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「定常経済・相互扶助社会は「夢想」ではなくて、歴史の必然的帰結です:内田樹氏」
http://www.asyura2.com/14/senkyo177/msg/518.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 1 月 05 日 23:25:15: igsppGRN/E9PQ
 

「定常経済・相互扶助社会は「夢想」ではなくて、歴史の必然的帰結です:内田樹氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/16285.html
2015/1/6 晴耕雨読


https://twitter.com/levinassien

昨日平川君と話したのは、経済成長の終わりと定常経済への移行は経済の自然過程であるという話でした。

別に日本だけが特別であるわけではなく、いずれすべての資本主義国で成長が止まる。

人々がそれを恐れているのは、そのあとは国民資源の「フェアな再分配」の仕組みを作らなければいけないからです。

「パイ」が増大しているときは再分配の方法がどれほどアンフェアでも、人はあまり気にしません。

自分の「パイ」も増えているからです。

でも、「パイ」の増大が止まったとき、あるいは縮減してくるとき、分配方法のアンフェアに対しての視線はいきなり厳しいものになります。

そのとき社会的混乱を引き起こさないためには「パイ」が大きいうちに「フェアな再分配」の仕組みについて衆知を集めてプランを立てておくべきだったのです。

でも、久しく「パイの増大」以外に解はないと思い込んでいたので、「社会的安定をもたらす再分配方法」については誰も、何もアイディアがない。

アベノミクスというのは「資源の再分配のアンフェアネスを徹底的に進めることでパイを大きくする」方策です。

成長が止まったとたんに社会的混乱が起きるように意図的に作り込んである。

だから成長する以外に社会的安定の道がない。

カオスを忌避するなら経済成長の夢にすがりつくしかない。

平川君との暫定的結論は「再分配のための社会の仕組み」を政治が構想できない以上、とりあえず市民レベルで再分配をはかるしかないだろうということでした。

そして、すでに多くの人々が自力で相互支援の仕組みを作り出そうとし始めています。

その動きが同時多発的であり、かつ主導的な理論も組織も持たない運動であることに、僕は希望を感じます。

イデオロギーではなく、身体実感をベースにして手作りされる運動の方がずっと持続力も創発性も豊だからです。

凱風館はいま「雇用の創出」、「生きるための技術の伝授」、「相互扶助相互支援のネットワーク形成」をめざして動いていますが、それは19世紀の「空想的社会主義者」の夢想に近いものかもしれません。

「一挙にかつ根源的に世界を変える構想以外は無意味だ」という批判に今度は抵抗してみたい。

凱風館に似た相互扶助ネットワークはいま日本中のあちこちで、さまざまなサイズ、さまざまな形態で形成されつつあります。

いくつかの運動体との出会いから、僕はその手応えを感じています。

格差の拡大による若年層の急激な貧困化はこの流れを加速させてゆくことになるでしょう。

定常経済・相互扶助社会は「夢想」ではなくて、歴史の必然的帰結です。

意図的に創り出さなくても、自然にそうなります。

この企ての合理性が理解できない人たちは「弱者を支援するために作られた組織」の方が「勝者が総取りする組織」よりも淘汰圧に強いということを知らないのでしょう。

ピョートル・クロポトキンの『相互扶助論』をぜひお手に取って頂きたいと思います。

クロポトキンは相互扶助する種はそうしない種よりも生き延びる確率が高いという生物学的視点からアナーキズムを基礎づけようとしました。

なぜアナーキズムが弾圧されたのか、その理由が読むと分かります。

国家による「天上的介入」抜きで市民社会に公正と正義を打ち立てることができるような個人の市民的成熟をアナーキズムは求めました。

「公正で雅量ある国家」を建設するより前に、まずその担い手たる「公正で雅量ある市民」を建設しようとしたことに国家は嫉妬したのです。


 

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コメント
 
01. 2015年1月05日 23:46:37 : Y7DCGUFcdQ
>「公正で雅量ある国家」を建設するより前に、まずその担い手たる「公正で雅量ある市民」を建設しようとしたことに国家は嫉妬したのです。

う〜ん…たしかに国家コッカ国家うるさい奴に「公正で雅量ある市民」を見たためしがないもんなぁ。


02. 2015年1月06日 00:21:15 : C3XNkvXnlg
昨年11月の記事を読んで以来、このテーマでの続きを待っていた。

「「経済成長しない社会」について風通しのよい、大ぶりなヴィジョンを描ける政治家が一人もいない:内田樹氏」
http://www.asyura2.com/14/senkyo174/msg/407.html
投稿者 赤かぶ 日時 2014年11月13日

ところが、大ぶりなヴィジョンを描ける政治[家]のことは完全にあきらめてしまったかのような書きぶりにがっかりだ。行政にたよらない「相互扶助ネットワーク」をつくることにはおおいに賛成だが、「「再分配のための社会の仕組み」を政治が構想できない」という「平川君との暫定的結論」など、やすやすと認めたくはない。

いま売れているという新書を読んだら、「定常経済」の話も出てきた。もともとケインズの政策においては、「定常経済」が想定されていたというのだ。それが本当なら今日の経済社会に通用する政策も構想できるだろうと、私などは思ってしまう。その本には、ケインズ政策に対する誤解がこんなふうに書かれていた。内田さんにもあてはまるのではないのか。

…そこに、「経済成長に依拠したシステム(すなわち1950年代から60年代にかけて成立したケインズ主義的福祉国家)のゆらぎ」という文章が、サラっと書かれていたので、またも驚きました。どうやら、福祉関係の言説の中では、ケインズ政策というのはそれなりに高い経済成長を前提として成り立つものだというような認識が、かなり一般的になっているようです。その上で、いまはもうエコロジーの制約とか、少子化による人口減少とかで、経済成長できない時代になった。だから、ケインズ政策はもう無理だ。それに対して新自由主義は、経済成長を無理矢理させようとするからこれも駄目だ。経済成長しないことを前提した新たな対案が求められるのだ……というストーリーになっているようです。

『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』(松尾匡 PHP新書 196ページ)
「ケインズ復権とインフレ目標政策――「転換X」にのっとる政策その2」(松尾匡:連載『リスク・責任・決定、そして自由!』)http://synodos.jp/economy/9034


03. 2015年1月06日 02:25:59 : YxpFguEt7k
東京新聞政治部
「安倍政権下で富裕層と低所得層の二極化が進んでいます。格差を是正するのが税と給付による再分配です。「悲しみの分かち合い」である社会保障制度を充実すべきです。」
https://twitter.com/tokyoseijibu/status/551876816038678528

みんなで分かち合い、個人が悲しみを乗り越えられる社会にしましょう。


04. 2015年1月06日 07:31:37 : XWBfmoKrOw
「歴史の必然的帰結」とか「経済成長の終わり」とか大仰に語る人にコワさを覚えるのだが。

その定常経済・相互扶助社会とやらでは、どのような価値が尊ばれるかを説明していただきたいものだ。

おそらく、現行憲法で保障され、現在大事にされている価値の根幹部分は全否定せざるを得なくなるのではないか。

経済が定常であることに価値をおくならば、卑俗な言い方をすれば、貧乏人の子はいくら才覚があっても金持ちになろうとしてはならないし、学を衒った言い方をすれば、個人の幸福追求は社会秩序を破壊する不道徳と断ぜざるを得ない。

というのも、個人の幸福追求は本質的・内在的に現状変更を希求することに他ならないからだ。これは定常経済社会にとっては擾乱であり、したがって悪である。

いや、こう言い換えるとよいか。定常を尊ぶ社会においてさえ、個人の創意や進取による試みは、それが社会の富が増進する限りにおいて歓迎される定常状態の変更である。

が、それが失敗した場合には最高価値である定常状態が破壊される。個人が好き勝手にやると、その個人が分に応じた行動をとることを期待し、またその心づもりでもいた社会の他のメンバーみなに迷惑がかかる。このリスクに対する配慮から、定常経済社会はどうしても個人の創意や進取を抑止・抑制する方向に動かざるを得ない、と。

一方、相互扶助に価値を置くと、お互いが支えあっているのが前提である以上、個人の勝手な都合や希望でその相互扶助の輪から抜けることは掟破りということになる。相互扶助社会では勝手に職業を変えたり居住地を変えたりなどというのは他のメンバーのことを考えない身勝手な行為となる。

これと関連して、相互扶助するのが当たり前の社会では、一度この相互扶助の輪から外れてしまうと、どこかの輪に再び加わるということが非常に困難になるはずだ。

相互扶助が当たり前の社会でその輪から外れているということは、所属している集団を裏切って勝手に飛び出してきた我儘な人間か、あるいは何かの事情で所属していた集団から追放されたかの何れかであり、いずれにせよ、集団の新規メンバーにふさわしくないと見なすのが常識的だし、組織防衛の論理でもある。

これらにより、相互扶助社会は、相互扶助の輪から無断で抜けないように常に監視され、また、輪から追放されないように常に回りに気を使い、互いに牽制しあう息苦しい社会となるはずだ。

こうしてみると、「定常経済・相互扶助社会」は「笑顔のファシズム」の一種に見えてくる。現行憲法が大事にしている価値観より自民党改憲案が提示している価値観との親和性が高いように思える。

一見、皆を幸せにするアイデアのように見えて、実は、新自由主義によって利益を享受した階層が勝ち逃げを図るためのプロパガンダに利用する危険、そちらの方の可能性がはるかに高く見える。政府や政党が定常経済・相互扶助社会に理解を示すこと、それに国民が熱狂する様を想像するだけでもゾッとする。

昭和前期の革新右翼が、国民生活の窮状の打開を求めて財閥・政党批判をしたあげく、善意の権化のように「みなさんご一緒に頑張りませう」と連呼しながら日本全体の破滅に突き進んで行ったような、あれと同じ統制経済的ななイヤなものを感じるのだ、この「定常経済・相互扶助社会」論には。


05. 2015年1月06日 12:37:19 : C3XNkvXnlg
>>04

「相互扶助社会」のはらむ危険性については、指摘されてなるほどと思った。内田氏の凱風館の相互扶助ネットワークの内容を知らないので、フォローとリツイートによるツイッターの「相互扶助ネットワーク」(笑)を思い浮かべてしまった。
「定常経済」については誤解があるかもしれない。内田氏の考えはわからないが。

「定常経済」は可能だ!(ハーマン・デイリー 岩波ブックレット)
http://iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN978-4-00-270914-7


06. 2015年1月06日 16:20:01 : nz355wIDcY
定常経済にしても、相互扶助社会にしても、
個人が持つ社会に対するマクロ的概念だと理解する。
当然その中では、個々人は状況によってに入れ替わっていき、
ミクロ的には、限られたパイの中で、
誰かが誰かの既得権を害するような状況が
起きていくでしょう。(今も昔も起こっていましたが。)
だから、「公正」や「正義」、助け合いというか弱者への思いやりが
益々大切になってくる。

いずれにしても、定常経済は否応なしにやってくるというか、
もう既にやってきている。
そんな時代を世の中全体が平和に暮らしていき、
かつ社会全体が沈滞しない競争を維持するには、
公正さと正義、そして弱者にへの思いやり(相互扶助)は
社会人が持つべき必須条件ではないだろうか。



07. 2015年1月06日 23:16:09 : Y7DCGUFcdQ
>>4

>その定常経済・相互扶助社会とやらでは、どのような価値が尊ばれるかを説明していただきたいものだ。

一助に。

資本主義の死の時代を生き抜く
http://shinsho.shueisha.co.jp/kotoba/tachiyomi/140303.html#1


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