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(回答先: 小沢一郎代表 自由党は国民民主党と合流することになりました。必要なことは、全野党の「結集」。そのための第一歩です。 投稿者 赤かぶ 日時 2019 年 4 月 26 日 22:03:48)
<安倍と小沢の一騎打ちなら、小沢が勝つ!>小沢首相、天木外相の誕生で日本は世界を正しく主導できる 天木直人
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小沢首相、天木外相の誕生で日本は世界を正しく主導できる http://kenpo9.com/archives/5926 2019-05-07 天木直人のブログ 週刊ポストが「小沢一郎 わが平成政界秘録」というスクープ証言インタビュー記事を二回に分けて連載している。 これは国民必読のインタビュー記事だ。 特に今日発売の週刊ポスト(5月17日・24日薫風合併特大号)の記事は必読だ。 平成の政争を生き抜いてきた今の政治家たちは、おそらくこのインタビュー記事を、目を皿にして読んでいるに違いない。 それを承知で語っているに違いない小沢の言葉には、嘘はないだろう。 この言葉の中に、いまの政治が、ここまでどうしようもない安倍一強政治になり果てたのか、その行き詰まりのすべてがある。 今や、「ポスト安倍は安倍だ」と言われるほど、日本の政治は人材不足になった。 ならば、いまこそ小沢を一度首相にさせてみたい。 この小沢一郎のインタビュー記事を読めば、小沢が好きな者はもとより、嫌いな者も、そう思うだろう。 残念ながら、現実はその可能性は限りなく小さくなりつつある。 しかし可能性がまったくないことはない。 どうしたらそれが可能か。 それは、小沢一郎を知らない今の野党の若い政治家たちが、小沢と共に民主党政権を経験した政治家たちすべてに引退を迫り、彼らだけで、派閥やしがらみを超えて、小沢一郎の下で一致団結することだ。 その時こそ、本物の野党共闘ができる。 安倍政権と反安倍政権の一騎打ちが出来る。 そして安倍と小沢の一騎打ちなら小沢が勝つ。 そして私が小沢なら、天木に外交を任せるだろう。 小沢総理、天木外相の誕生で日本は世界を正しく主導できる。 安倍総理、谷内正太郎・国家安全保障局長コンビの負の外交遺産を葬り去ることができる(了) 小沢一郎氏「平成の元号案は竹下さん小渕さんと僕で決めた」 https://www.news-postseven.com/archives/20190422_1357242.html 2019.04.22 07:00 週刊ポスト NEWSポストセブン 政界のキーマンが「平成」について語る 小沢一郎。47歳で自民党幹事長に就任、政治改革を掲げて党を飛び出すと、自民党と対決して細川連立政権、民主党政権と2回の政権交代の立役者となった。これまで決して政治史の舞台裏を語ることがなかった小沢が、平成日本を変えた数々の場面で何が行なわれ、どんな葛藤があったのかを「歴史の証言者」として初めて明らかにした。(文中一部敬称略) ◆「平成」誕生の真実(1989年1月) 〈新元号「令和」の発表と前後して、30年前の「平成」元号決定の過程が明らかにされてきたが、触れられていない秘話がある。有識者会議で3案の中から「平成」が選ばれた──とされるが、実はその前に「結論」は出ていたという。昭和天皇が崩御した1989年1月7日、首相・竹下登、官房長官・小渕恵三とともに官邸に詰めていた官房副長官・小沢一郎は、その経緯を知る唯一の生き証人だ。〉 小沢:僕自身は元号に関心がさほどなかったけれど、(官僚を通じて)最終的に総理のところに上がってきたのは2案でした。「どっちにしましょうか」と。それで、竹下さんと小渕さんと僕の3人で「どうする?」となった。 ──3人だけで? 小沢:その段階ではもう役人を入れる必要がなかった。学者の先生が選んで、2案まで絞り込まれていたからね。上がってきた2案は、「平成」と「化成」でした。 ──1字目が「平」か、それとも「化」か。 小沢:文化という言葉もあるし、(日本で最初の)大化という元号にも使われているんだから、化という字が悪いわけじゃない。けれども、3人とも「化けるより、平らかになるほうがよかろう」という単純な判断で平成を選びました。 「平成おじさん」と呼ばれた小渕氏(時事通信フォト) ──当時の有識者懇談会には「平成」の他に「修文」と「正化」の3案が示され、平成に決まったと伝えられている。 小沢:あの時もそんな会議をやったのかな……それくらい僕は(元号選びに)関心がなかったんだな(笑い)。でも、僕は「化成」っていう案は覚えています。「修文」とかは全く知らない。 〈平成の元号は、昭和天皇崩御の慌ただしい中で選考が行なわれた。元号選定に関わった的場順三・元内閣内政審議室長も「急いで決める必要があったから、本命の平成に誘導した」と当時を回想している。 有識者会議前に竹下、小渕、小沢の政権中枢の3人で「平成」と「化成」という候補から平成が決まり、有識者会議では「平成」に誘導するために、頭文字が昭和のSと重なる“当て馬”の2案を追加して提出された―─小沢と的場の証言を重ね合わせると、そうした経緯が浮かび上がってくる。〉 ●聞き手・レポート/武冨薫(ジャーナリスト) ※週刊ポスト2019年5月3・10日号 小沢一郎氏「海部政権は本当の『消去法』で発足した」 https://www.news-postseven.com/archives/20190425_1357632.html 2019.04.25 07:00 週刊ポスト NEWSポストセブン 海部政権誕生の秘話を語る 自由党の代表・小沢一郎氏。47歳で自民党幹事長に就任、政治改革を掲げて党を飛び出すと、自民党と対決して細川連立政権、民主党政権と2回の政権交代の立役者となった。これまで決して政治史の舞台裏を語ることがなかった小沢が、平成日本を変えた数々の場面で何が行なわれ、どんな葛藤があったのかを「歴史の証言者」として初めて明らかにした。(文中一部敬称略) ◆前代未聞の総理選び(1989年8月) 〈平成元年(1989年)の政界は激動で始まった。6月にリクルート疑獄で竹下内閣が総辞職。急遽後継総理となった宇野宗佑も女性問題と参院選大敗で、わずか2か月にして退陣した。危機的状況に陥る中、誰もがノーマークだった海部俊樹に白羽の矢が立った。〉 小沢:安倍(晋太郎)さん、宮沢(喜一)さん、渡辺みっちゃん(美智雄)、みんなリクルートで総裁になれない。だから、各派閥の事務総長クラスで相談することになった。僕は事務総長ではなかったけれど、梶さん(梶山静六)に『お前も来い』と呼ばれて会議に加わった。 でも、誰が考えても適当な総裁候補がいない。仕方ないから、当選年次の古い人から順番に名前を挙げていきました。最初は海部さんなんて誰も考えていなかったけれど、年次をみるとぴょこっと出ている(当時10回生)。河本派という弱小派閥で、人柄がいいから敵もいない。“よし、これでいこう”となったんです。 ──消去法で決まった。 小沢:今考えれば、面白いというか、あり得ない選び方でしたね。もちろん竹下さんや金丸さんに相談したとは思うけど、その会議で事実上決まった。海部さんにしてみれば棚ぼたというか、青天の霹靂というか、ね。 〈「海部総裁」が決まると、最大派閥の竹下派から“お目付役”“影の総理”として幹事長を出すことになった。宇野内閣では、竹下派七奉行(小渕恵三、梶山静六、橋本龍太郎、羽田孜、渡部恒三、奥田敬和、小沢一郎)で長男格の橋本龍太郎が幹事長を務めていたが、参院選大敗で引責辞任したばかりだった。〉 小沢:突然、金丸さんに呼ばれて『お前がやれ』って言われました。でも、僕は(七奉行では)一番若かったから、「梶さんを先にやらせてくれ」と推した。梶さんもその気でいて、「俺が幹事長で、お前(小沢)を育てる」みたいな感じだったから。でも、「駄目だ」って言われたんです。 ──金丸から? 小沢:うん。「お前だ」って。それでどうしようもなくて、党本部へ龍ちゃんを訪ねていって、「実は(金丸)会長から、やれって言われたんだけれど……」って相談したら、「まぁ、やるならやれよ」って。龍ちゃんもそう言わざるを得ないけれど、難しい顔をしてたなぁ。 僕は梶さんとは同期当選だから、それまで一心同体でやってきたんだけど、それで(幹事長になれなくて)梶さんは心が弱っちゃった。僕も困ったけどしょうがないと割り切るしかなかった。 ●聞き手・レポート/武冨薫(ジャーナリスト) ※週刊ポスト2019年5月3・10日号 小沢一郎氏と政治改革「海部氏が金丸氏にビビらなければ…」 https://www.news-postseven.com/archives/20190428_1358928.html 2019.04.28 07:00 週刊ポスト NEWSポストセブン 金丸氏は「政治とカネ」で失脚(時事通信フォト) 自由党の代表・小沢一郎氏。47歳で自民党幹事長に就任、政治改革を掲げて党を飛び出すと、自民党と対決して細川連立政権、民主党政権と2回の政権交代の立役者となった。これまで決して政治史の舞台裏を語ることがなかった小沢が、平成日本を変えた数々の場面で何が行なわれ、どんな葛藤があったのかを「歴史の証言者」として初めて明らかにした。(文中一部敬称略) ◆萎んだ海部首相の「重大な決意」(1991年9月) 〈政権発足から約2年、倒閣運動に追い詰められた海部俊樹首相は、「重大な決意」と口にする。解散・総選挙を打つという意味だ。ところが閣議を招集しようとした直後に、突然断念し、総辞職の道を選ぶ。この翻意については、これまで「金丸、竹下、小沢が話し合い、土壇場で解散を諦めさせた」といわれてきた。が、小沢は「それは違う」と明かす。〉 小沢:その件で3人で集まったことはない。そもそも僕は政治改革を進めたかったから、むしろ「解散すればいい」と思っていました。だが、あの時に北海道かどっかにいた金丸さんが電話で「冗談を言うな」というようなことを言ってきて、海部さんがびびった。 ──総理が決断していたら、尊重するつもりだったのか。 小沢:綸言(りんげん)汗のごとし。あそこまで喋った以上は突っ走るべきでした。総理が決断したら、もう誰が何を言おうが止められない。ところが、海部さんがびびっちゃって、それで辞めちゃったんでしょう。 ──金丸は「やりたいなら、やればいいじゃないか」と語ったとされる。 小沢:僕が第一報を聞いた時は、“そんなふうに金丸さんが話すだろうか”と疑問に思ったんだけれどもね。でも、海部さんは“非常に怒っている”という意味にとらえたんでしょう。 自分を総理にしてくれた御大が怒っている。これはもう(総理であることを)否定された──みたいに受け止めたんじゃないかな。でも、海部さんが強く出ていたら、金丸さんも言葉通り、「どうしてもやりたいなら、やれ」ってなっていたかもしれない。 ●聞き手・レポート/武冨薫(ジャーナリスト) ※週刊ポスト2019年5月3・10日号 小沢一郎氏が今こそ明かす宮沢内閣誕生前の「小沢面接」真相 https://www.news-postseven.com/archives/20190430_1358949.html 2019.04.30 07:00 週刊ポスト NEWSポストセブン 海部政権から宮沢政権への交代劇(時事通信フォト) 小沢一郎氏は、47歳で自民党幹事長に就任、政治改革を掲げて党を飛び出すと、自民党と対決して細川連立政権、民主党政権と2回の政権交代の立役者となった。これまで決して政治史の舞台裏を語ることがなかった小沢が、平成日本を変えた数々の場面で何が行なわれ、どんな葛藤があったのかを「歴史の証言者」として初めて明らかにした。(文中一部敬称略) ◆「小沢面接」の真相(1991年10月) 〈海部(俊樹)内閣は総辞職し、自民党はまたも後継首相選びに入る。リクルート事件の“禊”が済んだということで、総裁選には宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博の3派閥領袖が名乗りをあげた。 一方、小沢は幹事長辞任後に経世会の会長代行に就任し、金丸―竹下―小沢のトロイカが政治を牛耳る「金竹小」時代が始まっていた。そこで起きたのが「小沢面接」である。年長の3人を呼びつけて総裁の資質を問い質すという構図は、「傲岸不遜な小沢」のイメージを世間に印象づけた。〉 小沢:あれはもともと、一対一(での面談)のつもりで、「私から話を伺いに行きます」と言った。そうしたら「私たちは候補者だから、有権者に挨拶に行くのは当たり前です」と言うから、「それでは(私の事務所で)お待ちします」となった。それがマスコミでは「小沢面接」ってなってしまったんです。「自分(小沢)から行くと言っていた」と世間に説明してくれたのは渡辺みっちゃんだけ。宮沢さんは何も言わなかった。 ──ともあれ、その面談で後継総理が決まった。 小沢:それが違うんです。3人に話を聞いた後、金丸さんから「竹下、小沢、来い」って呼ばれてね。 今だから言うけれど、僕は「面白いから、渡辺みっちゃんにしましょう」と言ったはずです。すると金丸さんも「いいな、いいな」って言い出して、いったんは3人でみっちゃんを翌日の派閥総会で推薦しようと決めた。それで「渡辺総理」は決まりのはず。 ところがそれなのに、翌日の朝、金丸さんから「ちょっと2人来い」となった。すると行った途端に、「すまん」って謝るんです。金丸さんが、竹下さんと僕に握手して「すまんけど、宮沢にしてくれ」となった。 ──何があったのか。 小沢:わかりません。 ──理由は説明されたのか。 小沢:説明なんかしないよ、あの人は。“(宮沢を)応援してやってくれ”って頼むだけ。竹下さんと僕は顔を見合わせるしかありませんでした(苦笑)。 ●聞き手・レポート/武冨薫(ジャーナリスト) ※週刊ポスト2019年5月3・10日号 小沢一郎氏「宮沢喜一さんなんか選ぶんじゃなかった」の真意 https://www.news-postseven.com/archives/20190430_1358964.html 2019.04.30 07:00 週刊ポスト NEWSポストセブン 権力闘争の舞台裏を明かした 小沢一郎氏は47歳で自民党幹事長に就任、政治改革を掲げて党を飛び出すと、自民党と対決して細川連立政権、民主党政権と2回の政権交代の立役者となった。これまで決して政治史の舞台裏を語ることがなかった小沢氏が、平成日本を変えた数々の場面で何が行なわれ、どんな葛藤があったのかを「歴史の証言者」として初めて明らかにした。(文中一部敬称略) ◆金丸逮捕と経世会支配の崩壊(1992年8月) 〈宮沢(喜一)内閣が発足してから10か月、政界に激震が走る。東京地検特捜部が政治資金規正法違反で金丸信に対する強制捜査に乗り出したのだ。最大派閥・経世会は一気に分裂に向かって走り出した。〉 小沢:その時になって“だから宮沢さんなんか選ぶんじゃなかった”って僕は言ったんです。当時の政治資金規正法では、政治団体の代表者は政治家本人ではなくて、ほぼ秘書がやっていた。だから絶対に政治家が捜査対象にならないようになっていた。 ところが金丸さん本人に捜査が伸びるというので、僕は官邸に電話して「おかしいじゃないか! なんで金丸さんだけが対象になるのか」って。でも、宮沢さんが電話に出なかったから、官房長官だった加藤紘一に猛抗議した。宮沢さんは見て見ぬ振りをしたんです。 ──宮沢政権が捜査を黙認した。 小沢:経世会がまとまってノーといえば、そうはならなかったと思います。宮沢さんも言うことを聞くしかない。だけど宮沢さんは、竹下さんや梶さん(梶山静六)たちが捜査を止める気はないようだと察知していたから、僕が抗議しても聞かなかった。 ──その頃の金丸―竹下の関係は微妙だったのか。 小沢:最初は僕も全然わからなかったけど、竹下さんは金丸さんが面白くなかったんです。金丸さんが一番上と思われていたけれど、“俺だ”っていう思いがあったんじゃないかな。だけど、竹下さんは金丸さんをある意味利用して総理になった経緯があるから、表立っては言えない。金丸さんに忸怩たる思いを感じていたんでしょう。そして金丸さんに目をかけられていた僕に対しても。 ──竹下は金丸事件を利用したのか。 小沢:そこまでは思わないけれど、まぁ静観したということ。僕は、「これはおかしい」って(竹下にも)連絡したけれど、梨の礫だった。官邸、検察、そして竹下、梶山と、何らかの連携があったんでしょう。 ●聞き手・レポート/武冨薫(ジャーナリスト) ※週刊ポスト2019年5月3・10日号 「僕は安倍晋三君が憎らしいわけじゃない」と小沢一郎氏 https://www.news-postseven.com/archives/20190502_1358976.html 2019.05.02 07:00 週刊ポスト NEWSポストセブン 小沢一郎氏は「剛腕」とも呼ばれた政治家だ。そんな彼が、平成日本を変えた数々の場面で何が行なわれ、どんな葛藤があったのかを「歴史の証言者」として初めて明らかにした。ここでは、金丸信氏が政治資金規正法違反で政治の世界から失脚した後の話だ。(文中一部敬称略) ◆「安倍晋三首相を見ると親父のことを思い出す」(1992年8月) 〈金丸信失脚後、経世会は派閥の主導権をめぐって竹下登と小沢が対立。竹下・梶山静六らは新会長に小渕を推し、小沢は羽田孜を擁立して激しい多数派工作を展開する。〉 小沢:双方が拮抗していたから、このままだと派閥が分裂してしまう。それで僕は竹下さんに、「それじゃ俺は羽田を取り下げるから、あなたも小渕を一旦降ろしてくれ。白紙に戻したうえで、最終的に話し合いで小渕にすればいい」と持ちかけました。そしたら竹下さんの答えは「ノー」だった。 ──どういう理由で? 小沢:面白くなかったんだろうね、僕が幹事長になった時点から。会長人事はもともと俺が決めることであって、お前(小沢)が口を挟む筋合いではないという気持ちだったのかもしれない。 〈両勢力の折り合いは付かず、反竹下勢力は派閥を割って小沢―羽田グループ(改革フォーラム21)を結成する。〉 小沢:竹下さんも梶山さんも、僕のほうについてくるのは5、6人だろうと軽く見ていたから強気だったんじゃないかな。ところが、大勢になっちゃったからたまげたんでしょう。竹下さんが派閥議員に直接、「小沢に付いていくな」と説得していたほど。それでも44人が僕らについてきました。 小沢一郎氏の評価は(時事通信フォト) ──派閥を割ったときの気持ちは。 小沢 事ここに至ればもうしょうがない。そう割り切るしかありません。竹下さんが表に出てきちゃったのは、金丸さんが引退してから。金丸さんがいたら、ああはならなかった。あとは、安倍晋太郎さんが生きていれば話は違ったかもしれない。 ──安倍晋太郎は別派閥(清和会)だが? 小沢:金丸さんが僕を幹事長にした時、党内で最初に賛成してくれたのは晋太郎さんでした。僕をかわいがってくれたという意味では、竹下さん以上かもしれません。僕が官房副長官の時、幹事長だった晋太郎さんには、何かあるとすぐ「小沢、来い」と幹事長室に呼ばれ、面倒を見てもらいました。だから、僕は(晋太郎の息子の)晋三君が憎らしいわけじゃない。総理としてどうしようもないから、いろいろ言うんだけど、今も晋三君の顔を見ると、親父さんを思い出して不思議な気分になるんだよね(笑い)。 ──小沢グループが離党しなければ、自民党政権は続いていたと思うか。 小沢:今も続いてますよ。僕だって、本当に自分のことだけ考えるなら、ずっと自民党にいればこんな楽なことはなかった。だって事実上、経世会はみんな僕についてきてくれたから。 ●聞手・レポート/武冨薫(ジャーナリスト) ※週刊ポスト2019年5月3・10日号 小沢一郎氏が振り返る「宮沢倒閣」から細川護熙政権まで https://www.news-postseven.com/archives/20190504_1358985.html 2019.05.04 07:00 週刊ポスト NEWSポストセブン 総選挙で新生党が大躍進(時事通信フォト) 小沢一郎氏は「剛腕」として知られる。様々な平成政治でその剛腕をふるった小沢氏は、宮沢喜一内閣誕生や細川護熙内閣誕生にも影響を与えた。これまで決して政治史の舞台裏を語ることがなかった小沢が、平成日本を変えた数々の場面で何が行なわれ、どんな葛藤があったのかを「歴史の証言者」として初めて明らかにした。(文中一部敬称略) ◆宮沢倒閣と8会派連立工作(1993年6月) 〈宮沢喜一首相はテレビ番組で「政治改革を実現する」「この国会でやる」と口にしたものの、与党の反対の中で断念する。小沢―羽田グループは自民党を離党して新生党を立ちあげ、宮沢内閣不信任案に賛成。「小沢の乱」は成り、不信任された宮沢首相は解散に踏み切る。 総選挙で自民党は過半数を割り、非自民政党による連立工作が始まる。一方、自民党でも野党転落を防ぐべく、YKK(山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎)が中心となって日本新党の細川護煕代表を首相に担ぐ構想を練っていたが、先手を取ったのは小沢だった。〉 小沢:(細川の)担ぎ合いなんか全然ありません。僕は、選挙が終わってすぐぐらいに、もう細川さんの了解を取っていたから。 最近、山崎拓さんとしばらくぶりで飲んだんだけど、彼らも細川さんを説得しようと考えたが、すでに時遅しだったと言ってました。 ──細川をどう口説いた? 小沢:何ていうことはない。「あなたは、総理だ」と。「あなたが総理になって、自民党政権を変えなくてはいけない」と。新党さきがけ代表の武村正義は自民党との連立志向だったから、ものすごく抵抗しましたが、「自民党と連立したら政治改革なんてできなくなる」と言いました。細川さんは「一晩、考えさせてくれ」と。翌日かな、「武村とも話して、わかりました」となった。 〈総選挙から22日後、非自民・非共産の8会派による細川政権が発足。55年体制が崩壊し、自民党が結党以来初めて下野した瞬間だった。〉 ◆短命に終わった細川政権(1994年4月) 〈細川内閣は翌年の通常国会で政治改革法案を成立させ、小選挙区制導入が決まった。しかし、政治改革を旗印に集った8会派は、同法案成立の目処が立つと、急速に結束が乱れていく。1994年2月に細川護煕首相は税率7%の「国民福祉税」を突然に発表するが、与党内からの猛反発を招き、今度は突然撤回する。国民福祉税の発表は、「小沢と斎藤次郎・大蔵事務次官が筋書きを書いた」と批判された。〉 小沢:(筋書きを書いたのは)その通りですよ。やらなきゃいけないと。ところが細川さんは会見で税率7%の根拠を質問されると「腰だめの数字です」って、そういう言い方をした。政策というのは、「こうした根拠があって、この数字です」と説明して、了解を求めなきゃいけません。それなのに「腰だめ」なんて言っちゃったもんだから……。 ──その後、自民党から佐川急便事件(1992年に発覚した東京佐川急便の前社長らの特別背任事件に絡み、細川が1982年に東京佐川急便から1億円を借り入れていたことが判明)を厳しく追及される中、細川は4月に突然辞める。あなたは辞意を聞いていたのか。 小沢:知りませんでした。“(細川は)何をしでかしたんだ?”と思ったくらいだから。佐川からカネを借りていたとかいう噂話は耳にしていたけれど、そんな深刻な話ではないように認識していたから、パッパと辞めてしまって……。細川さんはかっこよく辞めようとしたんでしょう。潔く辞めれば、また人気が出ると思ったんじゃないかな、想像するに。 ──再登板を考えていた。 小沢:そう思う。でも、権力闘争というのはそんな甘いもんじゃありません。 ──“産みの親”として、細川政権が戦後政治で果たした役割をどう評価するか。 小沢:それは大きいと思います。絶対に崩れないと思っていた自民党政権が倒れたんだから。15代も続いた徳川幕府が戊辰戦争で敗れた(のと同じ)。しかしまぁ、細川政権は鳥羽伏見で勝ったのに、すぐ盛り返されてしまった(笑い)。 ●聞き手・レポート/武冨薫(ジャーナリスト) ※週刊ポスト2019年5月3・10日号 小沢一郎氏が明かす「禁断の自社連立」「村山内閣」舞台裏 https://www.news-postseven.com/archives/20190506_1358994.html 2019.05.06 07:00 週刊ポスト NEWSポストセブン 自社さ連立で村山政権誕生(時事通信フォト) 小沢一郎。47歳で自民党幹事長に就任、政治改革を掲げて党を飛び出すと、自民党と対決して細川連立政権、民主党政権と2回の政権交代の立役者となった。これまで決して政治史の舞台裏を語ることがなかった小沢が、平成日本を変えた数々の場面で何が行なわれ、どんな葛藤があったのかを「歴史の証言者」として初めて明らかにした。(文中一部敬称略) ◆禁断の自社連立(1994年6月) 〈細川護熙首相退陣後に羽田孜内閣が誕生するが、社会党や新党さきがけは連立を離脱し、自民党が提出した内閣不信任案の賛成に回る。羽田は解散を決意したが、小沢は「解散したら小選挙区制が白紙に戻る」と止めた──というのが定説とされる。〉 小沢:羽田さんは確かに「解散する」と言ってました。不信任案可決のすぐ後に俺は官邸に行って、「どうするんだ?」って言ったら、「解散するしかない」と。僕は(新生党の)党本部に電話を入れた。「解散だ。準備しろ」って。 ──あなたが解散にストップをかけたのでは? 小沢:止めてません。逆に「選挙の準備をしろ」と指示したんだから。ところが翌日の明け方になるにつれて、羽田さんの様子がおかしくなっていった。選挙になれば惨敗すると分かっていた野党の社会党が“いったん総辞職してくれれば、次の首班指名ではみんなで羽田に入れる”と持ちかけてきたわけです。 ──羽田は、それを鵜呑みにして総辞職したのか。 小沢:不信任しておきながら、次は入れるなんて、嘘に決まっています。僕は羽田さんに「そんなことあり得ない、馬鹿じゃないか」って言ったんだけど……。 〈羽田内閣の退陣後、自民党は社会党党首の村山富市を首班に担ぐ。小沢ら非自民勢力は、自社連立に反対して自民党を離党した海部俊樹を擁立し、首班指名選挙にもつれ込んだ。2年前の与野党が入り乱れて手を結ぶ、異例の構図だ。小沢は自民党と社会党が組むことを想定していたのか。〉 小沢:話は聞いていましたが、あり得ないと思っていました。驚くべきことです。まぁ、昔から裏(国会対策)では「なあなあ」でやってきた関係だったんだけれども、表向きは対立をしてきた。だから、いくら何でも表で組むとは思ってもいませんでした。 ── 一方、あなたは海部を立てた。 小沢:羽田さんをもう一度担ぐ道は総辞職の時点で消えていました。社会党が自民党に取り込まれた以上、自民党を割る以外に政権を取る手段はない。すると、西岡武夫さんが「海部さんはどうだ」と。海部さんは「政治改革しようとしたが実現できずに辞任した」という立場だから、「本人が承知してくれるならよかろう」となった。 ところが、なかなか返事がない。国会会期の終わり間際になってようやく、海部さんから「受ける」という返事が来た。自民党では中曽根康弘さんはじめ「社会党の総理なんてとんでもない」という意見が多かったから、切り崩しの時間がもう少しあれば勝てた。早く海部さんが(離党の)腹を決めてくれてたら……ね。 ──「自民か、非自民か」が明確だった細川政権誕生と違い、この時の「村山vs海部」の首班指名選挙は、従来の政党の組み合わせが入り乱れる複雑な権力闘争に映った。本質は何と何が戦っていたのか。 小沢:政界の改革派と守旧派。新体制を志向する我々と、旧体制を維持しようとする自社さ。アンシャン・レジーム(旧体制)の中に成り立っていた自民党と社会党が「このままでは自分たちが危ない」となって、表立って手を結んだ。しかし村山内閣の後、すぐに社会党は潰れた。政治の筋道を通さないからそういう結果になるんです。 ●聞き手・レポート/武冨薫(ジャーナリスト) ※週刊ポスト2019年5月3・10日号 小沢一郎氏が語る新進党の解党「公明は自民に脅されていた」 https://www.news-postseven.com/archives/20190507_1365567.html 2019.05.07 16:00 週刊ポスト NEWSポストセブン 新進党両院議員総会で新党首に就任した小沢一郎氏(左端)を祝福する海部俊樹氏(中央)と羽田孜氏(時事通信フォト) 1994年(平成6年)に小選挙区制度が導入され、政界は否応なく2大政党への再編に向かい始めた。自民党は橋本龍太郎内閣で単独政権に返り咲き、小沢一郎は新生党、日本新党、民社党、公明党(衆院のみ)の反自民勢力を結集して新進党を旗揚げ(党首は海部俊樹、副党首は羽田孜、小沢は幹事長)。本格的な2大政党が出現したかに見えた。 だが、新進党は小沢と盟友の羽田が争った党首選で内部対立が深刻化し、1996年10月の総選挙に敗北。結党わずか3年で解党に至る。当時の舞台裏を小沢が明かした。(聞き手/ジャーナリスト・武冨薫) 小沢:もともとは羽田さんとの党首選挙なんてやる必要はなかったんです。僕だけじゃなくてみんなが「羽田党首、小沢幹事長でいいよ」と。ところが、羽田さんの周りの連中が、幹事長も代えると言い出した。 渡部恒三さんが心配して羽田さんに「お前が代表、小沢が幹事長。元通りのそのままじゃないか」と言ったんだけど、羽田さんがうんと言わなかった。恒三さんもさじを投げた格好になって代表選になりました。 ──結果は小沢圧勝だった。 小沢:敗れた羽田さんは、興志会という派閥をつくりました。僕が羽田さんにいくら執行部に入ってくれって言っても、羽田さんはまた嫌だって言う。羽田さんの周りが、何かあるたびに反対だとわあわあ言って足を引っ張る。 1996年の総選挙は70選挙区が1万票以内の僅差の負けだったから、党内が一枚岩で戦ったら十分勝てていた。羽田さんが素直にしていれば選挙に勝ってまた総理になれたのに。 〈新進党結成には、「政教一致」批判がある公明党を吸収して創価学会を2大政党体制に取り込むという小沢の狙いがあった。学会取り込みに危機感を感じた自民党は、国会で創価学会名誉会長・池田大作の証人喚問を要求し、新進党分裂工作を展開した〉 ──公明党を取り込んだ狙いは。 小沢:ヨーロッパでも、宗教を背景にした政党はある。それぞれの個人の精神的な思いというところにとどまっていればいいと思います。 けれども、公明党は実質的に創価学会の意思決定で指示されていたところが問題だった。だから、創価学会の出先機関では駄目だと、あくまでも独立した政党にならなきゃならないと、そのためには(他の政党と)一緒になるのが一番いいという話だったんです。 ──ところが選挙に負けて。 小沢:創価学会の意思が強く出てきた。自民党に脅されたんです、池田大作・名誉会長を喚問すると。 ──解党の決断は国民にも衝撃だった。 小沢:あれは、僕が壊したみたいに言われるけど、そうじゃないんです。 選挙に負けたといっても、議席数は大して減ってない。だけど、細川(護煕)さんが党を出ると言い出した。羽田さんも出ると。創価学会もそういう傾向だし、それじゃどうしようもない。みんな自由にしろとなっただけ。細川さんと羽田さんが出るという話が新進党解散の一番の理由でした。 (文中一部敬称略) ※週刊ポスト2019年5月17・24日号 ※続きはトップ紙面CDEをご覧ください。
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