79. 母系社会 2014年7月03日 05:49:44
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>>忍穂耳の垢さん(その4)返答が遅れ、申し訳ありません。 >いわゆる古代中国文化の奥底には、東方の海上に浮かぶ神仙が住む島の伝承 >があるのをご存知だろうか。正しくは「親」というより「教師」であったと >言うべきだが、まさに太古に精神性を学ぶ広義の「親」であった時期がある。 >その片鱗は大陸から日本へと贈られた銅鏡の文様にかいま見ることができる。 >当時は、口承文化の時代であり、そうして学んだ精神性の多くが、後に大陸 >の漢字文化の中で文字化された。 ●なるほど、わかりました。 実は、古代史では古田武彦のファンで、彼の日本先行説を支持していました。 前にも書いたように、つい最近まで日本の土器が世界最古の土器だったから です。当時の土器は、今のパソコン以上に社会を劇的に変えたはずだからです。 古田説は、日本は火山国だったので、溶岩の周囲の土が固くなるという現象に 気が付き、土器が発明されたという説です。しかも、縄文時代の東日本は温暖 で、山あり、海あり、川ありで、当時は世界でもトップクラスの人口密度地帯 で、青森の三内丸山遺跡のように約5500年前〜4000年前の縄文都市と言っても 良い巨大な集落や、十三湊遺跡やその周辺には太古から存在した巨大な国際港 があった可能性もあります。 もしかしたら、これは秦の始皇帝に不老不死の霊薬を探すとして、子供 や職人を多数連れて日本に向かったという徐福の「東方の三神山」に関連した 話なのかもしれませんが。 >後に大陸文明の勢力が強大になり、その記された精神文化を誇るように >なると、かつて学んだという伝承さえも憚るようになっていった。 いろいろ考えたら、これはあり得ない話でもないですね。というのは、平均的 な日本人は、若干、南方系の血も混じっていますが、血の約2分の1が、今の アイヌや琉球民族の古モンゴロイド系で、残りは、中国系と朝鮮系の新モンゴ ロイドの血が4分の1づつの混血民族です。 この混血は、古モンゴロイドの縄文人が沖縄から、北海道まで先住していた 日本列島に、後から中国や朝鮮系の新モンゴロイド・弥生人が移住してきて 起きた混血ですから、移住してきた新モンゴロイドは、日本で古モンゴロイド の古い文化を学び、その情報が中国や朝鮮に逆流した可能性があるからです。 (九州の別府はアイヌ語ですから、九州にもアイヌの祖先がいたのは確実で、 富士山のフジも、アイヌ語で火の山という意味らしいので、全国にアイヌ人 の祖先が、先住民として住んでいた可能性が高いわけです。 大陸にも古モンゴロイドは先住していたが、新モンゴロイドにより駆逐され、 古モンゴロイドは山地のチベットと日本列島に逃げて残ったと思われます。 この時も、新モンゴロイドは古モンゴロイドと接触していますが、余りにも 遠い昔で、継承されなかったのかもしれませんね) これは、後に日本の倭寇が、頻繁に朝鮮や中国の海岸沿いの村落へ侵入して 略奪したように、中国→日本とか、朝鮮→日本とかの人の流れだけでなく、 日本→中国とか日本→朝鮮という逆の人の流れもあり得るわけで、日本の古い 文化情報が、中国や朝鮮に逆流した可能性はありますね。中国や朝鮮から移住 してきて人々は、故郷との間を往来して日本産品を交易していたのは確実です。 というのは、そもそも、数万年前の石器時代、隠岐の黒曜石はウラジオストク へ、北海道の黒曜石も大陸に運ばれていたわけですから、太古の昔から、大陸 との間で交易などで人の往来があったわけですね。また、日本列島内でも、 北海道と沖縄の間で、太古から昆布などを交易していたように、日本の海人族 は古代から、列島の内外で活発に活動し、海人族が侵入した長野の安曇野の ように、内陸でも海人族文化が栄えていました。 歴史家の網野善彦によると、日本を農業国と考えるのは誤りです。少なくとも、 東日本は農業よりも、海人・狩猟民族としての文化が濃厚で、年貢も、実際は 米ではない場合が多く、太古の昔から活躍していた海人族文化の要素も相当多い そうで、西日本と東日本とは別の民族と言っても良いほど文化が明確に異なる そうです。 どのような内容の文化が日本から大陸に伝わったのか、私にはわかりませんが、 大陸文明には、日本の勢力の精神文化も入り混じっているのは確実でしょう。 とにかく、ギリシャにせよ、中国、インドにせよ、文明=学問は、様々な宗教 が入り混じった地点で始まります。様々な宗教が併存することで、各宗教の 教義が相対化されるからでしょう。 >誇るようになると、かつて学んだという伝承さえも憚るようになって >いった。身びいきに走るのは歴史の必然だ。中国文明の全体からみたら、 >隣国から学んだ事績は(核心部にはあるけれど)一部である。 この「隣国から学んだ事績は(核心部にはあるけれど)一部である」が、具体的 に何であるか、わからないので何とも言えませんが、一般的に「隣国から学んだ 事績」については、その通りだと思います。 日本の場合も全く同じで、中国や朝鮮から学んだ文化を、日本人は軽視する 傾向がありますが、そのような人は視野が狭すぎますね。 文化は、相互に創り合って出来るものですから、中国や朝鮮から学んだ文化 の一部も、元は日本の文化かもしれませんね。 というか、元々、日本民族や漢民族や朝鮮民族なる民族、あるいは国家自体も、 その神髄においては「社会的実体」とでも言うべき存在で、半ば実在ですが、 半ば非実在の幻想=観念であり、実在物ではありません。 なぜ、戦前の日本が、あれほど天皇制イデオロギーの注入に力を入れたのか、 優れた真の右翼なら直感的に理解していますが、ネットウヨは、民族や国家を 実在物と誤解しているので、天皇制イデオロギー注入の重要性が理解できず、 話になりません。 国家は、マルクスが言ったように「幻想的共同体」です。現実の、様々な 人間同士や人間と自然の関係を基盤にしながらも、何らかの「物語」や「理念」 を共有することで、初めて民族や国家は成立しますから、民族や国家は、半ば 精神的存在です。 鎌倉時代は、東日本は鎌倉幕府、西日本は天皇が統治するという暗黙の掟の ようなものがあり、当初、西日本では天皇にも存在感がありましたが、元寇で、 鎌倉幕府が西日本の防衛も担わざるを得なくなると、徐々に、幕府が全国を統治 するようになり、天皇は一般の庶民からは忘れられていったようです。 知識階級でもある武士は、天皇がどのような存在であるか知っていましたが、 京都の一般の庶民でも、天皇を単なる大地主=大尽の一人程度の人だと思って いたらしく、天皇が武士に担がれて江戸に行くと知った時、京都の庶民は、 天皇は大出世したと思ったらしいです。 >そうした事績さえも抹消してしまうのは、今となっては愚かだと当の大陸の方 >さえ思うだろう。だが一旦、それを否定してしまうと、あとは全部を否定しな >ければ済まなくなる。これが精神的な意味の「教師:親」殺しである。 明治政府は、天照大神の神勅で初代の「神武天皇」が即位し、それ以来皇室が 日本を一貫して統治してきたというファンタジーで国民の意識を統一し、この 天皇制イデオロギーで団結して、欧米に対抗してゆこうとしました。 この天皇制イデオロギーは戦後、天皇の人間宣言で崩壊しましたが、依然として 国民の天皇に対する尊崇の念は強く、この阿修羅でも多数派です。しかし、天皇 が神と思っているわけではないし、「万世一系」論も詳しい内容は知らず、 単なる神話=ファンタジーと考えているはずです。 ですから、同様に中国の庶民も中国神話の詳しい内容までは知らないだろうし、 単なる神話と考えているはずだと思うのですね。 中国人が中国文化を誇るとすれば、高度な天文学や火薬、印刷技術、羅針盤など の科学的知識や、儒教とか道教、あるいは個々の英雄・偉人ではないかと思うの ですね。それで、神話レベルでの日本に対するコンプレックスは無いと思うの ですが、どうでしょうか・・・ >加えて、たまたま日本はその大陸との戦争で負け、さらに後世には、大陸の >覇者の精神性に影響を受けた武士の時代が、この日本で始まった。そのとき、 >相当数の日本淵源の精神文化が、大陸の漢字文化由来のものとして書き換えら >れただろう。 日本の武士道も、中国に伝わったということですか。この辺の詳しい交流史は 知らないので、何とも言えませんが、明治以降、西欧の知識の吸収は日本の方 が早かったので、様々な日本語の翻訳語が、日本から、そのまま中国に伝わり、 今でも、中国で使われているのは知っています。 >日本には、その伝統を象徴する天皇という家系が、奇しくも残存しているが、 >こうした「親」の家系は、かつての大陸にも存在していたはずだ。定かでは >ないが、歴史のどこかで、その聖なる家系は抹消されたのだろう。 古田武彦の古代史では、古代に対馬を拠点にして、日本の各地との海上交易で 富を成し、その後九州に上陸した勢力があり、その勢力が出雲王朝から西日本 の主導権を奪い、九州に王朝を開いたという九州王朝説で、卑弥呼〜磐井がこの 王朝の王です。(対馬には、最も古いアマテラス神を祭る神社があるそうです。 また、古田氏は証拠がないので言いませんが、対馬が本拠地ということは、 おそらく、天皇一族は朝鮮から、対馬に移住してきた勢力と考えられます) 天皇家はこの勢力の傍流(分家)で、瀬戸内海を東に移動して近畿に拠点を築い たという説。「白村江の戦い」で軍事力を失った九州王朝(本家)を、分家の 天皇勢力が襲ったのが「磐井の乱」で、実は「乱」を起したのは天皇側とします。 この勢力が日本に持ち込んだのは、水稲の宗教=太陽を神(アマテラス)とする 宗教=天津神=であり、縄文以来の古神道ではないと考えるのですが、それは ともかくとしても、確かに、後には天皇の勢力は、古神道的文化とも融合したで しょう。 しかし、この太陽を神とする農業の宗教には、民衆を脅す「地獄の思想」があり ますが、狩猟民の宗教である古神道には、この「地獄」という概念が無いと考え られますので質的に全く違う宗教であり、「地獄」という概念がある天皇教は、 基本的には、支配者の宗教だと思います。 >かの中国文化は、名実共に、そして幾重にも「親殺し」を、経験しているのだ。 >問題なのは、そうした大陸人の集合的無意識のトラウマ、仏教で云うなら「業」 >が、また新たな問題を引き起こすことだ。 私の考えは常識とは逆で、家族労働が可能な農業は個人主義を育て、チーム ワークが必要な狩猟は、集団主義的になると思います。日本は、先進国中では 農業の歴史が短いので集団主義的。それで特異な社会なのだと思います。 ですから、農業の歴史が長い中国は、元々個人主義が強い社会だったと思います。 その上、超近代思想であるロシア製社会主義を70年余り注入されたので、相当、 中国はドライな近代思想=個人主義に染まってしまったのだと思います。 この中国人の個人主義は、日本人より中国人の方が商業が得意というような点に 現れていると思います。ついでに言うと、店で値切ることをしない東日本人は、 商品の価格というものを理解できていないので、実は、未だに資本主義以前の心性 のままではないかと思います。 中国で、最初に文革を始めた精華大学付属高校の紅衛兵組織のメンバーの一人で、 「紅衛兵」というの名の名づけ親だった張承志という人によると、中国の宗教は、 文革で相当な被害を受けたわけですが、実は、張承志という人自身が回族出身で ありながら、文革の時は反宗教というか、非宗教であったわけで、各地の宗教 施設を破壊した「紅衛兵」は皆、親の世代は信心深くとも、その子の張承志らの 世代は、皆、早くも近代人になっていたわけです。 文革後、中国政府は破壊された各地の宗教施設のほとんどを再建したのですが、 それでも、中国の宗教は元には戻らず、衰退し続けているそうで、宗教衰退の 原因は、日本と同じように、中国も社会の近代化なのだそうです。 ですから、神話の核となる自然への畏敬の念とかは、形を変えて残存・継承される と思いますが、「親殺し」というような複雑な部分まで残存・継承されるかどうか は、何とも言えません。 >だが、冗長になるのでここでは記さないが、かの親殺しと漢字文化の開花・発展 >とは無関係ではない。中華思想とは、彼らの言語そのものに組み込まれたマインド >セットのように見える。そこで殺された「親」とは、否定された旧い口承文化で >あり、その復活を許さない仕掛けは既に設置済みだろう。 やはり、日本から中国に渡った核となる文化・思想が何であるかわからないと・ ・・ >象形文字を基盤とする漢字文化では、口承文化では存在した民族間の言葉の壁 >をいとも簡単にすり抜ける。その抽象性と論理性機能が物質文明を実現する力 >は特筆すべきものがある。それが燎原の火の如く中華思想が広まった背景。 >だがそれと同時に、中華思想は、実の「親」に根ざさない(それに代る)抽象 >的な覇権を常に求める。中国の版図が膨張して止まらない、原因をここに見る。 >中国の方々が、この「業」を修正し、その論理性・抽象性の罠を自覚できた >とき、はじめて「大国」と呼ぶに相応しい国となるだろう。なぜなら、 >他の国も、やはりそれと同質な愚かさに苦しんでいるのだから。 ●中国だけでなく、基本的に、国家というものは、拡大しようとする志向性が あると思います。やはり、他国の軍は脅威だからですが、また、特に近代国家 は、何らかの政治的理念を掲げることで自己を正当化する存在であり、一種の 政治団体的な側面があるからだと思います。 ●それと、中華思想を考える場合は、皇帝国家という面、王ではなく、皇帝 という立場の特異性に注目すべきでしょう。これは、日本の天皇にも言える 可能性があると思います。 それは天皇の「大御心」です。つまり、天皇は人類の王と考えていた可能性です。 天皇は、自分を人類の王と考えていたと仮定すると、天皇は中国人の王でもある わけで、中国の民衆も天皇の臣民になります。 これは、天皇としては、中国とやむを得ず戦争をしているが、中国の民衆も天皇 の臣民となります。それで、日本軍が中国の民衆を手荒に扱うのは、天皇として は不本意となり、日本軍には、中国の民衆も日本の民衆と同じように扱って 欲しいと考えていた可能性があるわけです。 なぜかというと、天皇の弟の三笠宮崇仁氏は戦争中、中国に派遣された全日本軍 を指揮する上海の支那総軍司令部に、若杉と言う変名の参謀として勤務していた のですが、ある時、この支那総軍司令部の将校全員に対し、「支那事変が今に 至るも解決せざる根本原因について思うところを述べよ」という命令を下し、 回答を回収してから、総司令官以下参謀長、将官、佐官も含めて、総司令部の 全将校を講堂に集めて、講評したそうです。 この時、三笠宮氏は、一人しか期待した回答はなかったと酷評し、それは沢井 という中尉の「支那事変未解決の根本原因は、日本人が真の日本人に徹せざる にあり」という答案で、三笠宮氏は語気鋭く・・・ 「その通り。事変未解決の根本原因は日本人が真の日本としての行動をして いないからだ。略奪暴行を行いながら何の皇軍か。現地の一般民衆を苦しめ ながら聖戦とは何事か。大陸における日本軍官民のこのような在り方で、 いったい陛下の大御心にそっているとでも思っているのか」、「わが日本軍に 最も必要なことは、武器でもない、弾薬でもない。訓練でもない。これだ」 と言って、黒板に”反省、自粛”と大書し、「自らをかえりみ、自らをつつしみ、 自らの一挙一動、果たして大御心にもとることなきかを自らに問うことである」 と大激怒したそうです。 これは、小川哲雄氏という方の「日中戦争秘話」に書かれていた証言ですが、 その時の様子を小川氏は・・・ <言々火のごとき若杉参謀の一語一語であった。軍の驕慢、居留民の堕落を 衝いて余すところなく、今、この時、真の日本人、全き皇軍に立ちかえることが 出来ねば支那事変は永久に解決しないであろう、と斬ぜられた。>、<私は参謀 の御言葉の中に日中事変そのものの不道義性へのお怒りを感じた>と述べている そうです。 総司令官以下、この訓示には声がなく、若杉参謀が退席した後、総軍高級副官が 「只今のお言葉は、何ともその、恐れ多い次第であるが、その何というか、 あまり、いやまあ、なるべくだな、外部には、口外せんようにな」と、しどろ もどろに訓示したというのです。三笠宮崇仁氏が居なくなったら、最高幹部でさえ、 直ぐにこの有様で、この講評は無かったことにしようとしているのです。 この三笠宮崇仁氏が言った天皇の<大御心>とは、<中国の民衆も天皇の臣民> という思想の延長線上のものとも考えられます。少なくとも、三笠宮氏は、天皇 の<大御心>を、そのように解釈していたということでしょう。 ●また、中国の清の時代、チベットから清の皇帝に救援要請が届き、清が軍を 派遣して、ネパール軍の侵攻を撃退したことがあるのですが、その時、派遣 された将軍が、国境のすぐ側に金鉱山があるから、ついでに占領してはどうかと 上申したら、皇帝は止めろと返答したというのです。 これは、皇帝は<「小邦」と利など争わぬ「天朝の主」>であり、金鉱山如きに 欲を出せば、皇帝の名に傷がつくという考え方をしていたからでしょう。 また、中国・明は、14世紀から15世紀にかけて、海外に威信を広げるべく、 鄭 和を7回、大部隊と共に航海させて、多数の国々に明との朝貢関係を結ばせ ました。 ご存じのように、この朝貢関係とは名分だけの関係であり、朝貢国には数倍から、 数十倍のお土産を送るので、日本などは、1年に14,5回も朝貢させて大儲け をしていた時もあります。 この時、鄭和の遠征部隊は、アフリカやメッカにまで達しましたが、どこにも 植民地を造らなかった。こうしたことは西欧の王朝では考えられません。 と言っても、中国の皇帝が善人だったというような意味ではなく皇帝の自己意識 、その思想性、世界観の違いを考えてみる必要があるという意味です。 西欧には、キリスト教を広めるという大義名分があったわけで、この宗教的な 大義名分や、海賊(実は先住民の抵抗)退治を隠れ蓑にして植民地を獲得して、 自国の領土を広げることが可能でした。 しかし、中国の皇帝には、そのような宗教的な大義名分はありませんでした。 また、中国は、高句麗に三度も遠征軍を送ったために、逆に、遠征軍を送った隋 が疲弊して滅亡した経験などから、周囲の異民族の直接統治の難しさを経験的に 知っていて、異民族支配を必要最小限にしていたのかもしれません。 とにかく欧米のように無暗に植民地をつくるのではなく、朝貢関係=冊封体制 という緩やかな国際関係を建設しました。それで、琉球のような小国も、実質的 な独立状態を維持できました。 こうしたことには、中国の皇帝が人類の王という自己認知をしていたからかも しれません。 長くなるので、とりあえず、ここまでにします。 日本人の著作に見る「南京事件」 http://www.geocities.jp/yu77799/nihonjin.html
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