http://www.asyura2.com/14/warb13/msg/647.html
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ホントウか?!日本軍中枢は原爆投下に協力したのか?ホントか??福島と日本中の被ばくと汚染は?
敗戦後、日本へ帰るある帰還船の中で、日本の島影が見え始めたとき、帰って来られなかった戦友を思い、戦友の名を挙げてあいつも・あいつもだ、死ななくて済んだのに ・ ・ ・ と、悔やむ声が湧き起きたそうだ。そして、その上官、洞窟に籠って陸士の勉強をしながら無謀な突撃命令を繰り出しては、次々に戦友を無駄死にさせた上官を批難する声が上がった。
その上官をあげつらって、戦友のあいつが死んだのもあの誰それが死んだのも、あの上官ヤツのせいだということになって、その上官を引き摺りだしみんな担ぎ上げ、とうとう海にほうりこんでしまった・・・と直接の目撃者から私は聞いたことがある。自分は手出しをしなかった、のだそうだ。
その後泳いで陸地にたどり着けたか友船に拾われたか、日本の魚の魚腹に葬られたかは知らない、とその人は語ってくれた。
戦争に負けるとはどういうことか。(二・二六事件が起きたのは1936年・昭和11年のこと、1945年昭和20年の敗戦のちょっと前のことだった。社会改革を断行しようという人脈と下士官とが通じていたことに日本中枢部は驚き恐れ怒った。とは言え、決起の前から盗聴録音盤を作成して監視していたのだが。)
(俳優は、細川俊夫、香川京子、鶴田浩二各氏だそうです)
(関係者がまだ大勢生きていた時代昭和29年に作られた映画、「叛乱」1954年だそうです。映画解説;
http://zilge.blogspot.jp/2008/11/54_17.html )
ところが
日本の敗戦では原爆が付いてきた。(シベリア抑留も付いてきた)日本が敗戦するにあたって、米も日本の当局も、各国の敗戦の歴史を参照し研究し尽くしたであろう。敗戦した途端に兵隊どもは、食糧配給無しの、無給無職の失業者と化す。海外から帰国されても・・・社会不安の種だ、と考えた人々がいただろうか。
ちょっと外国の敗戦例を振り返っておくと〜〜〜
(おもにウィキから)
@ ロシア:敗戦で労働者兵士農民のソビエト蜂起による革命(皇帝追放と社会改革)
A ドイツ:第一次大戦講和交渉(皇帝退位問題をめぐるドイツ内抗争)、
ドイツ革命1918(無謀な出撃を兵士が拒否して、それを支持する各地レーテが蜂起、
ドイツ社民党による仲介と懐柔、社民党シャイデマンによる左派の機先を制した勝手な共和制宣言、右派義勇軍投入による最左派への武力弾圧と、
ドイツ敗北についての匕首伝説流布など右派の勢力伸長と経済悪化)
オーストリア合併問題と
1931年オーストリア最大のクレジット・アンシュタット(ウィーンのロスチャイルド家の影響下にあった)の突然の破綻・取引停止、
世界恐慌の欧州への波及。
ドイツ右派勢力による、ナチスとの妥協と引立て、ナチス抬頭。
「社民党は裏切り者で=ナチスより危険な社会ファシズムだ」説によるソ連スターリンからの社民党非難攻撃、社民主要打撃論。
・・・
敗戦兵士の蜂起とその赤化が、もっとも畏怖され警戒されただろう。
〜〜〜〜
かってNHKはそれでも調査報道に、唸らされるものがあった。ずっと考えても見たことさえ、私なんかなかった話だった。
二つの動画を見て魘(ウナ)されっ放しです。
特殊任務機のコードが600番代であり、当日、豊後水道に侵入したB29(気象偵察機)と、広島に投下することになるB29が600番代であると、探知し軍中枢には報告ずみであった。
(梅津美治郎参謀総長の側近)井上忠男中佐の備忘録にはこうあるそうだ
「V675(コールサイン) 特殊爆弾 通信上、事前察知、長崎爆撃5時間前」
(画像は「アトリエ隼 仕事日記」ブログさま
http://hayabusa-3.dreamlog.jp/archives/51343514.html
による番組の秀逸な要約から獲捕拝借)
ところが広島でも、広島原爆を教訓化したハズの長崎でも、警報も迎撃も、
発令さえもされなかったのだった。なんの抵抗も抗戦も無く、米軍爆撃機は
原爆落とし放題だったわけだ。
〜〜〜原爆の動画ふたつ〜〜〜
@ 空襲警報が、なぜ広島でも長崎でも、鳴らされず、
迎撃もされなかったのか
http://www.asyura2.com/14/genpatu38/msg/273.html
A 子供も大勢動員された中に投下された。
「封印された原爆報告書」
http://www.asyura2.com/14/genpatu36/msg/849.html
「心象を良くする」ためって(!)
「被害者救済よりアメリカとの関係が優先されていたのです」
子供が動員されて強制疎開の屋外作業に従事させられている時に炸裂したと
先日の放送でもやっていた。
特殊任務機が来たと探知していたのに、一度目は原爆投下したと分かっていたのに。
バレバレなのに米軍も、二度目に当たってコールサインを変更することなく、
悠然とやって来た。攻撃されないという確信があったのだろうか?護衛機もなく。
そしてまたもや空襲警報も迎撃も命令されなかった。またもや投下し放題だった。
いったい何故なのか!?
いろいろの見方があるようですが
NHK動画の背景をも述べておられる、
「移ろうままに」ブログさまから引用
http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2011-08-08
〜〜〜引用はじめ〜〜〜
「原爆投下 活かされなかった極秘情報」 [日本の独立]
8月6日、たまたまNHKで「原爆投下 活かされなかった極秘情報」を見た。
広島も長崎も、諜報レベルではB29襲来情報を掴んでいたにもかかわらず、空襲警報が発令されなかったことをおそらくはじめてNHKが報道した。
「これまで想定外の奇襲攻撃とされてきた広島、長崎への原爆投下。しかし実際は、アメリカの電波を傍受することで、軍は原爆投下をめぐる動きを事前に察知していたことが明らかになった。」
原爆投下の2ヶ月前から、諜報機関はテニアン島における特殊任務機の動きをキャッチ、しかし軍は、危険が迫っていることを知りながら何の手も打たなかったのだ。
テニアン島からのコールサインをキャッチしていた当時の諜報部員、太田新生さん。
「悔しいったらありゃしない。分かっていたんだから。何か努力の跡があればあきらめがつくが、全然使った形跡がない。だからよけい悔しい」
大村基地の戦闘機部隊で出撃命令を待っていた本田稔さん。
「66年経ってはじめて知った。出撃命令さえ出してくれていたら、長崎は決して爆撃されなかった。それだけは確信している。5時間もあれば十分対応できたはず。これが日本の姿ですかね。これからもまた起こるんじゃあないですか。」
さらに、特殊諜報部員だった長谷川良治さんによると、8月11日諜報記録をはじめとするすべての証拠隠滅の命令が下され、終戦の15日まで徹底した焼却処分が行われたという。
番組の中で「原爆についての情報がありながら、なぜ知らされなかったのか―――原爆投下後66年、はじめて明かされる真実。」とあったが、「なぜ知らされなかったか」の答えが用意されていたわけではない。しかし、その答えはすでに鬼塚英昭氏によって今からちょうど3年前に提示されていた。「原爆の秘密」の国内編と国外編の2冊の本だ。
「ソヴィエトが参戦しようが、しまいが、原爆は確実に広島と長崎に落とされることになっていた。すべては、原爆で金を儲けようとする悪しき集団がなせる行為であった、・・・そのためにスティムソン陸軍長官が指揮をとり、大統領、国務長官、科学者、軍人たちを動かした。それだけでは原爆は製造しても投下できない。それゆえに、どうしても落とされる側の協力が必要であった。」(「国外編」P.297)
「原爆投下は『スペクタクル』でなければならなかったのである。そのためには、広島市民にとっては申し訳ない限りなのだが、・・・無警告でなされねばならなかったのだ。」(「国内編」p.98)
広島には原爆投下が近づくにつれ、数万の軍人が入るようになり、そのため広島市民への食糧供給が底をつくほどの状況になったという。その軍人達は何の意味もない穴掘り作業に従事させられ、その多くは原爆によって命を奪われていった。犠牲者が多いほど衝撃度の高い「スペクタル」の実現のために。それを演出したのは、本土侵攻に備えて創設されたという第2総軍の最高司令官畑俊六。鬼塚氏の追及はあくまで執拗である。
NHKが鬼塚氏のこの二冊を知らなかったはずはない。この時期、いったいどこに向かおうとしているのだろうか、NHKは。そしてこの日本は。
〜〜〜引用おわり〜〜〜
日本の敗戦を実現し、戦後の世界、日本敗北後のアジア・中国の支配を展望した世界支配者は、どのように考えたであろうか。また、自らの地位保全を図る人々はどういうふうに考えたか。両者に一致するものがあったであろうか。
・ ・ ・
敗戦する前には強硬主張の一派を始末しておかねば危険だし、
そういう危険な強硬派人物・思想は、あらかじめ国民からの信頼を失わ
せておかねばならない。反抗・蜂起する力も発条も気力も(命も)失わ
せて置かねばなるまい。絶対に逆らわぬ精神状態に追い込んでおくべきだ・・・
確実に失業者となる危険人物階層群はなるだけ減らしておいたほうがいいし・・・
帰国しないで呉たらなおいい。こんな風に考えて歴史を研究し戦後ありうる場合
を尽くして考究したであろう。
ソ連のスターリンや、中国の蒋介石は、日本敗戦の前から連合国の一員としては
ごく一部の話が共有され通じられていただろうし、中国共産党とそこで反日本軍
活動をしていた日本人指導部もまた、けっして反米とはならないよう話がつけら
れていただろう。
餓島作戦とはインパール作戦とは何だったのか。敗戦が決定的になっているのに
勇壮な展望論で吹聴され何万人も病死させられる作戦とはなんだったのか。
シベリア抑留とは何だったのか。関東軍上層幹部はなぜ日本人を騙して放置して
遁走したのか。
政治犯で逮捕されたまま戦後になっても解放されずに死なされたひともいたそう
だが、解放されたひとにとってはいさ知らず、指導部の一部の人は、原爆投下の
軍が解放軍だという認識を理論化して主張したそうだが・・・。戦後は自由と民
主主義の時代だと、このあいだまで私も信じてきた。「自由と民主主義の時代」
の入り口は原爆で焼き殺され原子病死させられねばならなかった、のだろうか?
(特殊任務機V675襲来の報告を受けていたあの梅津参謀総長が、二発目投下
はないと力説してるうちに長崎に投下された。梅津大将は降伏調印全権団に加わ
らせられ降伏署名をした。東京裁判では、A級戦犯ではあっても死刑でなく終身
禁固刑判決を受けたが、証言も手記も残さぬうちに、
禁固中の昭和24年に「直腸癌」で「病死」したのだそうだ(のち靖国。ウィキ
ペディア)。(梅津は、1936年二・二六事件後の粛軍、1936・7年軍機
保護法成立の推進
( http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-date-20140130.html )
関東軍参謀の粛軍、などを果たしたあと、敗戦時の参謀総長だった。
が片や満州事変を策謀した石原莞爾のほうは、左遷され、戦後ワクチン投与など
受けていたが、梅津と同じ昭和24年に、こちらは「肺炎、肺水腫、膀胱癌」な
どを併発して「病死」したのだそうだ。・・・
直腸ではないが、3・11の後に埼玉県で結腸癌が激増したのは2011年の秋であったそうだ(厚労省統計、阿修羅・「敗血症死因で見る大阪」から画像拝借)
http://www.asyura2.com/14/genpatu36/msg/850.html
)
いったい福島県民はじめ日本中の、被ばくと汚染と国土汚染・買うよう汚染は、誰の心象を良くするためなのか?
日本は原発もうやめたいと言うと、一般の米国民は熱烈歓迎支持してくれるだろう。が、米国一部のエライ関係者が、「アリエナ〜イ!」と言ってくると、それでそれが通っちゃう養豚場国家?なのか日本は!?
- 自国の支配層によって三たびも“核の人体実験”に投げ込まれた日本国民:NHK「原爆投下 活かされなかった情報」 あっしら 2014/8/08 14:05:04
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