03. 2014年8月15日 09:02:01
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元ソ連外相・グルジア大統領のシェワルナゼ逝く ソ連解体時における中心人物の1人だった彼の人生とは 2014年08月14日(Thu) 前田 弘毅 1980年代、新思考外交を展開したエドアルド・シェワルナゼ(シェヴァルドナゼ)旧ソ連外相・グルジア第2代大統領が7月7日に86歳で亡くなった。グルジアで筆者は何度か間近に接したことはあるが、わずかな供回りを連れて現れた。行動派の一方で、極めて質素・素朴な人柄の印象も受けた。(敬称略)旧ソ連外相シェワルナゼ氏が死去、冷戦終結に貢献 エドアルド・シェワルナゼ元グルジア大統領(2003年11月3日撮影)〔AFPBB News〕 一方、冷戦終結の立役者であり、外相辞任時の迫力ある演説(「独裁が近づいている」は今でも、あるいはいつの時代にも残る警句として忘れられない言葉だ)、そして幾度とない暗殺未遂事件を切り抜けた迫力のある政治家であったことも事実である。 グルジアを統治した期間は1972年から1984年、1992年から2003年まで、合わせて実に四半世紀に及んだ。 1990年代、筆者は「生まれてからずっとシェワルナゼ(の天下だ)」という若者の愚痴をよく聞いた。こうした不満をうまく拾い上げたのが2003年秋のバラ革命であったと言える。今回は日本ではあまり知られていない、グルジアの視点から見たシェワルナゼという政治家の素顔について考えてみたい。 「田舎」出身の「辣腕」党員 旧ソ連外相シェワルナゼ氏が死去、冷戦終結に貢献 モスクワでメーデーの行進を祝い集まった市民に手を振るゴルバチョフ共産党書記長(左)とシェワルナゼ外相(右、1989年5月1日撮影)〔AFPBB News〕 シェワルナゼはグルジア西部グリア地方のママティの出身である。グリアは1905年「世界最初の農民革命」など多くの共産主義者を輩出したことで知られるが、一族の1人もこの農民運動の指導者の1人であったという。 もっとも、グルジアの中では一般にグリア地方の出身者は木訥としたアクセントで揶揄されることが多い。ママティを訪れたこともあるが、山間の寒村そのものであった(ちなみに後述の『希望』は20世紀前半のグルジアの田舎の様子をよく伝えている)。 シェワルナゼは首都トビリシの医科専門学校に進むが、党員としてのキャリアを選択し、後に活動していた西部の中心都市クタイシで教師養成学校(後の教育大学)の学位を取ったのは30歳を過ぎてからであった。 グルジアは独自の王国を(紆余曲折はあれ)1000年にわたって存続させ、グルジア人貴族は旧ロシア帝国でもその特権的地位を長年認められていた。残存する貴族意識とトビリシ国立大学中心の学歴社会という環境においてシェワルナゼは伝統秩序のアウトサイダー的存在であったと言える。 もっともグルジア語でシェヴァルデニ(ないしシャヴァルデニ)はハヤブサを意味するが、その名に違わない鋭い眼光もシェワルナゼの特徴であった。まさしく腕一本でのし上がった共産党エリートの典型とも言えるだろう。 グルジアの地方出身者の共産党員・政治家と言えば、まさにスターリン(鋼鉄の人)の別名で歴史にその名を残したイオセブ・ジュガシュヴィリが真っ先に思い浮かぶ。 シェワルナゼは医師の道を断念して党員キャリアを優先し、後に母親が愚痴をこぼしたというエピソードが知られるが、これは神学校をやめて聖職者にならなかったことをソ連の指導者になってからも母親に非難されていたというスターリン同様である。 20世紀にグルジアだけではなくソ連の指導者の1人として世界史に名前を残した2人の政治家にはこのように共通するキャリアもあるが、寒村とはいえ農村の指導者層出身のシェワルナゼはグリア人らしい鷹揚さが最後まで持ち味であった。 「日は北から上る」 ママティ村シェワルナゼ家2000年1月 共産党の中で順調にキャリアを重ねたシェワルナゼはグルジア共和国の内務大臣を経て1972年に共和国トップの共産党第1書記に就任した。1984年にモスクワに移るまで、主にブレジネフ期の地方ボスの1人としてシェワルナゼはグルジアに君臨することになる。
筆者の知る限り、この時代のシェワルナゼについてグルジアでは批判的な立場と肯定的な立場に大きく別れる。日本語に翻訳された自伝『希望』(朝日新聞社、1991年)には自己弁護的な主張が並んでいるが、ソ連が崩壊する局面にあって、祖国グルジアの民族主義者から批判が相次いでいたことも当時の背景にあるだろう。 腐敗の撲滅に熱心に取り組み、工業化を推し進めた有能な指導者としてシェワルナゼを肯定的に評価する声も少なくなく、ソ連時代のグルジアの秩序ある社会を懐かしむ一定世代には特に評価する声はいまだに根強い。 また、グルジアの映画監督オタル・イオセリアーニのシナリオライターとして著名な作家の故エルロム・アフヴレディアニは、聖書を学ぶ会を密かに展開したとき、トビリシではシェワルナゼは黙認してくれたと筆者にかつて話してくれた(なお、氏の「ヴァノとニコ」は『中東現代文学選2012』[中東現代文学研究会編]に収録)。 もっとも仲間が同様の学習会をモスクワで行おうとしたところ、大問題になったとのことだった。1970年代はグルジア映画の黄金期でもあるが、シェワルナゼはグルジア内の愛国主義をある意味で育み、守ったとも言える。 一方で、シェワルナゼはモスクワへの忠誠を示すことも厭わず、この点において特に若い世代にはその行動について厳しい目を向ける人も多い。 今回のシェワルナゼ死去時においても、SNSなどでは批判と皮肉の意味を込めて「日は北から昇る」というシェワルナゼの言葉がよく引用された。これはモスクワにおもねる姿勢を露骨に示したものとして受け取られ、現実主義者・ユーモア好きと取れなくもないが、有能だがどこか風見鶏的なイメージがついて回ったグルジアにおけるシェワルナゼを象徴する一つのエピソードと言えよう。 また、1980年代初頭にトビリシでハイジャック未遂事件が発生した際にも実行犯の若者たち(多くが良家の子弟だった)のみならず、直接実行に関わらなかった聖職者まで処刑するなど、ソ連の指導者としての冷酷な顔を見せることもあった(この事件について拙稿「知られざる現代史」『外交フォーラム』第188号も参照)。 総じて1970年代は後の民族紛争にもつながるような様々な社会的亀裂が顕在化する時代であり、その責任の一端を問う声もまた少なくないのである。 やがて指導力に富む忠実な党員は、また、アウトサイダーとしてモスクワ中央に呼ばれることになるが、その後の新思考外交の立役者としての活躍はよく知られるところである。 民主化の旗手から「独裁者」と呼ばれて グルジア大統領時代のシェワルナゼ 1992年、内戦の渦中にあったグルジアに戻ったシェワルナゼは指導者の地位に返り咲いた。シェワルナゼの政治家としての才覚が最大限に発揮され、またその限界も露わとなったのがこの2度目の統治期間であった。
ソ連末期に激しさを増していった民族紛争について、一部で紛争回避に成功しつつも、結果として2地域の実質的な分離状態が固定されていった。別れたロシアはもはやかつて自身を引き上げた太陽のような暖かみのある存在ではなく、世代交代が進むにつれ、シェワルナゼは西側への傾斜を強めざるを得なかった。 もっとも、この点においても、グルジア国家の崩壊を防いだだけではなく、「アメリカ世」を巧みに感じ取って親西側外交を繰り広げてパイプライン敷設を実現させた点は大きな功績である。シェワルナゼがどこまで「自由主義」を理解していたのかは定かではないが(ちなみに『希望』の原題は『未来は自由に属する』)、時代の雰囲気をつかむ才覚に富んでいたことは間違いないだろう。 政権掌握後のシェワルナゼは政敵排除に努めるとともに、旧共産党系の官僚層と西側で教育を受けた若い世代のバランスを巧みに取って政権を運営した。もっとも、ソ連という社会システムが解体・壊滅した中で、独立国家建設の道は困難を極めたし、残っていたのは利権にすがるようなメンタリティーであった。 シェワルナゼの取り巻きとして知られていた政治家(バラ革命後ロシアに亡命したとされている)と筆者が挨拶を交わした際、渡された名刺の英語の綴りが間違っていた(Gで始まるところがC)。筆者がトビリシの土産物屋をひやかしていると、店にまさにその政治家の名代を名乗る男が現れ、今度大統領が地元を訪れるので、贈呈用に伝統衣装のマントが欲しいといって大枚をはたいて買っていった。 これらはあくまで印象・エピソードの羅列に過ぎないが、2000年頃を境に、一時が万事木訥としたグルジアでも、時代を取り巻く雰囲気は大きく変わりつつあった。 領土を実質的に失ったトラウマと、いつ来るか止まるか分からない電気、水道、給料の遅配、頑丈な檻の中に入ってうなり声を上げるラジエーター(発電機、これがあれば停電中もシャワーを浴びることができるが生活に余裕のある家だけ設置)の音で文字通り社会全体が騒然とする中、アメリカ帰りでかつてシェワルナゼが司法大臣に据え、腐敗撲滅で名を挙げた男が反旗を翻し、代替わりしたロシアを頼ることもできずに老兵は2003年秋に政界を去った。 シェワルナゼは、ドイツからの申し出にもかかわらず、トビリシに留まり続けた。そして、10年以上生き、自身を追い落としたミハイル・サアカシュヴィリの凋落を見届け、政府からもきちんと追悼される形で世を去った。静かな隠居暮らしであったが、優れた政治家に最も必要とされる「幸運」の持ち主であったことは間違いない。 ソ連の解体という20世紀の大きな歴史の中心にいた人物としてだけではなく、現代のグルジアの基礎を築いた指導者であり、小国の悲哀を体現する人物であった。 ロシアの禁輸措置に泣く欧州の果実農家 2014年08月15日(Fri) Financial Times (2014年8月14日付 英フィナンシャル・タイムズ紙) ロシア政府が先週、欧州連合(EU)の食品に対する制裁を発表した時、ジョゼップ・プレセゲル氏はすでに350トンの桃とネクタリンをロシアに向けて発送していた。 フルーツ・デ・ポネントの最高経営責任者(CEO)であるプレセゲル氏は、カタルーニャ地方の街アルカラスにある本社に、二十数台のトラックを呼び戻さなければならなかったと話す。同氏は今、果物が腐って堆肥になってしまう前に買い手を見つける必要に迫られている。 異常気象にロシアの禁輸措置で泣きっ面に蜂 「これが今の時代の問題だ。このフルーツはどうなるのか?」。プレセゲル氏はこう問いかける。「それはとてつもなく大きな在庫問題をもたらすだろう。我々は大量のフルーツを非常に安い価格で売らなければならない」 EUと米国による先月の制裁に対応してロシア政府が講じた輸入禁止措置は、異常気象が原因の供給過剰に苦しみ、すでに疲弊している地中海地方の桃農家にとって、問題をさらに悪化させている。ロシアに自社の農作物の4分の1を出荷しているプレセゲル氏には、考えられる結果について曖昧さはない。「最悪の事態になる可能性がある」と同氏は厳しい表情で話す。 通常はEUの食品輸出の10分の1がロシアに向かうが、ブリュッセルの当局者らは、核果農家の苦悩はEUとロシアとの直近の貿易戦争における例外になると確信している。EUの他の農業従事者は、何らかの支援を受けて今回の嵐を乗り切り、他の市場を見つけるだろう、と彼らは主張する。 EUの慎重な楽観論の多くは、豚肉――欧州のロシア向け食品輸出の主要品目の1つ――の事例に基づいている。ロシア政府が豚インフルエンザに対する不安を引き合いに出したことで、ロシア向けの豚肉輸出は年初から禁止されているが、欧州の生産者は出荷をアジア地域、特に韓国とフィリピンに変更することができた。 主にドイツ北東部を中心とした4000の豚肉・牛肉農家の協同組合によって所有される食肉販売会社ヴェストフライシュは、ロシアの禁輸措置は「ドイツの生産者にとって痛みを伴うものだが、最悪の事態ではない」と話す。同社は欧州での販売を増やすことでこの措置に対応した。 特に大きな打撃を受けるのはリトアニアとポーランド ドイツは、ロシアへの最大の肉輸出国として、挑戦的な口調を強めている。クリスティアン・シュミット農相は、ロシアの輸入禁止措置の影響は「目に見える」だろうが、「これらの制裁が市場の混乱を引き起こすという不安はない」と述べた。 EUは昨年、119億ユーロの農産物をロシアに輸出したが、禁輸措置の影響を受けるのはそのうちの53億ユーロ程度だったと試算している。肉と肉製品が輸出の15億ユーロを占めており、その2割がドイツからだという。 だが、肉は輸出先の多角化の青写真としては限界がある。肉は凍らせることができ、屠殺は遅らせることができるからだ。オランダやフィンランドは乳製品部門に携わっており、もう少し脆弱だ。昨年の両国のロシア向け輸出は2億5700万ユーロと2億5300万ユーロだった。 国のエクスポージャーという意味で、輸出額と比較して最も大きな打撃を受ける国はリトアニアとポーランドだろう。リトアニアは昨年、今年の輸入禁止措置によって打撃を受けたであろう製品を9億2700万ユーロ輸出していた。ポーランドの輸出額は8億4100万ユーロだった。 ロシア向けのフルーツ輸出(昨年は3億4000万ユーロ相当)が禁止されたため、ポーランドは、「リンゴを食べてプーチンを困らせよう」と呼ばれる、国内消費を拡大するためのキャンペーンを始めている。 損失が出たらEUからの補償も ポーランドとフィンランドは、損失に対するEUからの補償を望んでいる。当局者たちは、東欧諸国は輸出先を多角化するうえでより多くの問題に直面するかもしれないと認めているが、新たな市場の探求が始まったばかりの時に、緊急資金について議論するのは時期尚早だと付け加える。 それでも、EUの全加盟国28カ国の農業専門家は14日ブリュッセルで会合を開き、生産者を助けるための4億2000万ユーロの危機準備金を最終的にどのように配備できるかについて議論する。 EUは報復措置によってロシアに対抗しないと明言しているが、ブラジルやチリ、トルコといった国々に、欧州のロシア向け輸出によって開いた穴を埋めないよう正式に要請すると述べている。ただ内々では、他国が輸出をロシアにシフトしたとしても、心配していない。貿易ルートが変わると、EUの輸出業者の市場が開かれるからだ。 EUは今週、桃農家とネクタリン農家に金融支援を提供するための措置を発表した。2013年は、スペインがロシア向けの主要な核果輸出国で、7500万ユーロ相当を販売した。ギリシャは4900万ユーロ相当を販売した。 だが、ギリシャ北部の村ナウーサの果樹園で、12日の朝に家族とともに桃を収穫していたコスタス・タムヴァカリスさんにとっては、EUの支援はほとんど気休めにもならなかった。 「壊滅的な状況ですよ・・・我々は収穫のピークにあって、保冷倉庫は売ることができない果物で溢れています」。地元の果物栽培業者の共同組合の長を務めるタムヴァカリスさんはこう話す。タムヴァカリスさんの作物は普通ならモスクワやサンクトペテルブルクのスーパーマーケットでプレミア価格で売られるが、「今はほぼ確実にゴミ捨て場に向かっているでしょうね」とこぼしている。 By Christian Oliver, Ian Mount and Kerin Hope http://jbpress.ismedia.jp/articles/print/41494 |