03. 2014年8月15日 00:01:33
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関連ビデオ。 一部ですが、文字起こしを試みてみました。現代医学は彼らによって・・・ https://www.youtube.com/watch?v=XCIUosNlbzA 09:20ごろより ヒロヒトの勅令に基づき 後に、ミドリ十字トップと、戦犯免責、証言写真(米軍)、命令系統 10:26 この極秘の部隊には1940年当時、年間に1000万円、今の90億円の予算が 会計検査なしに出ていた。 当時の軍人、関与者の証言。 10:35ごろから 元大本営作戦主任参謀 朝枝繁春(中佐) あの部隊は平素金がいる。予算は軍令陸甲。軍令陸甲というのは、 統帥系統に基づく予算措置であるから、大蔵省の会計検査院は指一本触れることができない。 軍としては関東軍が管轄。隊員の給料や食料、被服などは関東軍から支給された。 (写真)竹田宮(昭和天皇の従弟)も関東軍参謀として管轄。 ビデオ中、 「寧波(ネイホー)」は、徐福一行の出航地である。 冒頭に、竹田宮や他皇族の関与も言及あり 17:53ごろ 卑弥呼に縁の深い土地である 祟山村(すさんそん)細菌戦(被害地図) 細菌攻撃により、親族を殺された被害者に王さん、元秦さん・・・ 日本国を相手取り裁判を起こす。2014年4月 ペストが発生すると、まもなくあちこちの村に、731部隊と連動していた1644部隊の軍医たちが現れた。 当時の資料のその姿(絵)が残っている。 写真 18:22 中国人に返送した1644と731部隊員 18:30ごろ 資料に残る変装した姿。 細菌攻撃の成果を調査に来ていたのではないか。細菌攻撃の後に変装して現れた731部隊の医者たちは、 ペストの患者を村から遠く離れたじの中に呼びいれ、生きたまま解剖したからである。寺の中からあがる叫び声が村にまで届いたという。 18:52 生体解剖が行われた 林山寺 村人の証言 王さん 他 22:40ごろ 王さん 石井四郎の墓の前で叫ぶ。あなたがたを裁く!と。 胸がつまる。 ・・・と一致する。731部隊の中国への細菌攻撃は、疑いようもない。 しかしながら 封印された虐殺 731部隊 ペスト菌攻撃の真相。 戦後裁かれることもなく、事実はこれまで封印されてきました。それは何故なのか。その裏 には、日本、アメリカ、ソ連の熾烈な駆け引きがあった。 30:18 アメリカのジャーナリスト ジョン・パウエル もっと前から明らかにならなかったのは、日本とアメリカ政府が隠したからです。この発言を裏付けるかのように 1945年6月付 アメリカ化学戦部隊の報告書 アメリカが じゅうとくでの細菌戦を既に戦時中から知っていたことを示す文書が、慶応義塾大学の松村教授によって発見された。(慶應義塾大学 松村高夫教授)「結論的には、日本軍が落としたことによって ペスト菌を撒いたことによって、ペスト患者が出たということは、ほとんど間違いないと、いうようなことを、言っておりますね。 さらに、驚くべきことに、 30:57以降 アメリカのダグウェイ軍事基地が保管している文書の中には、 米国ダグウェイ基地に保管されていた人体実験のレポート(メモ手帳4冊写真)れていた人体実験のレポート アメリカのトップ・シークレットとして保管されていた 731部隊の人体実験に関する詳細な(人体図、実験内容の模写)データを記した文書まで眠っていたのである。(プレパラートの写真・・・) およそ700ページにものぼるこの文書の中には、実験で標本にされた人体の顕微鏡写真の一部も含まれていたのである。実は、この人体実験のデータを巡って、終戦直後から、日米ロの三国間で熾烈な情報戦が展開されていたのである。 終戦後アメリカは、(1945年8月30日)マッカーサー上陸の2日前に、日本軍の秘密兵器開発の実態を調査させるため、細菌研究の専門家、マレー・サンダース中佐を日本に派遣した。横浜港に上陸したサンダース中佐に、通訳兼情報提供者として、旧陸軍省から派遣されたのは、元731部隊の 31:52 元軍医学校教官・内藤良一、後のミドリ十字会長(写真)と、大政翼賛会の亀井寛一郎元代議士だった(写真:亀井元衆議院議院・外交官)。亀井は戦時中、731部隊の風船爆弾の開発に(写真:亀井寛一郎の備忘録)協力していた人物であるが、この内藤と亀井が、GHQとの間で、したたかな戦犯免責の交渉を展開していくのである。(写真備忘録より拡大部分:「開発協力」) 当初サンダースが 亀井や内藤から紹介されて尋問したのは、実態についてほとんど何も知らない関係者ばかりであった。業を煮やしたサンダースは、遂に内藤に脅しをかける。「このままでは私は本国に帰り、彼らは調査を拒否していると報告せざるを得ない。この場合どんな事態が起こるか分からない。しかし皆がもし真実を語るならその秘密を守り戦争犯罪人として訴追しないことを約束する」 常石敬一著 「医学者たちの組織犯罪」より 32:45 写真 (1945年10月1日付 内藤良一が書いたメモ) このサンダースの脅しに慌てた内藤は、翌日驚くべきメモを提出してきた。そこには 32:50 写真 (最上位に)TENNO-HEIKA(天皇陛下)囲み線にて強調を頂点として、 そこには天皇を頂点とした日本の細菌戦部隊の命令系統図などが詳しく記されていたのである。初めて得られた具体的な情報に興奮したサンダースは、直ちにマッカーサーに戦犯免責を提言する。(写真 連合国軍最高司令官 D.マッカーサー) 元軍医中佐 マレー・サンダース インタビュー(映像) 「私は内藤のところに戻り、マッカーサーの取り計らいにより、アメリカは、細菌戦に関わった人々に対しては戦争犯罪人としての追求は行わないと伝えた。この効果は絶大でした。その後一挙にデータが出てきたのです。 (写真 新妻清一陸軍中佐 「マ司令部綴り」 サンダースが口頭で免責を与えた事実は日本側の記録にもはっきりと記されている。(写真写真写真)サンダースはこの内藤メモをもとに関係者の尋問をするが 真相は隠しとおされ、結局石井四郎中将の行方も(写真731部隊隊長 石井四郎中将)、人体実験の事実もつかめないままに帰国した。(写真 1945年9月10日付 サンダース・レポート)帰国後、サンダースは、報告書の中で、「重大な失敗 serious error」 日本は生物兵器開発に失敗したと見做している。 その頃都内に潜伏していた石井四郎と731部隊の幹部は、鎌倉でサンダースの帰国直後に、秘かに米軍と2回目の戦犯免責の交渉を行い、合意に達したといわれている。この会談について、直接内藤から話をきいたことのある、神奈川大学の常石教授はこう見ている。(インタビュー映像 常石敬一 神奈川大学)「自分は出ていないから知らない。ただ あったら・・・石井はそんなことをやったらしいね」ということをおっしゃっていました。731部隊の細菌兵器のノウハウ、それを巡ってのね、日米間の取引、戦犯免責とデータの交換、そうしたことが鎌倉で行われたんだろうと、いうふうに推測できます。」 ところがその後、 34:51 晴天の霹靂ともいうべき事態が起きる。1947年1月、東京裁判(極東国際軍事裁判)のソ連側検事のヴァシリエフ少将が突然石井らの身柄の引渡しを要求してきたのである(法廷写真拡大 ソ連代表検事A.N. ヴァシリエフ少将) なぜソ連が石井を・・・? 実はソ連側は、(記録文書写真 柄沢十三夫の尋問証書) 満州(哈府)でとらえた731部隊の柄沢(からさわ)少佐らの尋問から。中国での細菌戦と人体実験の事実を既につかんでいたのである。このソ連側の要求を受け、市谷の旧陸軍省では、急遽米ソ会談が開かれた。席上ソ連側は、人体実験に関する情報を、米ソだけで独占しようと持ちかけたのである。一方でソ連側の要求は、(写真 石井四郎の娘 春海さん)731部隊の関係者にも衝撃を与えた。石井四郎の娘・春海さんは、当時の様子をこう語っている。 テープ起こし 春海さんの証言 「増田さんが青酸カリを持って父に「隊長死んでくれ!」と。「家族も殺してくれ!」と・それで私は飛び出して行って、その青酸カリを帯の間に入れた。」 (写真 1644部隊第二代部隊長 増田知貞大佐) 「(だから)恐ろしいことをしたなと私は今は思ってますけどね。」 米ソ会談から2週間後の1月24日、内藤は、GHQの尋問で 写真 1947年1月24日付 内藤良一の尋問証書 初めて人体実験 humans for experiments の事実を認めた。 人体実験の事実を確認したアメリカ極東軍は、石井達をソ連側に尋問させるべきかどうかについて、 写真 2月10日打電 「石井たちをソ連側に尋問させるべきか」 本国に伺いを立てる電報を送っている。 これに対してワシントンからの返答は、 写真 3月21日打電 「専門家に石井たちを尋問させ、重要な情報はソ連側に渡してはならない」 というものだった。アメリカは人体実験のデータの独占をはかったのである。 石井たちを尋問させる専門家として、フェル博士 写真 ノバート・フェル博士 が急遽本国から派遣されたが、石井たちは、具体的なデータは消失したと主張し、調査は行き詰ってしまう。 写真 1947年5月付 石井四郎の尋問調書 そればかりか石井は、フェルに対して 「細菌戦のエキスパートとして雇って欲しい」 細菌戦のエキスパートとして雇わないかと、持ちかけてさえいるのである。 石井四郎の娘 春海さんの証言 「向こうに渡すならオレにも条件がある。一人残らず部下たちを戦犯にならずに助けることだ。それが条件だ。」と。 常石敬一 神奈川大学教授 インタビュー 「実はこの戦犯免責というのは、極めてあやふやなものだ(った)ということなんですね。 ですからこの三回目の人体実験のデータの引き換えに、戦犯免責を与えることについては 石井たちは相当強硬に、文書(ドキュメント)による戦犯免責を与えてほしいということを強硬に 主張します。 フェルの尋問が終わりに近づいたころ、内藤 写真 元軍医学校教官 内藤良一 内藤は文書による免責を求めた。この内藤の申し出に対して極東軍はまたも本国に電報を打ち、何度も伺いを立てている。 写真 (電報) 「1947年5月6日打電 文書による免責が与えられるなら全てを明らかにする」 この電報を巡ってワシントンでは、国務省と軍部が真っ向から対立した。 アメリカ人ジャーナリスト ジョン・パウエル インタビュー 「免責を与えて情報を手に入れろと軍が言いましたが、国務省がノーと言い、そんなことをしてそれが将来漏れたら、我々の恥となるかもしれないので、情報は機密チャンネルに留めるというのがベストである。これが基本的に免責である。同時に、それが我々ができる最良の方法である、と言いました。 記録文書写真 1947年8月1日付 3省調整委員会のレポート 長い議論の末、結局最後まで、石井たちに戦犯免責を保証する文書は与えられなかった。 上レポート写真より 「日本の生物戦のデータの価値は、戦犯訴追よりもはるかに重要である。」 しかしこのダグウェイ軍事基地で発見された文書は、まぎれもなく731部隊の (文書綴り写真 米国ダグウェイ吉に保管されていた人体実験のレポート) 731部隊の人体実験に関するものであることなどから、最終的に石井と内藤は、関係者たちに 人体実験に関する詳細なデータを提出するようはかったと思われる。 石井四郎の娘 春海さんの証言 テープ起こし Q. 「資料というのは米軍に渡っている訳ですね。」 「80%は…とはハッキリ聞いています。」 Q.「残りは頭の中にあると」 「そうです。」 アメリカ軍の最終調査は 写真 1947年12月12日付 ヒル・レポート ビクター・ヒルのレポートにまとめられている。ここでヒルは、 「貴重なデータがわずか25万円で入手できた。」 と書いている。 アメリカのジャーナリスト ジョン・パウエル インタビュー 「アメリカの調査官が本当にほしかったのは人体実験に関するデータです。 ヒル博士はレポートを書いていますが、我々はモラル上のためらいのため、人体実験をすることができなかった、と言っていました。でも、石井氏の研究があるので、それをもらって、 使うことができたのです。」 ソ連側の自問門は、アメリカが情報を手にした後に、石井四郎の自宅で、米軍立会いの下で 形ばかりのものに終わっている。 石井四郎の娘 春海さんの証言 「研究データが欲しかったんだと思います。アメリカとソ連が父を取り合ったんです。 結局東京裁判で、7311部隊の「関係者が裁かれることはなかった。それどころか、内藤を初めとする731部隊の関係者たちは、重鎮として日本の医学界に君臨していくのである。 731部隊 戦後職業・役職 病理班長 金沢大学医学部病理学教授 病理班長 京大医学部長 天然痘班長 京都微生物研究所 第二代隊長 ミドリ十字取締役 資材部課長 昭和薬科大学 林ロ支部長 総合病院南陽病院 昆虫班長 三重県立医専教助 焼成班長 東京衛材研究所 第二部 陸上自衛隊衛生病学校 ノミ研究班長 大阪市立医学部長 軍医学校教官 ミドリ十字会長 防疫研究室嘱託 東大伝染病研究所長 航空班長 防衛大学 コレラ班長 京都大学 大連支部総務部長 目黒研究所 植物研究班長 抗生物質協会 細菌爆弾班長 国立衛生試験所 凍傷班長 京都府立医大学長 |