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旧ソ連軍戦車への「肉弾特攻」作戦に参加した渡部清数さん。悲痛な表情で当時を思い出すように話した=大阪市北区で2014年8月9日、川平愛撮影
終戦記念日:戦車に「肉弾特攻」、下っ端兵士は骨も残らず
http://mainichi.jp/select/news/20140815k0000e040229000c.html
毎日新聞 2014年08月15日 15時00分(最終更新 08月15日 15時38分)
◇大阪の89歳渡部さん「悲惨さ、忘れない」
満州(現中国東北部)の静かな平原。爆音とともに、戦車から上がった黒煙。大阪市北区の渡部(わたなべ)清数さん(89)は69年前の光景を今でも鮮明に覚えている。終戦直前、満州に侵攻した旧ソ連軍の戦車に、日本軍は爆薬を詰めた木箱を抱えて突撃した。「自分の足で走って戦車に体当たりする。かっこいいなんてものじゃないです。そんな悲惨な特攻があったことを忘れないでほしい」。69回目の終戦記念日。渡部さんは次世代に託すために記憶の糸をたどりながら語った。【遠藤孝康】
現在の韓国・釜山(プサン)で生まれ、高等小学校を卒業して関東軍測量部に志願した。当時14歳。厳しい規律の中で軍国主義をたたき込まれた。1945年2月、20歳を前に徴兵検査に合格し、軍属から軍人に。配属されたのはソ連との国境を守る部隊だった。
8月9日未明、ソ連軍は国境を越えて満州に侵攻した。渡部さんらの部隊は国境付近の虎林(こりん)市の郊外で陣地を作って待ち構えたが、下った命令は「部隊の主力は後方へ退却。残る部隊で侵攻を食い止めよ」。渡部さんら約150人が陣地に残った。
だが、戦車を連ねるソ連軍に、渡部さんらの歩兵部隊が太刀打ちできるはずもなかった。そこで上官が命じたのは、約10キロの爆薬が詰まった木箱を抱えて戦車に体当たりする「肉弾特攻」だった。「これでお母さんともお別れだな。それでも戦車1台やっつけられたら軍人として本望だ」と思った。
平原の小高い丘から先陣の攻撃を見守っていると、「ボーン」という爆音とともに戦車の近くで黒煙が上がった。「やったぞ」と思ったが、煙が消え、現れたのは何事もなかったかのように動き始めた戦車だった。突撃した兵士の体は消えていた。後に続いた数人の兵士は体当たりできずに狙撃された。
渡部さんも爆薬を抱えて丘を駆け下り、木陰に伏せた。「だが、それ以上は前に進めませんでした。少しでも動けば弾が飛んでくるんですから」。それからの数分間は記憶がない。徹夜が続いて疲れ切っており、伏せたまま眠りに落ちたのだと思う。目が覚め、陣地へ戻った。責められると思ったが、意外にも「よく戻ってきた」と言われた。
数日後、戦争は終わった。渡部さんらは捕虜となり、シベリアへ送られた。3年間の抑留生活。十分な食料もないまま、農業や森林伐採の労働に駆り立てられた。帰国後は、シベリアで患った結核で6年間の入院生活を強いられた。渡部さんは「死ぬか生きるかギリギリの線だった。僕は生きる側の方に針が振れただけだ」と言う。
近年、特攻をテーマにした映画や書籍が話題を呼ぶが、渡部さんはこう言う。「戦車1台壊すためにキャタピラー(走行用ベルト)めがけて体ごと突っ込む。骨も残らないです。下っ端の兵はそういうふうに死んでいった。それが戦争です。僕たちは敗戦の上に立ち、平和をつくっていかなければならない」
◇関東軍
日露戦争後にロシアから租借権を得た遼東半島先端の関東州と、南満州鉄道の権益を保護するため、日本は関東都督府を設置。その陸軍部隊が1919年に独立し、関東軍となった。31年には満州事変を起こして中国東北部を占領し、翌32年、満州国を建国した。建国後は関東軍も首都の新京(現在の長春)に司令部を置いた。45年8月の旧ソ連による参戦で壊滅的な打撃を受け、戦後は将兵の多くがシベリアに抑留された。
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