[shudo27.2795] 「長周新聞HPへ投稿しました」長文ごめん 長周新聞 『骨が語る兵士の最期』 著・楢崎修一郎 https://www.chosyu-journal.jp/review/87622018.08.15 Wednesday 資料・FBでみつけた軍曹の戦争話は詳細であり、聞き手の受け取り方は正直である★ onomar.jugem.jp/?eid=5162#comments 日本が敗戦した八月十五日 ソ連軍の参戦を知っていた満州在の帝国陸軍は 自らの家族をいちはやく日本に帰し、みずからも密かにとんづら。 情報を伏せられて置き去りにされた民間人は 満州、朝鮮、中国で自力逃避行を強いられ、 数多の犠牲者がでました
民間人であるオノマ一家五人も満州、朝鮮を転々とし、 日本にもどったのは戦後一年ほど後のことです
逃避行が始まる前、 我が家にソ連兵たちが入ってきた光景を覚えています。 大きな兵隊たちの脚を蹴る幼児・オノマを 兵隊たちは面白がったそうです
日本人は外出すると難にあうので家から出るのが難しく ひっそり暮らしたそうです。 さいわい父たちは近隣の中国人たちと仲良くしてたので 彼らが買い物をしてくれ、 その品物を塀越しに母へ渡していた光景を覚えています
夜間、徒歩での逃避行中に 防空壕に転がり落ちて見上げると裸電球、 引き揚げ船に乗り込むときや船内での混乱、 大人たちのあさましさ ・・などがオノマ@四歳の脳に刻み込まれ、 そうした光景やその時に感じた気持ちは 今でもよみがえってきます
ボートから母船に乗り込むのは 幅ひろい網をよじ登っていったのですが、 母船から水滴がポタポタ落ちてきて顔にあたり、 見上げると暗い夜空があったこと、 幼児・オノマを押しのけたおばさんがいたのでそのお尻をつねったこと、 振り向いたおばさんのマヌケ面もよみがえってきます
★ オノマの戦争体験はこのくらいにして、 ほんじつはFBでみつけた、生々しい記事を転載します
戦争に関する文献をいろいろ読んできましたが、 無名の人が書いたこの記事は出色、貴重な記録だと思います
安倍晋三さんとか石破茂さんとかいう連中はこういった 生々しい光景を疑似体験できる能力が欠落していると思います。 観念的な戦争観でもって勇ましいことをしゃべくりまくっている、 いざ戦争が始まったら自らの保身を最優先させる、 知的生命体としてはできそこないのサル・ニンゲンであると モノリスは判定し、抹消することでしょう。
書かれた方に、転載して良いかをメールで照会したのですが、 届かなかったのかお返事がありません。 ダメの返事が来たら直ちに消します
★ <歴史の授業> 僕の先生は軍曹だつた。
広島県の山懐にある小さな町での思い出である。 私が中学生の時の話だったから、何十年も前のことになる。 その頃、私の在籍した中学校には屋内体育館がなかったので、 雨天の体操の時間には通常の教室での自由時間に振替えられた。 振り替えの授業は楽しかった。 なにを勉強してもいい自由時間だったからだ。 体操の担任教師の名前は「グンソー」といった。 それは彼が兵隊にいたとき、 「軍曹」の階級にあったからだ。 彼の本名を呼ぶ者は誰もいなかった。 彼は体操の振り替え時間には決まって、 戦争の体験談を生徒たちに話して聞かせた。 だからいつの間にか、 彼は「グンソー」という呼び名になってしまったのだが、 彼は戦争での経験をまるで手柄話のように語った。
グンソーの話から、 戦争の真実を生徒たちに伝えたい思いもあるようには見えたが、 それよりも、 好奇心が強く血気盛んな中学校2年生ぐらいの男子生徒たちに、 自分が戦争の中でいかに勇ましかったかを おもしろく話したかったように思えた。 今になってみると彼は戦争の話をしながらも、 いろいろのことを生徒たちに伝えたかったのかも知れない。 しかし彼が亡くなってしまった今となってはよくわからない。 彼が話したのは、 平和を作る話よりも 戦争をする話の方がはるかに多かった。 戦争そのものについてであった。 グンソーは肌黒く、 みるからに目玉も大きくいかつい顔をしていたので、 生徒たちは、 彼がいったいどのように勇ましい戦争をやってきたか、 興味はつきなかった。 僕たち中学生は夢中になって耳を傾けた。・・・・・
ー今日は雨降りだ。 生徒たちは、グンソーが教室に入ってくると、 まるで教室が割れんばかりの大きな声で、 「グンソー、グンソー・・・・話をしてー、話をしてー」 と、話をねだった。 すると彼は、嬉しそうに見えながらも なにか躊躇しているようにも見えた。 彼の態度から、 「これは自分自身から好き好んで戦争の話をしたのではない、 生徒たちに求められたから、 わしは戦争の話をしたのだ」 と言いたかったのかもしれない。 グンソーはいつも 戦争での体験談を身振り手振りで語った。
「わしが初年兵の時じゃった。 わしが初めて人を殺したときのことじゃ。 中国人の捕虜を処刑せよと命ぜられてのう。 困ったようのう。 そこでわしは捕虜を広いコーリャン畑に連れていって、 日本刀で首を切ろうとしたんじゃ。 じゃが日本刀は首に当たらず、 肩に当たったので、 捕虜は大声をあげて喚きながら逃げていった。 人を殺すというのはすごいことじゃ。 わしが捕虜を逃がしたということになると大変じゃけえのう。 わしは必死で コーリャン畑の中を捕虜を追いかけていってのう・・・・ 捕虜は肩から血を流しながら、 広いコーリャン畑の中を逃げ回ってのう・・ そして最後にはわしが 捕まえてコーリャン畑の中で射殺したんじゃが、 わしが初年兵の時じゃった。」
ー敵兵の処刑について、 グンソーは事細かに語った。 おそらく彼は相当数の処刑を担当させられたのだろう。 彼はそのときの様子を、 黒板に簡単な線で絵を描きながら語った。
「軍人が処刑を行うときにはのう、 囚人にまず目前に穴を掘らせ、 その前に囚人を座らせるのじゃ。 穴は全部自分で掘らせるんじゃ。 処刑は日本刀で首を切り落とすのじゃが、 首の皮一枚を残して切り落とすのが 上手いやりかたじゃと言われておった。 もう殺されるとわかってくると 囚人も観念したように見えて、 彼らがいったん「メーファーズ(没法師)とつぶやいたら、 完全に死を覚悟したように見えたんじゃ。 刀を思い切り振り下ろすと、 切断された首からは 血がビューとものすごい勢いで噴出したんじゃよ。 そしてその体を穴の中に蹴落とすんじゃ」
とそのときのその生々しい話を グンソーは 刀で切り落とす格好をしながら事細かに語った。 なんともショックな話だった。 時には 捕虜を10人ぐらい並ばせて、 片方から鉄砲を撃って銃殺したことも話をした。 5〜6人まで弾が届いたというが、 なんでもないように軍曹は語った。
ー「市外戦のときじゃった、 ときどき街角の路上で、 敵兵とバッタリと鉢合わせすることがあった。 そのときはお互いびっくりするもんじゃ。 恐ろしいもんでぇ。 すぐにどちらもピストルをを撃ち合ったときのことじゃ。 戦いは誰でも恐いが、 お互いに向き合った時には、 逃げ出さずに最初に少しでも早く勇気をもった方が 戦いには勝つんじゃのう。 わしは、そのときに逃げずにすぐに 後ろから撃ったんじゃ。 ピストルを撃つときは、 こうやってピストルを 頭の上からゆっくり下ろすようにして照準を合わすんじゃ」 グンソーは ピストルの撃ち方をゼスチャーでして見せながら語った。
ー「あるときわしは敵の視察を命じられてのう。 斥候というんじゃが、 その途中にわしが森の中で野糞をやっていたらのう、 ふと背後の茂みがごそごそするので、 なんじゃ、ろうかと思って股下から覗いてみると、 なんとのう、 2人の「中国兵」がわしの尻に 鉄砲を突きつけているのを目にしたんじゃ。」 グンソーは苦笑いをしながらも 恐怖に満ちた目つきをした。
「あああ・・殺される!」とわしが思った瞬間、 わしの頭髪はすべて逆立ったんじゃよ。 ほんまじゃ。ほんまじゃ。 髪の毛が逆立つとはほんまの話じゃ。 髪の毛が立つんでぇ。恐ろしいよのう!」 とグンソーは何ども何度も繰り返して言った。 「わしゃ殺される!」と思ったんで、 大便をしたままの姿勢で 「ウオーーーーー」というような大声をはりあげて いきなり立ち上がったんじゃ。 すると、その声に驚いた敵兵は、 あわてて逃げて行ったよ。 ああ、 間一髪のところでわしは助かったんじゃ。 怖かった。 髪の毛が逆立つとはほんまの話じゃ。」
ー「南京の市街に入って行った時のことじゃ。 ある民家で、 きれいな中国女性を屋内で見つけたんじゃ。 ・・・・・女は日本への留学経験もあり、 言葉も話せる知的で美しい女性じゃった。」 グンソーはその女性が知的できれいだったことを しきりに強調した。 おそらく会話もしたのであろう。 そして言った。 「じゃがその女性が他の日本兵に見つかるとのう、 強姦されて酷いことをされてしまうというので 可哀想じゃったが殺してしまったんじゃ、 可哀想じゃった。」 とグンソーが悔いているように語った。
中学生とは言え、 まだ幼かった僕たちには、 強姦というのは何を意味しているのか、 よくわからなかった。 しかし、 大人の世界には、 子どもにはわからないような世界が たくさんあるようにも感じられた。 僕にはある疑問が湧いてきた。 なぜグンソーがその 女性を殺してしまったのか、 その理由がどうしてもわからない。 よく考えてみるにグンソー自身が彼女を 強姦したのではなかったのか、 それを隠すために 殺したのではなかったのか。 他の兵隊から守るために女を殺してしまった とグンソーは言ったが、 あれは嘘に違いない。 グンソーが女性を強姦して殺したんだ。 それを僕たちに伝えることができないために・・ でもそのことは話にしたいために語ったに違いない。 その証拠にグンソーは、 「戦争ではなんでもできる。 戦争ほどおもしろいものはない」 と言ったではないか? でもそんな恐ろしい酷い体験を 平気で子どもたちに話せるだろうか? やはり彼は女を強姦していないのではないか・・・ ・・・いろいろ考えたが今となっては事実はわからない。
戦争中、グンソー自身が 中国女性を強姦したという話は、 何もしなかったが、彼の話しぶりからは、 戦争中にはグンソーを含めて 日本の軍人たちはどのような 酷いことでも平気でやっていた ということがよく伝わってきた。 事実はどうであれ、 真実を話せない体験が 山ほどあるに違いない。
雨の日には、 グンソーは決まって、 戦争の話をした。 そして時々思い出したかのように、 「戦争は酷(むごい)いもんじゃ」といったが、 そのあとには必ず 「戦争ほどおもしろいものはない。 戦争ではなんでもできるけえのう!」 と断言した。・・・ ・・・そうか、これが 日本軍が行っていた戦争の実態だったのだ。
しかしこれは 中学校での授業の中での話だから、 義理的に 「酷い(むごい)」とつけ加えたのだろうが、 実際には 職業軍人にとっては酷くもなんでもなく、 戦争は彼らにとっては 無限におもしろかったのではないか とも感じた。 その当時、 日本軍の食料は、すべて 現地調達であったという。 つまり 中国の人々の食べ物を略奪せよ と命ぜられていたのだ。 わずかの食料で生きている人々なのに、 そうした人々の食料をとりに行ったとき、 どんなに残虐な行為が待ち受けていたことか。 抵抗した人々はほとんどが殺されたに違いない。
しかし話の中に、 中国大陸や朝鮮半島などで、 日本軍が残虐な戦争を続けて おびただしい人々を殺したことへの反省などは、 微塵もなかった。 今から考えてみると、 普通の公立学校だったら、 このような話も聞けなかったかも知れない。 その学校には私立中学校で、 定年退職した教師や満州帰りの教師など さまざまな職歴や人生体験を持った教師がいたからだろうと思う。
あるとき、その日は雨の日ではなかったが、 突然グンソーが血相を変えて教室に飛び込んできた。 そして教壇に上がって大声で言った。
「だれだ!だれかが今、 人殺し!と叫んだ。 出て来い!」 と叫んだ。 渡り廊下を歩いていたグンソーをだれかが 「グンソー人殺し・・・・」と呼んだらしい。 彼はそれを聞いて逆上したのだ。 「だれが言った?おい!出て来い! おまえらは卑怯じゃ」 グンソーは教壇で大声を張り上げた。 クラスの全員をまるで犯人のように 睨み付けながら執拗に犯人探しを続けた。 誰がその言葉を言い放ったのか 僕たちは知っていたが、 グンソーには何も答えなかった。
そういうことがあってからグンソーは、 戦争については再び語ることはしなくなった。 生徒たちもグンソーの話をもう 聞きたくはなかった。 人殺しの話はもう十分だったのである。 私もグンソーの話を聞くのは好きだったが、 彼の性格や生き方は嫌いであった。 グンソーを人殺しだと感じていたからだ。 しかし考えてみるに、 その当時の日本軍人は、 父も含めてすべてが「人殺し」を演じていたのだ。 軍人とは、 いかなることであれ命令を受ければ、情け容赦なく 人を殺していた存在だからだ。 女でも子どもでも。 日本軍人たちは、 どれだけたくさんの人々を殺してきたことか! それは朝鮮半島や中国大陸だけではなく、 太平洋地域や東南アジア全地域でも同じことだ。 すべてが日本の領土を拡張するためで 人々の資産を奪おうというものだった。 グンソーは自らの体験を語ってくれたが、 ほかの人たちは黙して語ろうとはしない。 誰も口を開こうとはしない。 伝えていこうともしない。
日本と中国の戦争では、 中国大陸だけで1000万人から 3000万人の人々が殺されたといわれている。 日本側の公式な計算でも 1000万人以上は殺されているというのだから、 いったい大陸で何があったか 推して知るべしなのである。 南京で虐殺された人々は30万人ではなくて、 実はもっと少なかったかもしれない。 しかし仮に10万人であったとしても それは異民族支配の中では 恐ろしい数字として 歴史に残っているのは事実なのだ。
この数字の検証は、 中国と日本の 双方でやっていくべきものであるが、 しかし現在では 30万人の虐殺は全く存在しなかった という論争にとどまらず、そうした 虐殺自身が存在しなかった という動きが日本にはあるが、 こうしたことを主張する彼らは 戦争の実相を決して 見ようとしてはいない。 彼らは 日本が起こした戦争を 悪いとは思っていない存在だからだ。 だからどんなに人々が(日本軍人に) 殺されても、その 数字を認めることは決してしない。 彼らは どんな事実を突きつけられても 平気で否定する人々なのである。 恐ろしいことだ。
人間は完全には出来ていない。 歴史の中で絶えず 間違いを犯している存在だ。しかし 侵略した事実をきちんと認めて、 政府として謝罪することで 日本人として歴史の中でより 真摯な生き方ができるし、 信頼し合うこれからの共同体を 作り上げていくにつながる。 1991年、私はユネスコの仕事で 北京に行ったとき、たまたま 戦争博物館を見学したことがある。 その博物館は、展示品と言ってもほとんどが 写真と新聞記事だけで構成されているものであったが、そこに 展示してあった当時の日本の 新聞記事に 大きな衝撃を受けた。 これは当時の毎日新聞の前身である 東京日日新聞の実際の記事であったが、 大見出しには実名で 「南京攻略時に「百人斬り競争」を行った」日本軍の 将校の二人の発言が報道されていた。
この競争の模様は、 1937年11月30日付けの 東京日日新聞(現在の毎日新聞)によって報道された。 その報道によると、日本軍が 南京へと進撃中の無錫から南京に到る間に、日本軍の 向井敏明少尉(歩兵第9連隊-第3大隊-歩兵砲小隊長)と 野田毅少尉(歩兵第9連隊-第3大隊副官)の どちらが早く100人を斬るか,の競争を行っていると報じた。 東京日日新聞記事では、 無錫−常州間で 向井少尉は56人、野田少尉は25人の中国兵を斬った と報じている。 また、1937年12月13日付けの記事では、 12月10日に記者と会った時のインタビューとして、 すでに向井少尉は106人、野田少尉は105人の中国兵を殺害しており 100人斬り競争の勝敗が決定できず、改めて 150人を目標とする殺害競争を始めると報じている。
これは戦時中のことだから、 新聞もかなり誇張して書いたかも知れず、 (近年は虚報だと言う意見もあるらしく) 事実であるかどうかはわからない。 しかし当時の日本の新聞が こうした記事を掲載していたことを考えると、 これに近い虐殺は当時、 面白半分に、手柄半分に 日本軍人によって行われていたことは 容易に想像できる。
敗戦から70年が過ぎた今、 戦争はまるで 天災や自然災害と同じだった ような感じで 報道がなされている。 敗戦国として アメリカに踏まれた者の痛さとしての悲惨な 「東京大空襲」や 「広島の原爆投下」や 「沖縄戦」のことは、 TVでよく上映されている。しかしその 内容はと言えば、ほとんどが反戦映画とは言っても 「東京大空襲」や 「広島の原爆体験記」など 被害を受けた一般市民の視点だけであり、 グンソーのように 中国大陸や朝鮮半島で実際に 「人を踏んだ者」や 「人々を殺しまくった軍人」の 体験談をする番組はほとんどない。
マスコミもあえて この問題に触れようとしない。 殺(や)られたということだけであって、 殺(や)ったということは決してしない。 要は うしろめたい体験はすべて 隠そうとしているのだ。そして 否定しようとするのだ。 従軍慰安婦について、 河野官房長官の談話の中での 唯一の謝罪があるが、こうした 談話すら否定しようとする動きが現在 政府の中にある。 これは本当に 恥知らずで 無責任な性格をよく 表している。 「文書がない」という理由で 水に流そうとしているのだ。
考えてもみよう。 中国や韓国の人々が、 日本の戦争責任を口にするときには、 彼らは戦争中、 言葉で表現できないような、 悲痛な体験をしてきているのだ。 そして語り継いできているのだ。 もしもあなたの 家族が百人斬りの中の 犠牲者になっていたら、 もしもあなたの 家族が強制連行で 従軍慰安婦として働かされていたら、 もしもあなたの 美田が強制 徴収にあっていたら・・・・ その恨みや辛さを永遠に 語り継いでいくのは当然のこと。 恨みや辛みは永遠なのだ。 もし日本人が 中国や韓国の人々から 非情な仕打ちを受けていたら、それを 後世忘れないのは当然だろう。
アメリカとの戦争では、 沖縄を除いて、 顔の見えない戦争(東京大空襲、原爆投下にしても人々の接した 戦争は地上戦ではなかった)であったが、 大陸では 顔の見えるなまなましい 戦争であった。 しかし実態として、 現代の日本人のどれだけの人々が 戦争で行った「心の痛み」を深く感じながら、 自らの国が、 自らの肉親たちが行った 残虐な行為を 「慙愧の念」をもって 振り返っているであろうか? そして 語り継いでいこうとしているであろうか? 「人の心の中に平和の砦(とりで)を!」という言葉があるが、 平和を口にする前にまず 戦争についての”実態や事実を”きちんと 次世代に語っておく必要がある。 そうでないと 戦争は我らの世界から消えることはない。そして 前世代のやった残虐な行為を 背負って、 次世代が育っていくのだから。
「なぜ日本軍は大陸に侵略していたのか? なぜ朝鮮半島を植民地にしていたのか? なぜ日本は満州国をつくっていたのか? なぜ多くの人々を殺しまくっていたのか? なぜ軍隊はいつも女性を強姦するのか? なぜ人間は 物欲が余りにも深く 他の存在を支配しようとするのか?」
しかしこうした 体験や考えは今や 風前の灯になって 消え去ろうとしている。 みんな 黙して語らないからだ。 過去の体験をひたすらに 水に流そうとしているのだ。 沈黙のまま 墓場まで持って行こうとしている。
ああ、 歴史は必ず繰り返す。 日本人は、 被害者であった以上に 加害者であったことを 引き継いで伝えていかなければならない。 人に踏まれたことより 人を踏んだことを・・ そう、戦争中、 最も悲痛であったのは、 被害者であったからだ。 政治家がやったことを決して 忘れてはいけない。 そしてそれに追随して 破局に陥ったことを・・・ 今日本では、 間違った歴史観が育っている。 人を踏みつけても なんとも思わないような歴史や、 あったことでも存在していなかったように 真実を覆い隠そうとする 歴史観が広がっていっている。
そうした中からは、 決して 正しい意味での ”日本人の誇り”とか ”日本人の愛国心”が 育っていく訳がない。 愛国心とは、 国境を越えて 世界中の人々を 愛することができる ことをいうのだ。 決して 狭い人間観ではない。 狭い国家観がどれだけ人間を 閉鎖的で 残忍な存在にしてきたか、 近代の歴史を見れば 一目瞭然であろう。 愛国心は悪漢の最後の隠れがだという 有名な言葉もあるぐらいだ。そして 三流学者が 自虐史観という名称をつけては、 自らの行ってきた罪業を 闇に葬ろうとしているのが 現在の日本の歴史教育の流れとなろうとしている。 そして再び、 軍産学が手に手を取り合って、 コンピュータを搭載した兵器産業を日本の 主翼な産業に成長させようとしている。そして 安倍内閣は、 戦争法を強行し、 平和憲法9条を改悪しようとしている。
グンソー先生!あなたは 生徒たちにいろいろ言われながらも、そのような なまなましい体験を語ってくれて、ありがとう! あなたたちが 中国や韓国でやってきたこと・・ 人々を踏みつけてきたこと。それは決して 忘れませんから。そして同時に 子どもたちは、 いつの時代にも、 大人の本当の気持ちや真実を 知りたいと思っていることを。 グンソー、グンソーと言われながら、 反面教師かなにかわからないけれど、 中学生に自らの赤裸々な 戦争体験を一生懸命に 語ってくれていた先生!あなたが 話してくれたからこそ、 今、こうやって ブログを通して 多くの人々に 伝わっていっているんです。 ありがとうございます!!
田島伸二
[スレ主【赤かぶ】による初期非表示理由]:この投稿に対するコメントとしては場違い。別の投稿にコメントしてください。(アラシや工作員によくあるコメントはスレ主が処理可能)
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