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(回答先: テスト 投稿者 赤かぶ 日時 2014 年 7 月 06 日 01:40:35)
被爆の痛み、未来へつなぐ 吉永小百合さん、命の朗読
http://www.asahi.com/articles/ASG8474Z5G84PTIL030.html
2014年8月6日01時16分 朝日新聞
吉永小百合さんが色紙につづったメッセージ
広島と長崎に原爆が落とされた年に生まれ、「核」を手放せない戦後とともに歩んできた。俳優の吉永小百合さん(69)。被爆地や原発事故で苦しむ福島への思いが詩の朗読を通して伝わり、共有してほしいと願う。核とどう向き合えばいいのか。インタビューでは「命を守る」という視点の大切さを訴えた。
爆心地に近い小学校で「原爆詩」を朗読した後、原爆ドームを訪れた吉永小百合さん=1998年6月、広島市、山本和生撮影
■思いを受け止め、伝えたい
――詩の朗読で自ら選んだ一つが、「にんげんをかえせ」で知られる詩人・峠三吉の「原爆詩集 序」でした。
「どんな朗読会でも最初に読む、まさに『序』なんです。峠さんのすべての思いが詰まっています。まったく原爆のことを知らない方でも、『えっ』という思いになってくださる気がするので、日本語と英語で読むようにしているんです」
「本当のことを言えば、もっと強い表現の詩がたくさんあります。ただ、それを直接読んでしまうと、最初から『そういうものは聞きたくない』っていう方の拒否反応があると思うんです。最初に分かりやすく、やさしく読んで、『あぁ、こういう詩があったんだ。じゃあ違う詩も読んでみよう』と思ってくだされば一番いい。そういう詩を中心に読んできました」
――朗読の手応えは。
「私の力は小さくて、大きくならないんですけど、例えば朗読を聴いた学校の先生たちが子どもたちに教えてくださり、その時の生徒が今、先生になって、ご自身が子どもたちに教えてくださっている。そういうことが大事なんですね。受け止めてくださった方が、また次に伝える。それが被爆者の方たちの一番の願いだと思うし、ご年齢的にもなかなか、先頭に立って動けない場合もあるから、私たちがその思いを受け止めて伝えていかないと」
「そうすると、全然そういうことを知らない、知ろうともしない人たちにどうやって分かって頂くかが一番の問題でしょうね。スティーブン・オカザキという日系アメリカ人の監督がドキュメンタリーの冒頭で渋谷の女子学生にインタビューして、『1945年8月6日に何が起きたか知ってる』って聞いたら、『えー、知らない、地震?』って。鳥肌が立つほど悲しかったんですよね。そんなことが日本であってはいけない。みんながあのときの痛みを分かろうとしないといけないと思います」
■「第二楽章」に込めた意味
「原爆詩」の朗読後、平和記念公園の「原爆の子の像」に捧げられた折り鶴を見つめる吉永小百合さん=1998年6月、広島市、山本和生撮影
――被爆した広島と長崎へ向けて、原爆詩の朗読CD「第二楽章」(97年)をつくりました。第二楽章に込めた意味は。
「CDをつくる時、『戦後50年たった今は第一楽章ではなく、第二楽章に入っている』と。語り継いでいかないといけないけど、声高でもいけない。第二楽章はアダージョっていうか、ゆったりした楽曲が多いですよね。それで決めたタイトルなんですね。それがずっと今につながってるんです。結局、ぱーっと強く言っても、そこで終わっちゃう。柔らかい口調で、人の心に少しでも染み込んでいくものをつくりたい、という思いでした」
――(第二楽章をつくった翌年の)98年にアサヒグラフの特集で広島を訪れました。その当時、原発の意識はあったのですか。
「今ほど強い思いを持っていたわけではないと思うんですね。ただ86年に(旧ソ連の)チェルノブイリの原発事故があり、その1週間後にドキュメンタリーの仕事でウィーンに行きました。そのとき、ジャガイモやホウレン草は一切食べてはいけないと。1千キロ離れているのに危険なんだと驚きましたが、強い懸念も持たなかった。3・11まで、そこまでしっかり考えていなかったと思います」
――原発事故が起きた福島のことも、詩を通して発信するのですか。
「3・11の後、たくさんの作品が福島で生まれました。和合亮一さんという高校の先生の詩や、子どもたちもきちっとした詩を書いていますし。それを読み続けていくつもりです」
「できれば『第二楽章』を広島、長崎、沖縄に続いて、近い将来、福島のものもつくりたい。いろいろと困難なこともあるんですけれど、やりたいと思っています。『第二楽章・福島』とか『福島から』とか、自分の頭の中では考えています」
■電力よりも命が大事
――今年の東京都知事選で、脱原発を訴えた細川護熙元首相を応援するメッセージを出しました。
「日本の原発の事故を見て、ドイツでは原発をやめましょうと決めているわけです。でも、日本はそうじゃない。やめたいと思っている方はたくさんいると思うんですけど、声を出す人は少ないんですよね。だからやっぱり、自分が思ったことは声に出したい、意思を伝えたいと考えました。仕事をしていくうえでネックになることはこれからあると思いますけど、人間の命のほうが電力よりも大事じゃないか、という根本だけは忘れたくありません」
――影響を受けた人は。
「坂本龍一さんです。事故の前から原発の危険性を話されていました。ご一緒した英オックスフォードの朗読会(2011年10月)でも、『核と人間は共存できない』と英語でスピーチなさって、感動しました」「病気になられて(坂本さんは先月、中咽頭(いんとう)がんの治療のため年内の活動休止を発表)、しばらくそういう活動ができないということです。お元気になるまで、坂本さんの分までしっかりやりたい」
――10月公開の主演作「ふしぎな岬の物語」に込めた思いは。
「映画のテーマは、生きることと愛すること。命を受け継ぎ、リレーしていく形でシナリオができたと思います。戦争の時にそういうことってたくさんあったでしょうし、私たちにとって身近なことは、3・11だと思うんですね」
「(私自身も)父親が戦争に行き、たまたま病気になって船を下ろされ、帰ってきたから、私が生まれたんです。もし戦争に行っていれば戦死していたと思うし、私という人間はこの世に存在しなかった。生まれてきたことへの感謝をいつも持っていないといけないと思いますね」
――読者へ伝えたいことはありますか。
「機会があったら、広島や長崎に行き、資料館をみていただきたい。そこから何かを感じ取ってほしいと思いますね。被爆60年の時でしたか、仕事で行ったパリの市庁舎で広島展をやっていました。出口で鶴を折るコーナーがあり、フランスの子どもが不器用だけど一生懸命折っていました。『私たち、忘れないでいようね』という思いが核兵器の廃絶につながってほしい」(聞き手・岡本玄、核と人類取材センター・副島英樹)
■〈取材を終えて〉正面から答えた覚悟
吉永さんに取材を申し込んだのは、6月の連載「核といのちを考える〜被爆国から2014」のシリーズだった。10月に迫った新作映画「ふしぎな岬の物語」(東映)の公開で多忙を極める中、ずっと時間をとってくれようとしていた。シリーズには間に合わなかったが、東京都内で7月、インタビューが実現した。
吉永さんは約1時間、メモを見ることもなく、こちらのすべての質問に正面から答えた。ある種の覚悟を感じた。
その頃、吉永さんは一冊の本を編んだ。「ヒロシマの風 伝えたい、原爆のこと」(角川つばさ文庫)。子どもたちへの語りを途切れさせてはいけない――との強い思いからだ。
今年も鎮魂の夏が巡ってきた。今の思いを色紙に書いてほしいと依頼した。そこには、「いつまでも 語り継ぐ」と書いてあった。
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