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投稿者 ダイナモ 日時 2016 年 5 月 02 日 21:29:13: mY9T/8MdR98ug g1@DQ4Npg4I
人は誰も他者の痛みを自分の痛みとして感じることはできない。しかし、自─他の感覚が絶対的に断絶されているとしても、私たちはせめてそこに橋をかけようとすることはできる。想像力という武器によってである。辺見庸氏は、他者の痛みにまで想像力の射程を届かせることのできる稀有な作家だ。そして、その透徹したまなざしは、常に痛みをともなう生を生きる者たちに向けられている。では、そんな氏のまなざしに、存在そのものが痛みともいえる障害者たちはどう映るのか。お話をうかがってみた。
聞き手:桐谷匠(D.culture編集部)
辺見氏は2004年、脳出血と癌という二重の災厄に見舞われ、ご自身も身体に障害を持つ身となられた。リハビリ期間中に行われたインタビューで、こう述べている。「世界というものを制覇しつつある側が<健常>を僭称し、言い募り、我々の多くもその幻想の中で生きているが、健常じゃないことの公正さってあるんだね。誰しもが次の瞬間倒れるかもしれないんだから。健常幻想の暴力は恐ろしいとつくづく思った。<健常>はほとんど暴力と同義なことがある」(2004年10月10日付東京新聞朝刊)。健常が幻想であること、またそれがほとんど暴力と同義であること──まずはその辺を敷衍していただくことにした。
辺見 まず一般的に使われている障害という概念を、僕は字義通りには受け取っていないということだと思います。僕自身、身体に故障を抱えているわけですが、あまり障害者であるという自覚がないのです。僕と同じように精神や身体に故障を抱える他者に対しても、障害者という括りで規定はしません。それはなぜか。僕は人間というのはすべて病者、あるいは障害者であると思っているからです。人間は健常ではあり得ず、障害者でない人間はいない。したがって、僕の中では健常/障害という二項対立は意味をなさないわけです。
──健常ではあり得ない人間が、健常であると思い込んでいるということでしょうか?
辺見 あるいは、そう思い込まされている。ある外国の学者が、こう言っています。「人間というのは疾病なのだ」と。僕も、ほぼ同感ですね。巨視的に見た場合、物質には健常体などというものはありませんよね。それと同様に、人間存在にも健常体などというものはない。哲学的な意味で「人間とは疾病なのだ」というイメージを持つことにより、僕なんかは個人的にほっとするところがある。健常という概念は、常に「健常であるべき」という強制力=イデオロギーを含みますしね。それともう一つ、僕はなぜか、不揃いで欠損のあるもの、そして“正気”ではないもの、正気ではないとみなされるものに、強く惹かれるのです。その逆には吐き気をもよおします。
──障害者の身体というのは、他者を制することのできない身体です。病を得てから最初に出された書物(「自分自身への審問」)で「制したい、制することができる、と思わないのは断然よいことのような気がします」と書かれています。
辺見 それは文字通り、現時点での僕の実感ですね。いまの僕は、現実的に他者に対して物理的な暴力を加えることが不可能な身体になった。この状態に置かれたことで、僕は生きる上での大きなヒントを得たのです。とても大事なところだと思っています。もちろん、自分が抱えているいろんな疾病に関しては、個別に治していった方がいいに決まっています。ただ、そうした現実問題はさておき──少々、口幅ったいですが──哲学的に言うと、いわゆる健常という状態に復帰したいという願望は、僕にはありません。
健常が幻想であるという意味は、何となく理解することができた。では、それがほとんど暴力と同義であるとはどういうことか。ここでヒントになるのが、やはり辺見氏が記した次のような言葉だ。「病院という閉域は、刑務所や拘置所、学校同様に、人と人の関係性がいわば制度的に偏方向的になりやすい。患者と医師、囚人と看守というように<見る>と<見られる>が不当にはっきりします」(「自分自身への審問」)。たとえば障害者福祉の現場でも「見守り」という言葉があるように、障害者は健常者に一方的に<見られる>存在でしかない。この双方向性を欠いた一方的な視線こそが、健常幻想の暴力の根なのではないか。
辺見 それはそうです。見る側は健常で、見られる側をいわば健常ではない人間、つまりなんらかの故障や異常がある人間と断定しているわけですから。しかも、見ることによって相手を類化してしまうわけです。しかし、見られる側も実は見ています。それこそ思考を奪われたような状態にある人間でも、じーっと相手を見ていますよ。この双方向性に気づくことぐらい大きな発見はありません。
一方的に見られる関係ということを少し敷衍すると、相手を障害という言葉で代表される表象と見なす視線というのは、実は中世や近世より現代の方がずっと強くなっているのです。障害者か健常者か、病者か健康者か、あるいは加害者か被害者か──そうした本質的には存在しない境界を設定し、すべてを二項対立的に見る視線というのは、かつてより21世紀現在の方が圧倒的に強くなってきている。勝者と敗者とかね。そういう社会に、いまはなってしまっている。
──障害者と健常者を二項対立的にとらえる視線というのは、そこに悪意があるのなら戦うことができる。しかし、たとえば障害者福祉の現場で働く人などをみると、皆、善意の人なのです。善意の視線とは戦うことができない。ここが厄介なところです。辺見さんも書いていますね。「すきまなく善意だけでなりたつことを建前とする集団や組織、運動にときとして戦慄を覚えるのはなぜだろうか」(「たんば色の覚書」)──。
辺見 そこが問題ですね。善意ぐらい厄介で手に負えないものはないです。たとえばファシズム。ファシズムの端緒には悪意があると考えられがちですが、そうではない。すきまのない善意があるのです。善意の塊こそがファシズムを立ち上げるわけです。まあ、ファシズムは極端な例ですけど、弱者を排除するような意図というのは、実は悪意を元にしたものではありません。善意の集合の方が、悪意などよりもはるかに怖い。
──ただ、健常/障害の二分法が意味をなさないということはわかりますが、現実には社会的に有用な身体とそうではない身体というのは分けられていますよね。しかし、有用でないことの有用性というのもあると思うのです。障害者というのは、極言してしまえば社会的には有用ではない者です。だからこそ、何かの大きな力や、あるいは目前の危機のようなものに抗えるのではないか。
辺見 おっしゃることは僕にはよくわかります。そもそも人間存在が有用であるべきかどうかということがあります。僕はそうは思わないですけれど、人間存在が有用ではないかもしれないという前提を持つこと自体、いまの社会は許さないようなところがある。それともう一つは、人間存在が「どう望まれているか」ですね。たとえば障害者とカテゴライズされた人々は何を期待されているのか。おそらく、有用であるように望まれているのだと思います。社会ないしは国家というものに──あるいは労働力という機能としてともいえるでしょうが──役に立てるような身体たるべく強制されている。それは、人間は健常であるべきという圧力と等しい。
──まあ、健常であるべきだという圧力は強いですよね。
辺見 ますます強くなってきている。それは政治的なというよりも、むしろ資本主義的な圧力でしょう。健常さを迫られているとでも言いましょうか。こう、みんなで同じ歌を歌うとか(笑)、みんなで統一されたシュプレヒコールを乱さないように叫ぶとか。その中で一人だけ違うことを言ったり、違う行動を取ったりすると、たちまち病者にされてしまう。僕はそうした嫌な光景を色んな現場で見せられました。われわれはいま、そんな社会に生きているのだと思います。
「統一されたシュプレヒコールを乱さないように叫ぶ」という言葉は、明らかに辺見氏が鋭い批判の眼差しを向けているSEALDs(注1)の若者たちを念頭に置いたものだと思われた。彼らはこの国のエスタブリッシュメント──もっと平たく言えば「ここまでなら暴れていいよ」という社会の暗黙のルールからの逸脱を好まない。筆者はここで、SEALDsの運動の対極にあるともいえる「青い芝の会」による川崎バスジャック事件(注2)を思い出した。車椅子の脳性まひ者たちが川崎駅のバスロータリーを占拠し、一時的にでも都市の交通機能を麻痺させた──障害者たちがエスタブリッシュメントに体ごとぶつかっていった事件である。この対比は、辺見氏の目にどう映るだろう。
辺見 「青い芝の会」の事件のことは僕は知りませんでしたけれど、非常に示唆的ですね。そこで注意しなければならないのは、そうした車椅子の人たちの行動をグロテスクと見る視線が社会にあるということです。そして、その視線は、現在の体制に抗っているという国会前の若者たちにも無意識に共有されていたように感じられます。彼らは恰好の悪いもの、醜いもの、異様なもの、乱暴なものを排除するという。それで警察と打ち合わせをした上でデモ行進し、最後には行儀よく道路の掃除をして帰る。僕にはちょっと生理的にわからない。異様なものが入り混じることに対する嫌悪──その感性は彼らが抗うべき現体制の感性と同質なものなのではないか。
国会前の現象に、僕は当初、親近感を抱いていましたよ。安保法制反対のデモには参加してみました。それで、僕がいちばん怒ったのは、彼らがあれだけの警察の壁を壁と思っていないことです。むしろ、警察を守護者であるという風に考えている。この感性の倒錯ですね。僕は警察の壁に体ごとぶつかっていって突破しろと言っているのではないのです。ぶつかって突破したいという自然な衝動が殺される気配──それを若い人たちがまるで感じ取っていないことに苛立っているのです。
彼らは安倍政権と戦っているのだと言う。しかし、僕から見れば彼らの戦い方、彼らの感性は、安倍政権と同質のものを含み持っている。自分たちが安倍政権と実は相似的であることに気づいていない。異様なものが入り混じっていることに対する嫌悪というのは、僕には恐ろしいとしか思えませんでした。
それと、これはSEALDsの運動とは関係のない話ですが、“反社会的”という言葉を僕は根本から疑います。この言葉の詐術を信じません。“反社会的”というレッテルを貼るものには気をつけた方がいい。
──安倍政権の話が出たので繋げてみます。僕は障害者というのはジョルジョ・アガンベン(注3)の言うホモ・サケル(注4)だと考えています。つまり、「剥き出しの生」「単なる自然的な生」を生きる者。そして、古代ギリシャのポリスで「単なる自然的な生」が家(オイコス)の領域にしっかり閉じ込められていたように、現代の障害当事者の多くも──知的障害者などはとくにそうですが──家族的領域の中に幽閉されているのが現実です。そこで安倍政権ですが、自民党憲法改正草案の前文には「家族はともに助け合わなければならない」と書いてあるわけです。家族主義の強調ないしは強制。それはますます障害者を家族の中に引き込ませてしまうものです。そうした最近の国家の強圧については、どう思われますか?
辺見 国家というのは純粋国家化といいますか、剥き出しの国家と化しつつあるのですね。それで、僕が最近、いちばんグロテスクだと思い、恐怖を覚えたのが「一億総活躍社会」というスローガン。国民すべてに活躍せよと強制する──これは暴力以外の何物でもありません。このスローガンに反発する声が少ないことに僕は驚くのです。かつては、こういうことは冗談でもなかなか言えなかった。一億総活躍って、余計なお世話だっての(笑)。仮に体が動こうが、お役に立てようが、こちらは活躍なんてしたくないわけですから。それはともあれ、一億総活躍とはとんでもない国家スローガンであって、そうした文言が出てくる状況というのは、やはり1930年代あたりに似ている。ファシズムの時代ですね。ある意味、現在の日本国はファシズムを反復しようとしているように見えます。
──話題を障害者の問題に戻します。社会というのは有用な者たちの共同体ですね。それに対して無用な者たち、無能な者たちの共同体が構想されてもいいと思うのです。そのとき、大きなヒントを与えてくれるのが、たとえば<ろう文化>。ろうあ者たちによる「自分たちは手話という独自の言語体系を持ち、独自の文化圏を形成している」という主張です。主流社会の中になんとか入り込み、その末席を占めようとするのではなく、障害者自らが自分たちの共同体を作ろうとする可能性。僕は非常にラディカルで面白いと思っているのですが。
辺見 僕はそれほど詳しくないので、あまり明瞭な意見は述べられませんが、それは当然あるべきだし、あっていいのではないかと思います。ろうあ者にカテゴライズされる方々だけでなく、さまざまな障害を持つ人々──どのみち、人間はすべて障害者なのですから──が生み出す多様な文化ですね。それは社会を豊かにすると思います。ただ、いまの社会ではそうした試みがネガティブな価値としかみなされない状況がある。そうした差別的状況は何も克服されていないですね。
お話をお聞きしていて、いわゆる障害というものを契機とした思考というのは、大変な領域を含むのだと改めて思いました。ただ、障害者というのは<障害者>という役割を強制されるべきものなのかどうか、その辺は考え直した方がいいように思います。よりラディカルな思考の積み重ねを期待しています。
「僕は変な小説ばかり書いていてね。脳出血を起こしたから辺見はこういうものを書くんだなどと言う人もいる。それで健全な若い読者が離れていって(笑)、まあ、結構なんですけれど」冗談めかして辺見氏は言う。健全ならざる筆者には、近年の辺見氏の小説が面白くて仕方ない。もっと正確に言うと、倒錯的でもあり、諧謔的でもある氏のエクリチュールが面白くて仕方ない。その過激な文体は、一つの観念を徹底的に身体化するところから生まれたものであるように筆者には思える。身体性というものを経過しない言葉を氏は一切、信じていないように思える。最後に、そのことについて聞いてみた。
辺見 僕はもともと生理的には体育会的だったと思うのです。ただし、そのことに対する自己嫌悪が常にあった。それで、いまはどうかというと、一応、身体障害2級、要介護2の「認定」を受けていて、とにかく毎日、体が痛くてたまらない。痛みの主たる原因は脳血管障害による「視床痛」といわれていますが、発症後12年、痛みは少しも緩和していません。ものを書くというのは、痛いから書いているようなものです。
かつての僕は、物理的に暴力を振るうことが可能な身体を持っていました。手足が動き、走ることができ、取っ組み合いもできる。では、それで自分は爽快であったのか、意気揚々と溌剌に、毎日明るい気分で生きていたのか──決してそうではありませんでした。いま僕を強く動かす自殺衝動はかつてはなかったのかというと、かつてもやはり、いまと同じようにあったのですね。僕は、嫌でした。僕は僕の身体そのものが厄介だったと、そう告白せざるを得ません。
自殺衝動は昔もいまと同じようにありました。ただ、いまは体が思うように動かせませんので、首を吊るにも台に上れないし、両手でロープを輪の形にすることもできないし──まあ、それを口実にしているのかもしれませんが、安楽死のようなことばかり考えています。いずれにせよ、現在の自分の状態と過去の自分のそれを比較するのは、僕にとって非常に面白い。興味は尽きないですね。
「おい、俺は骨をごりごりこすりつけるようにして話したいんだよ。俺は汚い肝をでろんでろん絡ませるようにして語りたいんだよ。首から上でへらへら話すんじゃないんだよ」(「語ること」辺見庸掌編小説集/黒版所収)。首から上でへらへら話す賢しらな筆者は、おそらく見透かされていただろう。障害者をめぐって筆者が口にした言葉の数々──それらが筆者にとって観念でしかなく、自分の身体の外部にのみあるものでしかないことを。精神の生理において骨の髄まで観念的な男である筆者は、ごりごりの身体性をともなった辺見氏の言葉に圧倒され、インタビューを終えるとほうほうのていで逃げ出した。東部戦線でけちょんけちょんに撃破されたドイツ軍のように敗走しながら思った。「死にぞこない」の辺見氏、故障した身体を持つ辺見氏は、言葉本来の意味で健康である。それは、生に対する肯定力においてだ。辺見氏の小説作品を読んでいて強く受けるのは、社会や国家という大文字の概念をはじめ、さまざまな対象に諧謔的な否定を突き付けつつ、どこかで氏が全肯定の高笑いを響かせているという印象である。今回のインタビューでも、筆者はそうした印象を受けた。生に対する肯定力を持たない人間に否定力が持てるはずがない。すべての人間は障害者である──この重量感のある言葉もまた、その表層的な意味とは裏腹に、実は人間に対する力強い肯定のメッセージなのではないか。筆者には、そう思える。
[注]
- SEALDs(シールズ):自由と民主主義のための学生緊急行動(Students Emergency Action for Liberal Democracy)の略称。 安全保障関連法や憲法改正など、現政権が打ち出す政策に反対し、国会前でデモ活動などを行う日本の学生団体。
- 「青い芝の会」による川崎バスジャック事件:脳性まひ者の当事者団体「青い芝の会」が1977年に起こした事件。車椅子利用者の乗車を拒否するバス運行会社への抗議活動として、会のメンバーたちが川崎駅前のバスロータリーを不法占拠した。
- ジョルジョ・アガンベン:1942〜。イタリアの哲学者・美学者。主著「ホモ・サケル」では、生を剥き出しにされ、かろうじて生きている存在に焦点をあて、現代の政治における抵抗のあり方を探求した。
- ホモ・サケル:ジョルジョ・アガンベンが提出した概念。「聖なる人間」という意味のラテン語。ホモ・サケルは共同体から排除されたために殺しても罪にならないが、神々に犠牲として捧げることはできない人間を表す。
辺見庸(へんみ・よう):1944年宮城県石巻生まれ。早稲田大学文学部卒業。70年、共同通信社入社。北京特派員、ハノイ支局長、編集委員などを経て、96年退社。この間、78年、中国報道で日本新聞協会賞、91年、小説「自動起床装置」で芥川賞、94年、「もの食う人々」で講談社ノンフィクション賞を受賞。その他の小説に「青い花」(角川書店)、「霧の犬」(鉄筆)など。また、詩人としては2011年、詩集「生首」で中原中也賞、2012年、詩集「眼の海」で高見順賞を受賞している。最新刊「増補版 1★9★3★7(イクミナ)」(河出書房新社刊)など、著書多数。
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