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謎の死亡広告の真相が判明〜旧日本軍の改造人間化実験で後遺症の父(95)
http://ameblo.jp/64152966/entry-11877425730.html
2014-06-13 20:44:44 wantonのブログ
前書き
ついに解読成功???⇒謎の死亡広告。
旧日本軍の改造人間化実験で後遺症の父(95)
http://ameblo.jp/64152966/entry-11493493733.html
上の記事は、2013年の3月19日のものですが、
北海道のある女性の方から、
「どうも暗号広告のようなので、解明して欲しい」といった
要請があり、私なりに解明を試みたものです。
ただ、情報量が少なかったこともあり、
題名に???があるように、解明を試みた私としても、
我ながら半信半疑であったことも事実です。
しかし、ここに来て、本命ともいえる真相情報が
寄せられて来ましたので、皆さんに、公開する事に致しました。
私のブログにおいて、幾つもの暗号記事の解読をして来た
事実は、皆さん、御存知のことと思います。
そのほとんどは、かなりの核心に迫ることが出来たと思っています。
ただ、今回のものに関しては、情報不足の為、失敗だったようです。
この点につきまして、皆さんには深くお詫び申し上げます。
時には、今回のような失敗もあろうかと思いますが、
どうか、ご容赦下さいますように m(_ _ )m
しかし、その過程において、瓢箪から駒ではないですが、
思っても見なかった情報につき当たり、大きな収穫もありました。
そして、あの記事に引用した事件や情報は全て事実である
ことを元にしたものである事を付け加えておきます。
死亡広告記事の内容があまりにも突飛なものでしたから、
暗号が含まれたものに違いないと多くの人が感じたことを
この私も同様に感じたのは事実です。
事実は、小説よりも奇なりと申しますが、
まさか、書かれている内容が大筋において、事実を元にした
ものであったとは、とても信じがたい驚きでありました。
さて、本日、nondell さんという方から、極めて、真相と思える
ような記事の御紹介をいただきました。
尚、本記事に勘違いや間違いが判明した時には、その都度、
責任を持って訂正記事を掲載することをお約束致します。
nondellさんより
父の戦争
http://www.geocities.jp/wakokukeisei/sensou.html
<転載>
父中村留吉儀3月11日自宅にて、
95歳をもって永眠いたしました
故人は旧海軍二等兵、空母瑞鶴で零戦整備のち機関部転属
本人の同意なしに改造人間化の実験に利用されたが失敗し、
心身に後遺症が残った
ここに生前のご厚情を深謝し、謹んでお知らせ申し上げます
(2013年3月17日 朝日新聞に広告掲載)
(2013年4月12日)
追加 (2013年8月10日)
マレーの留 (2014年5月16日)
目次
名簿 入隊 水鉄砲 空母瑞鶴 発病 拘束と隔離
退艦式 火事場の馬鹿力 鉄人化計画 吉田家の秘密
自衛隊の勧誘 追加 マレーの留
名簿
名簿が二つあります。
総班員名簿
戦闘機整備班
空母瑞鶴第27分隊
昭和19年5月8日現在
第一班に父の名が見えます。
等級 上整曹
特技 高整
記事 班長
翔鶴戦斗機会名簿(平成元年)
これは手書きのものです。 住所や電話は省略します。
父の名はリストの終りのほうに見えます。
所属 戦整
備考は空欄です。
ただしこの名簿では、所属の所で戦整にはほとんどが
戦整11とか戦整18のように番号がついています。
その数は50名弱です。
番号が付いていなく戦整とのみ表示されているのは、
父のほかに2名のみです。
番号なしの戦整と表示されている3名はリストの最後、
物故者の直前にあります。
入隊直後の訓練の時期の所属が空母翔鶴だったのでしょうか?
空母翔鶴は1944年6月マリアナ沖海戦で沈没。
空母瑞鶴は1944年10月25日エンガノ岬沖海戦で沈没。
父は、空母翔鶴に所属していたこともあったのでしょうが、
翔鶴が1944年6月に沈没する以前に、
1944年5月8日現在で既に空母瑞鶴に所属し、
班長になっていたことがわかります。
入隊
日米開戦(真珠湾攻撃)の翌年に、
父は海軍に志願して入隊した(ようです)。
以下では (ようです) を簡単のために省略します。
日米開戦は1941年(昭和16年)12月。
父の生まれた年は、1918年(大正7年)1月ですので、
24歳のときに入隊したことになります。
航空学校に入学して飛行機乗りになりたいと親を説得して
東京に出たが、体格が劣っていて飛行機乗りになれる見込み
が無く、航空母艦の艦載機の整備士として海軍に入隊した
とのことでしたが、あるいははじめから入隊するつもりで
上京したのでしょう。
初めての航海のあとの長期休暇に故郷に帰り、
親をだました結果になったことを詫びたそうです。
許してくれて、そのうえ代々家に伝わる黄金作りの太刀を
持ち出し、こんな物を今時、持っていても意味がなく、
ほかに守ってやれる物もなく、
また兵隊になろうとする者は他には居なかったと、
その太刀を渡されたそうです。(伝安徳院)
水鉄砲
私が未だ幼かった頃、父と風呂に入っていたとき、
私が水鉄砲で遊んでいるのを見て、
父が 水鉄砲男の話をした記憶があります。
父が入隊後、二年か三年目の年の上官は
海軍兵学校(海軍の士官学校)をトップクラスの成績で
卒業した人だったが、躰か心が長い航海に耐えられない人
だったそうです。
東南アジアの寄港地に入港したとき、
初年兵への注意事項を伝えないうちに、
父の上官は、早々に上陸してしまった。
解放された初年兵の興奮状態に危惧を感じた父は、
仲間と共に、初年兵達の後を離れてついて行ったそうです。
そのとき、親から渡された金ぴかの刀を飾り物にしか
見えないように細工して持って行ったそうです。
はたして、初年兵達はゲリラに襲われたが、
仲間を救援に呼ばせ、何とか助けたそうです。
そのとき、金ぴかの刀は折れてしまったそうです。
責任問題になるはずの上官は、
熟練の護衛をつけたと言い逃れたそうです。
これが、その後のボタンの掛け違いのはじめになったようです。
刀は、使い物にならないだろうと、上官に取り上げられた。
折れた刀も、鞘に収めれば見た目は黄金作りです。
上官の上官、艦の偉いさんのお気に召したのでしょう。
空母瑞鶴
昭和19年5月8日現在で父は戦闘機整備班に所属しています。
ところが空母に残っているゼロ戦が残り少なくなって、
機関室の技術の仕事に転じたそうでした。
ゼロ戦の高性能の秘密は、
機体の外装が布製で軽いことにあったようです。
この秘密が敵に知られ、
機銃弾が当たらなくても、近くを通っただけで発火し、
優劣の形勢が逆転したようです。
航空母艦瑞鶴の高性能の秘密は何だったでしょう?
まさか外壁の鉄板が薄くて軽かったのではないでしょう。
とすると、エンジンか燃料に秘密があったでしょう。
ゼロ戦が打ち落とされて少なくなったり、
または艦載機の戦力が望めない時、
空母の戦力は無いに近いでしょう。
そのような、昭和19年の秋、戦場に瑞鶴が向かったのは
瑞鶴の秘密を破壊し海底に沈めることが
一つの目的だったのではないでしょうか ?
発病
出航早々、結核であることがわかった。
外洋なら、海に捨てるか、カマで焼却するところだが、
次の寄港地まで隠れるところに心当たりがあるか。
父は、機関室の勤務に転属していましたから、
一人くらいが隠れるスキマの心当たりはあったでしょう。
それでは、病死扱いにするから、所持品すべてを焼却して隠れなさい。
そして艦内で、公式には病死ということになった。
この前後を考えると、機関部転属は病死扱いのために
用意されたとも疑えます。
そのまま事が進行すると、1944年10月25日
空母瑞鶴の沈没と共に、艦に残され、たぶん折れた黄金作りの
太刀とともに運命を共にする予定だったでしょう。
それではあんまりだと父の上官は苦肉の策を講じたのでしょうか?
その策とは、あとの結果から推測すると、
敗戦は見えているので、非公然の軍隊を作り連合軍に抵抗する。
その計画書を父に持たせ下船させるというものだったでしょうか。
拘束と隔離
父は次の寄港地で密かに降ろされ、配達するする品を託されました。
指示に従い品物を届け終わった後、
所属部隊本部に出頭する期日には余裕があったので、
父は母を訪ね、私の生命が芽生えました。
期日に、本部に出頭するとただちに拘束され、
しばらく後で隔離病院に収容されました。
父が生き残るための戦いが始まったのです。
はじめは脱走容疑で拘束され、瑞鶴の沈没後、
帰還者から情報が伝えられた後は、伝染病として
隔離病院に移されたのでしょうか?
あるいは、帰還者の到着を心待ちにして耐えていた父は、
絶望して心に異常を示し、病院に移されたのでしょう。
当時は、徒食者を許さない厳しい社会環境でした。
患者が生命の危機を最も感じる時間帯は、
夜、消灯後からの数時間だったでしょう。
その後、後遺症として、病院に入院すると、
その時間帯に父の精神状態が不安定になったようです。
退艦式
艦の偉いさんが、折れた黄金作りの太刀を退艦式のときに
帯びたいと言い出したというのが、父が最後の航海で早々に
降ろされた理由として、私が最も考えやすいものです。
空母瑞鶴を降ろされた父は、本部に戻った後には
脱走の疑いで拘束されたことは先に書きました。
父から取り上げた、折れた黄金作りの太刀を、
艦の偉いさんが帯びて退艦式に臨んだあとは
父はご用済みで、空母とともに海底に没するはずだったでしょう。
一番悪いのが艦長さんだったのでしょうか?
もう少し奥がありそうです。
マレーの虎ハリマオ事件では、国内で英雄騒ぎが高まるに
比例してマレーなど現地での反発が強まり、軍ではその鎮静化に
苦労したことでしょう。
そのために第二のハリマオ事件として騒ぎが拡大しないうちに
早々に収めるよう、軍の上層部の意向が働いていたのでしょう。
父の上官の苦肉の策で殺されることは免れましたが、
まだ独房に捕えられており、心が耐えられる限界に近づいて
いたことでしょう。
父の上官は
非公然の軍隊を作るから参加すれば、
牢屋から出してやると父に持ちかけたそうです。
従えば、少佐にしてやる。
自分は中佐になり、陸軍も作るだろうから、
陸軍からの大佐の下に就く。
陸軍からは歴戦のつわものたちが選ばれるが、
自分たちは戦闘の経験がほとんど無い。
手足まといならないように、いざというとき自分の身だけでも
守られるようにする必要がある。
とのことだったそうです。
父は、戦闘の技術は全く知らないのでと、ことわったそうです。
父は、入隊前は村の鍛冶屋(鉄工場)で働いたりして、
機械の整備には慣れていたが、戦闘の訓練は受けていなかった
のでしょう。
その後、軍の病院に移され、
よほど耐え難いことがあったのでしょう。
父は現在でも病院に入院するとじきに、
精神的に不安定になるのはその後遺症でしょう。
火事場の馬鹿力
兵隊を少佐にするというのに同意しないので、
精神改造が必要だと、自分の出した小便を飲まされたそうです。
それで小便を出すのを我慢したそうです。
春連休の前頃に病院に移され、敗戦で米軍に解体された夏まで、
4、5ヶ月近く膀胱に負担が掛かっていたのでしょうか。
もう一つの改造は、麻薬の使用で、
火事場の馬鹿力を出しやすくすることだったようです。
火事場の馬鹿力は人間が本来の動物として持っている力でしょう。
白兵戦になった時などには自然に火事場の馬鹿力で戦っているのでしょう。
火事場の馬鹿力を使うと、身体の消耗が激しく、
普段は力を自動的にセーブして出すように脳が
コントロールしているのでしょう。
麻薬患者などが、禁断症状のときなどにも見られ、
脳に関係することが知られていたでしょう。
現在では、たぶん重い認知症患者にも見られることのようです。
鉄人化計画
これらの火事場の馬鹿力に関する人体実験を鉄人化計画と呼んだようです。
父の上官は体に弱いところがあったのでしょうか?
自分の体質改善の必要性を感じていたことでしょう。
鉄人化というのは、ナチスドイツが戦功のあった兵隊に
鉄十字勲章を与ていたことから着想したようです。
父が新兵さん6、7人を救ったので、
二階級特進もありうる状況だったが、その機会を奪ってしまった。
代わりに鉄十字勲章ではなく、鉄人にしてやろうとのことだったでしょう。
それらの記録は敗戦後すべて米軍に没収され日本には
残らなかったでしょうが、米国の情報公開で現在は
公開されていることでしょう。
日本では病院関係者の口から少しは漏れたでしょう。
漫画「鉄人28号」はそれら病院関係者の話をヒントに
着想したものでしょう。
ほかに情報は残っていないでしょうか。
吉田家の秘密
戦後の宰相吉田茂は養子でした。
吉田茂は敗戦まぎわヨハンセン(吉田茂の反戦活動)で
捕えられていました。
反戦活動といっても、現在理解できるような
平和活動ではないようです。
当時御前会議では終戦派と戦争継続派の勢力が拮抗していました。
吉田茂の反戦とは、御前会議の終戦派に連なる活動だったのでしょう。
私の母の父も旧姓を吉田といいました。
その吉田家と吉田茂が養子になった吉田家は
江戸時代の末期か明治の初めころは同じ家でした。
私の父の隠された秘密を確認しようと、母方の祖父が
一計を案じました。
父方の祖父は、私が生まれた頃には既に他界していました。
吉田茂も私の父も終戦間際に捕えられていました。
これは吉田家の秘密を知る者が吉田家関係の若い者を
狙い撃ちにしたのではないか。
その背景を調べてほしいというものです。
母方の祖父の兄が吉田茂と親交がありましたので、
吉田茂に持ちかけて調べてもらったようです。
当時、吉田茂は政界の第一線を退いていたでしょうが、
調べるとすれば内閣調査室か退職者などの関係者を使ったでしょう。
だからその辺りに情報が残されている可能性があります。
ただし文書には残さず、話だけを伝えたのでしょうか。
この調査ではそれまで父が語った話の大体の確認までで、
それ以外の話は家族には伝えられなかったようです。
戦争当時、とくに敗戦間際には日本中に狂気じみた異常が
蔓延しており、十年以上も過ぎた過去のことは、
そっとしておく風潮があったのでしょうか。
調査の最終段階で父の職場にまで連絡があり、
家族には伝えないことにしたのでしょうか。
自衛隊の勧誘
戦後、父は自らの経験を話すことは全然ありませんでした。
話すことになるきっかけは外からありました。
私が小学三年生のころ、自衛隊から父に勧誘がありました。
父は、私に妹と共に押し入れに隠れるよう指示し、
自分は後ろ手に鉈を持って勧誘に対応したようです。
異常を察した(母方の)祖父がステッキを持ち戸の陰から
聞いていたそうです。
単に兵隊経験者に位を段々あげて少佐までいったが、断った。
どこまでエライのかと不審の念を持ったそうでした。
親戚の法事の際に、酔った父に話を向けて
初めて自分の経験を話したようです。
その後も、自分から話すことはなかったようです。
以上書いてきたことは、私が高校生になったころ、
祖父から聞いた話です。
ほとんどが父の一方的な話がもとです。
遠い過去のことで都合の悪いことは省かれていることでしょうし、
私の記憶違いも有るでしょうから、ここまでにしようと思います。
(2013年4月12日)
追加
以上書いてきて、父の経歴に少々不審な点が気になっていました。
•入隊後1〜2年で班長になれるでしょうか?
•初年兵の初上陸に先立ち注意事項の伝達が慣例化していたことを
知るには、 経験が短すぎる
最近、古いアルバムや写真を整理しました。
父が友人と共に四人で上京した時の写真がでてきましたが、
それには2596年と書き込まれていました。
ほかにも、その直後と思われる制服や軍服姿の写真が何枚もあります。
私が聞いていた「航空学校に入学のため」とは海軍の飛行学校
(予科練)に入学のためのものだったようです。
皇紀2596年とは西暦1936年に当たるようです。
すると終戦の西暦1945年までには十年ほどの軍歴が有るるようです。
病院から解放され家族の元に帰るためには、軍歴を隠すという
約束があったのでしょう。
(2013年8月10日)
マレーの留
予科練を卒業したか中退したかは判らないが、
そのご父は軍の主計(会計)の仕事をしていたようです。
しかも裏金作りをひそかに調査するのが任務だったようです。
裏金作りには着服が伴っていたでしょう。
半年から二、三年の間で部隊を転々としたようです。
不正が入る余地がないほど、帳簿がしっかりしている部隊はすぐ離れ、
怪しいが証拠をなかなか掴めない所には時間が掛かったようです。
テレビドラマの中村主水というよりは、税務調査官の窓辺太郎さん
のような仕事が、軍での中村主計の任務だったようです。
初期のころは父が調査し報告したことを疑い、
逆恨みされたこともあったそうです。
その後、父の後に確認調査をして、
時間をかけて父に恨みが向かわないようにしたそうです。
谷豊さんは谷千城(1837年〜1911年)のゆかりの人のようです。
父には誰かがかわりに犠牲になったと伝えられ、
負い目を感じていたようです。
谷豊さんの家族にはまた違った説明がされていたことでしょう。
谷千城は西南戦争のとき政府軍側で西郷軍の攻撃から
長官として熊本城を守った。
陸軍中将から、学習院院長や政治家に転身した。
また学士院会員だった。
昭和の軍部にも谷千城の心酔者がいたのでしょうか?
何かに利用されたのでしょうか?
ハリマオに関する本は
みな軍の特務機関が創作したお話が元になっています。
関係者なども特務が工作したものでしょう。
(2014年5月16日)
快傑ハリマオの歌
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
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