによるユダヤ民族虐殺の号令で、各国に住む1300万人のうち半数近いユダヤ人がユダヤ人であるという理由だけで命を奪われることになった。これはキリスト教ドイツによるユダヤ教ユダヤ人の迫害であった。しかしドイツの敗北により、戦後国連でイスラエルの建国が承認され、ユダヤ人の多くが2千年前に住んでいたパレスチナの地に帰ろうと動き出した。いわゆるシオニズム運動である。1948年当時パレスチナの地にはユダヤ人は60万人ほど住んでいたということであるが、アラブ人も同じくらいの人たちが住んでいたようである。イスラエルの建国はユダヤ人によって進められパレスチナの地は次第に豊かになっていった。豊かになったパレスチナにアラブ人も仕事を求めて集まって来た。日本にいると、イスラエルの建国はすでにパレスチナに住んでいたアラブ人を追い払ってユダヤ人が国造りを始めたような情報であふれているが、イスラエルの建国がアラブ人の権益を冒して進められた訳ではないようだ。ユダヤ人は、本来遊牧民族であるアラブ人が住んでいないことを確認しながらアラブ人のいない土地を選んで、町造りを進めていったのである。 ホローコースト記念館を出て、聖地エルサレムの観光に行った。ユダヤ教の寺院やその周辺の町を見て回った。小さな土産品店がずっと続いている。石造りの町であり、日本の古い町とは全く趣が違う。いわゆる「嘆きの壁」にも行って祈りの状況を見てきた。私も家族の安寧と日本国民が早く日本の国に誇りを持てるようにと祈ってきた。 イスラエル訪問記V 9月13日第4日目 0800ホテルを出て聖地エルサレムを一望できる高台に行った。ヘブライ大学もこの近くにある。正に絶景である。景色を楽しんだ後、2時間弱の時間をかけてバスはマッサダの要塞に向かった。死海を見下ろす位置にある要塞は、2千年前の激戦を想起させる。石造りの要塞である。雨が少ない地域なので降った雨が貯水池にためられるように山頂からいくつかの貯水池に水がたまるよう水路が造られている。 その後死海に行って浮遊体験をした。確かに体が浮かんでしまう。海水は濃度が30%もあるそうで目に入ると痛い。しばらく目が開けられなくなる。また髭剃りあとなど肌荒れしている部分は塩水の攻撃でチクチク痛むそうだ。何人かの人が髭剃りあとが痛いと言っていた。 仰向けに浮かんだあと、海底に立とうとすると足が浮かんでしまって立つことがなかなか容易ではない。死海は海抜マイナス4百メートルにある。 死海を後にしてヨルダン川渓谷を北上し、約1時間ほどで、海抜マイナス212メートルのガリラヤ湖という湖の湖畔にあるホテルに到着した。そのホテルはキブツと呼ばれる集団農場の経営であるが、普通のホテルと変わらない立派なホテルである。キブツはホテルやレストランなど農業以外の面でも収益を確保するよう努力している。イスラエル各地に多くのキブツがある。 9月14日第5日目 朝の出発は今朝も8時である。歩いてホテル近傍にあるイガル・アロン将軍記念館に行き、イエス時代の木造船を見学した。それから約1時間ほど、ガリラヤ湖の遊覧船に乗って、ガリラヤ湖からティベリアの町を眺めることが出来た。11月頃になると台地は草木で緑になるそうだが、現在のところ緑は少なく砂漠のような雰囲気である。 乗船するにあたっては、イスラエル人船長が日本の国家「君が代」を流し、我々みんなでイスラエルの地で君が代を歌った。同時に船上に日の丸の掲揚も行われ、小さな感動を味わうことが出来た。 船を下りてトランペルドール記念館を見に行った。トランペルドールは、ロシア系ユダヤ人であるが、日露戦争でロシア軍に志願した。ロシアにおいてもユダヤ人は宗教上の理由で虐めを受けていたので、トランペルドールはロシアにおけるユダヤ人の地位向上のためという思いで志願したのである。そして日露戦争で、彼は日本軍に捕虜として拘束されることになった。大阪の捕虜収容所に収容されたが、収容所で日本人は大変優しく捕虜を扱ってくれたという。そして彼は何故この小さな国日本が大国ロシアに勝ったのだろうと考え始めた。そしてそれは日本人の国を思う団結心であるとの結論に至った。捕虜釈放後、一時ロシアに帰国した彼は、父祖の地パレスチナに戻ってユダヤ人の国家を造ろうと行動を始めた。当時彼が帰ったパレスチナ北方の地はフランス統治下にあった。イスラエルの建国運動は、日露戦争に勝った日本に刺激を受けて始まったのだ。2千年間国家を持たなかったユダヤ人が、国家建設に目覚めることになった。これがシオニズム運動の始まりである。 その後2年前まで自衛隊が派遣されていたゴラン高原、アビタル山を視察した。確かにゴラン高原を押さえておくことはイスラエルの安全保障にとっては地政学的に重要であることが理解できた。アビタル山は周囲を見下ろす戦略的要衝である。 ゴラン高原を後にしてカツリンのワイナリー見学に行った。ワイン作りの説明を受け、ワインの試飲を楽しんだ。ここで多くの人がワインを購入していた。またすぐ近くにオリーブオイルを作っている工場もあり、私も味見をしながらオリーブオイルやオリーブオイルから作ったという石鹸やハンドクリームなどを購入した。その後約1時間半のバス旅行でイスラエル西側の地中海に面したハイファのダン・パノラマホテルに到着した。私の部屋は17階だったので、朝になってホテルの窓から見る地中海は朝日に映えて大変美しい。 イスラエル訪問記W 9月15日第6日目 この日は、イスラエル軍需産業の研修の日であった。午前中はラファエル(Rafael)社に行って、近距離で敵ミサイルやロケットを撃破するアイアンドームミサイル、射程が1千キロ、2千キロのミサイル撃墜用ミサイルアロウT、アロウUミサイルなどの説明を受けた。イスラエルはこれら3種類のミサイルでミサイル防衛体制をとっている。特に先日の50日に及ぶガザのハマスとの戦闘では、ミサイル、ロケットの撃墜にアイアンドームが大活躍をしたと言っていた。ハマスとの戦闘では地上戦で70名ほどの兵士が戦死したが、ハマスのミサイル、ロケット攻撃で死んだのはわずか3名であり、アイアンドームが市民を守ったそうだ。なお死んだ3名はベドウィン(遊牧民族)であり防空壕へ避難しなかったためである。 イスラエルはガザ地区に対し航空攻撃をするが、ハマスは病院や学校がある市民が集まる場所にロケット発射台を置いており、攻撃で一般の市民が被害を受けることになる。そこでイスラエルは人道的な観点から、航空攻撃を行う直前に攻撃実施を宣言する。更にゴム弾など非殺傷兵器で事前攻撃を行い、ガザ地区の市民が非難できる時間を与えている。その後実際の航空攻撃を行いハマスの攻撃能力を粉砕している。イスラエルはガザ地区の市民の命を守るためにこのような手順を守っていることを初めて知った。日本ではマスコミでもこれらのことは報道されていない。 ラファエル社ではそのほかに戦車や装甲人員輸送車などの見学をした。会社の人たちは、上層部は元軍人が多く、日本で悪評の高い天下りがシステムとして機能しているようだ。彼らの説明は自信と誇りに満ち溢れている。 ラファエル社で昼食をとった後、午後はアイアンドームなどの火器管制システムを作っているエルビット(Elbit)社を研修した。ミサイル防衛システムは、武器、センサー、管制システムの三つで構成される。この管制システム、すなわちコンピュータソフトウェアを作っているのがエルビット社である。この会社では、そのほかに無人偵察機UAVを造っている。IAIのUAVとの違いを質問したがあまりよく分からなかった。但しあまり大きなものは造っていないようであった。 その後テルアビブのホテルに移動して夕方6時から元モサドエージェント、シャイ・ラズ氏のブリーフィングを受けた。経歴から隙のない厳しい人物かもしれないと思っていたが、あってみるとごく普通のおじさんという感じである。スパイと感じられるようではスパイにはなれないのだろう。モサドの活動の話を期待したが、説明はイスラムのテロリスト集団の話だった。イスラムの中には原理主義者が多く、ハマス、ヒズボラ、イスラム国など多くのテロリスト集団があり、今後ともテロは続くと言っていた。 9月16日第7日目 朝0730にホテルを出発して国防省に向かった。国防省に防衛装備品の輸出と外国との防衛協力を担当するSIBATという部署がある。そこの副部長であるイタマル・グラフ氏と面談した。日本との防衛協力を進めたいといっていた。イスラエルは軍の組織も装備品もドクトリンも極めて実戦的に出来ているので、自衛隊がより戦える軍に脱皮していくためには、イスラエルとの交流を深めることがいいのではないかと思う。それが日本の抑止力を高め、戦争防止に役立つことになる。 国防省から研修団は2個班に別れ、1つはガザ地区北方40キロメートルにあるハッツオール空軍基地、もう1つのグループは、IMI(Israel Military Industries)内のテロ対処アカデミーの研修ということになった。私は空軍基地を訪問したが、ハッツオール基地の訪問は戦争地のガザに近いということで14日になってようやく研修が決定した。ここは戦闘機基地であるが、戦闘機が編隊で訓練できるシミュレーターがおいてあり、全土から交代で飛行隊がやって来て訓練をしている。1回の訓練は4週間単位である。航空自衛隊にも戦闘機のシミュレータはあり、一人のパイロットは訓練できるが、イスラエルは8つのコックピットが地上の要撃管制官と繋がった形で、しかも敵機パイロット用コックピットが他に2つあり、総合的な訓練が出来るようになっている。これによって実際に空を飛ぶ年間飛行訓練時間が相当節減できると言っていた。一人当たりのパイロットの年間飛行訓練時間は80時間だそうだから航空自衛隊に比べるとかなり少ない時間になっている。航空自衛隊にもこのような大規模シミュレータが入れば、経費節減には役立つかもしれない。 基地を後にしてテルアビブに向かい昼食をとった。昼食後は市内の独立記念館に行った。ここは1948年5月13日ベングリオン初代首相がイスラエルの独立宣言をした場所である。ユダヤ民族にとっては2千年間国を持たずに世界各地で苦難の暮らしをしていたが、この時ユダヤ人国家イスラエルが誕生したのである。 その後テルアビブのホテルで、国家安全保障研究所(INSS)関係者二人のイスラム過激派の話と情報処理のためのイスラエルのシステムの売り込みの話を聞いた。イスラエルは国を挙げて、国家防衛のために、国家隆盛のために努力していることが強く感じられた。 今回のイスラエル訪問は大変勉強になった。日本も国を守ることを本当に真剣に考える時期であり、中国などに万が一にでも侵略されない態勢を作っていくことが必要であることを痛感した旅であった。また日本ではユダヤ人は悪いことをしているというような情報が溢れているが、今回のイスラエル訪問によってそれは一面的な見方ではないかと思うようになった。2千年間国を持たずに生活してきたユダヤ人がようやく父祖の地パレスチナでユダヤ人国家イスラエルを建設することになった。2千年間国を持たない悲哀を味わい、ヒトラーによる民族大虐殺を受けたユダヤ人がようやく造り上げた国がイスラエルなのである。これを守るためにイスラエルは国を挙げて国を守るために努力している。その強固な国家防衛意思こそ今の日本に必要ではないのか。今回の国防視察ツアーを計画してくれた皆さん、一緒に行ってくれた皆さんに心から感謝申し上げたい。 http://ameblo.jp/toshio-tamogami/entry-11927690420.html 9月12日第3日目 > 朝0745にホテルを出てヘルツェルの丘、国立墓地に献花に行った。ヘルツェルというのは、戦後イスラエルの建国に努力したイスラエルの英雄である。広大な墓地に約2万人の国家の英雄が埋葬されている。大統領や首相から一兵士までの墓があり、将軍と一兵士が隣り合わせで祀られている場所もある。その後外務省を訪問して、前駐日大使であったニシム・ベンシトリット氏を表敬訪問した。彼はいまイスラエル外務省ナンバー2の外務次官である。日本では昨年まで6年間大使として滞在された。毎週金曜日はイスラエルの安息日であり官公庁は休みであるが、ベンシトリット次官は、わざわざ外務省を開けて我々を迎えてくれた。 次官の話では、イスラム過激派組織「イスラム国家」にはイギリス人などと共に9人の日本人も参加しているということだった。初耳である。 |