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「こんな殺し方はほかにない。医者として、これだけは絶対に認められない」「放射線の恐ろしさを伝える。それが生き延びた私の役目なんです」東京新聞:語り継ぐ(1)息のんだ地獄絵図 当時軍医・肥田さん原爆の記憶: 東京新聞/埼玉 1月1日 http://t.co/oW4MOyaQ3X
― watanabe (@penewax) 2015, 1月 2
語り継ぐ(1)息のんだ地獄絵図 当時軍医・肥田さん原爆の記憶
東京新聞 2015年1月1日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20150101/CK2015010102000137.html
日本が終戦を迎え、今年で七十年。県内のお年寄りの中には国内外で戦争を体験し、当時の記憶を語り継ぐ人がいます。平和の尊さを、年初めから考えてみませんか。
◇
一九四五年八月六日、広島−。当時二十八歳で軍医だった肥田舜太郎(ひだしゅんたろう)さん(98)は、道の真ん中に立つ影に息をのんだ。「遠くから見たときは人間だと思わなかった。近くで見ても人間には見えなかった」
全身が焦げ、両目も唇も腫れ上がっていた。その人はうめき声を上げながら肥田さんに近づき、倒れた。裸の胸や腰から垂れ下がるぼろ切れは、よく見 ると皮膚だった。「脈を取ろうとしたが、皮膚がどこにもなかった。何もできず立ち尽くしていると、ぴくぴくっとけいれんして、動かなくなった」。初めて見 た被爆者の死だった。
原爆投下の瞬間、肥田さんは広島市中心部から約六キロ北の戸坂(へさか)村(現・広島市東区)にいた。自転車を走らせて広島市内に入ると、太田川 の川岸が遺体で埋め尽くされていた。その上をはって進み、水を求める人々。燃え上がる火に追われ、子どもが川に転がり込んでいた。
肥田さんは戸坂村に戻り、けが人の治療を始めた。村の道路や学校の校庭は人であふれ、血や肉の焦げた臭いが漂う。「やけどの処置や止血、縫合が精いっぱい。無力だった」
一カ月ほどたつと、原爆投下時は広島にいなかった人々に異変が出始めた。肥田さんが最初に気が付いたのは、原爆投下後に広島市に入り、一週間ほど 夫を捜し歩いた女性だ。ある日、肌に紫の斑点が出た。やがて吐血し、髪の毛が抜け落ち、そして亡くなった。「何が起きたのか、訳が分からなかった」。内部 被ばくの影響が指摘されるのは、ずっと後のことだ。
肥田さんは終戦後も被爆者の治療を続け、五〇年に東京都内に診療所を開いた。一方、「貧しくても診てもらえる診療所をつくってほしい」という運動が行田市で起きたのがきっかけで、五三年に行田協立診療所を開設。全国から被爆者の患者がやってきた。
七三年には、県内の被爆者らでつくる県原爆被害者協議会の事務局長に就いた。このころから自身の体験を積極的に語るようになり、国内外で核兵器の廃絶も強く訴えた。
二〇〇九年に医師を引退した。六十四年間で診た被爆者は約六千人。「直接原爆の光を浴びていなくても、内部被ばくで白血病やがんになる。そうやっ て苦しんで死んでいく被爆者を多く見てきた。こんな殺し方はほかにない。医者として、これだけは絶対に認められない」と力を込める。
肥田さんは今も被爆体験を語り続ける。「広島で被爆して診察した医師はみんな死んで、もう私だけ。元気でいる限り、私が話し続けなきゃいけない。放射線の恐ろしさを伝える。それが生き延びた私の役目なんです」 (岡本太)
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