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2015年01月02日
日経ビジネスが、小生と意図とは異なる意味で、三人の戦後リーダーをチョイスして、「遺言」的アドバイスをインタビュー記事で掲載している。個々人には、夫々の苦しみを乗り越えた貴重な体験が数限りなくあるだろうから、話の内容を読み聞く価値は十二分にある。ただ、小生が、簡単に此処に登場する、歴史にも名を残すであろう人々の経営スパイスや、人生観のようなものには、その時代背景が大きく影響すると同時に、戦後の50年近くの間には、日本人の社会全体に「共通のプラットフォーム」があり得た時代だったという、意識の共通認識と云う援護があったことも忘れずに読んでみたいと思う。
日本人が共通の概念でプラットフォームを形成できる時には、なぜか、そのプラットフォーム形成に、最も影響を及ぼしているのが「悲劇の共有」という悲しいような原因によって「空気」が醸成されるしかないという事実でもある。明治維新時代の共通の意識の共有は、文明社会ではなかったことを知った衝撃。第一次大戦終了後は、列強の列に入れたという高揚感と、意識の共有。そして、勝って兜の緒を絞めようという共通認識。第二次大戦終了後は「敗戦と悲劇」という意識の共有。今日紹介されている人々は、この最後の意識の共有が、社会的プラットホームを「空気」として共感的に仲間意志にの中にあった時代背景を重ね合わせて読んでおきたいとも思う「遺言」である。
残念というか、情けないことだが、時代の流れを論理的に読み解き、将来のリスク予想で、意識の共有化が出来るのが理想だが、大きな組織や共同体を纏める場合、協力し合える場合には、多くの場合は「悲劇の共有」が社会的プラットフォームになりやすい。311程度の悲劇の共有では、社会全体の共同体形成のプラットフォームにはなり得ないということなのだ。誰だ!人間は考える葦であると言ったのは(笑)。
≪ 日本の未来へ、受け継ぐべき戦後リーダーの「遺言」
■日経ビジネス
戦後70年──。2015年、私たち日本人は一つの節目を迎える。日経ビジネスは2014年最後の特集に、戦後のリーダーたちの「遺言」を選んだ。焼け野原から輝ける時代を築いた当事者には、若い世代にはない強靱(きょうじん)な視座がある。
今回はスズキ会長兼社長の鈴木修氏、シャープ元副社長の佐々木正氏、脚本家の倉本聰氏の3人の「遺言」を紹介する。 「結局、人生っちゅうのは『こんちきしょう』しかないんじゃない」 中小企業オヤジのヒーロー 鈴木修(スズキ会長兼社長)
*鈴木修(すずき・おさむ)。スズキ2代目社長の鈴木俊三氏の娘婿。銀行を退社して1958年にスズキに入社し、78年社長就任。軽自動車「アルト」(79 年発売)が大ヒットし、排ガス規制の対応に遅れて経営難に陥っていた同社を再建した。入社時に年商60億円を目指していた同社を、3兆円企業に飛躍させた。会社で一番好きな場所はトイレ。毎日40分、こもって書類や新聞を読む。1930年1月生まれ(写真=的野弘路)
未来への遺言ですか。僕にとっては「会社が潰れないように」。それだけだな(笑)。
でもね。今回話そうと思ったのは、やっぱり、僕の話がこれからの時代を担う皆さんの参考に少しでもなるのならと思ったからです。
僕が小さい時は、そういう指針がなかったんですよ。小学校の先生とか町長とかも、話すことは挙国一致とかそういうのだけだった。でも日本が負けてしばらくして、成人式に出た時、町長がこんな話をしたんです。
「私たちは戦争をやって、日本を焼け野原にしてしまった。だけど、自分は齢(よわい)60を超えて、もう復興を担う力はない。申し訳ないけれど、若い成人に達した皆さん方が頑張ってほしい」
この言葉が、人生のバックボーンになったことは確かですよ。
僕は、戦前、戦中、戦後、そして再建という、日本の縮図を経験してきた。その中で何を考えたかというと、「こんちきしょう」とか「やる気を出そう」とか、そういうことに尽きるわけです。 これまで本当に、「こんちきしょう」の連続だった。軽自動車を作ってきた中小企業のスズキにとっては、生命を絶たれる危機が絶えなかったから。文学的には「逆境の歴史」というのだろうけど、ようするに「軽ハラ」。セクハラ、パワハラ、マタハラと同じだよ。
軽自動車はもともと、敗戦後に「国民車」を作ろうっていう構想から生まれたんですよ。戦後10年にも満たない非常に貧しい時代、誰もが、どんなに小さくてもいいから、雨風をしのぐことができる乗り物が欲しかった。
でも経済が成長してくると、「軽自動車なんて国策に合わないからやめるべきだ」という声が出てきた。1972年には経済団体のトップが政府に提言したんですよ。軽は燃費が悪くて安全性も確保できない、耐用年数も短いから資源の無駄遣いだと。
それで、(ホンダ創業者の)本田宗一郎さんと一緒になって「ふざけるんじゃねえよ」と激怒したの。スズキは力がないから小型車に進出することはできなかっ た。さりとて、ぺしゃんこに潰されるのは嫌だから、「この野郎」という気持ちで挑戦し続けてきた。まあ、僕は(婿養子の)落下傘だったから、外からの軽ハ ラに加えて内からの「社内ハラ」も大変だったけど(笑)。
それでも今や、軽自動車が(日本の自動車市場でシェア)40%になった。結局、人生っちゅうのは「こんちきしょう」しかないんじゃないのかな。奇策じゃなしに、誰に何を言われようとも、自分の実力を過信せずに続けることだよ。
■人生には、分かれ道がいっぱいある
人生には、チャンスをつかむか逸するか、分かれ道がいっぱいある。机の上で評論していちゃダメで、やってみなさい、試してみなさいと。つまり、人間で一番大切なのは、「やる気」なんだ。
スズキのインド進出だってそうだった。実は82年に国民車構想を掲げるインドの調査団が日本に来た時、僕はGM(当時提携していた米ゼネラル・モーターズ)に呼び出されていて、調査団に会えそうになかったんだ。
でも、ちょっと朝早く家を出て、帝国ホテルに泊まっている調査団を訪ねたんです。ホテルで黒板を借りて、出国ぎりぎりまで話をした。それで帰国したら、一行が待っていた。「ミスタースズキの興味深い話を聞いたから」と言って。あの時、帝国ホテルに行かなかったら、インド進出はなかった。
2015年は戦後70年ですが、戦争の体験や不幸を後世に伝えるのは無理だと思うんですよ。学徒動員の時はシラミがいっぱいだったとか、芋しか食わなかったとか、今の若い人たちに言ってもダメだよ。時代の「常識」というのは常に変わっていくものでしょう。
だから、伝えたいのは、他人に迷惑をかけないとか、社会に貢献するとか、正しく生きる最低限のモラルを守りながら、「やる気」を発揮してほしいということだけ。極めて平凡だけど、これが若い人たちへの遺言かな。
「実験台として、100歳の私を使っていただきたい」 電子立国の父 佐々木正(シャープ元副社長)
*佐々木正(ささき・ただし)。台湾で高校まで過ごし、京都大学に進学。シャープ元副社長。トランジスタ電卓を日本で初めて開発し、半導体や液晶、太陽電池 などの技術開発を牽引した。アポロ宇宙船の半導体開発にも関わり、米研究者から「ロケットササキ」と親しまれる。ソフトバンク社長の孫正義氏を創業期に支 援した恩人でもある。現在は新共創産業技術支援機構(NPO法人)の理事長を務める。右ページの背景は本人自筆による「遺稿」。1915年5月生まれ(写 真=菅野勝男)
もう、これが最後と思って、遺言として皆様に伝えておきたいことをお話しします。
真空管の専門家だった私は戦争中、陸軍の登戸研究所で殺人光線の研究に動員されていました。大本営はマイクロウエーブを人間に向けて照射すれば兵器になると考えたんですね。実際、犬や猿の頭や肛門に寒暖計を刺して、どの温度まで上がったら死ぬかと実験していました。
終戦間際になって研究所は諏訪に移転しました。大本営からは早く実験を成功させろと急かされており、米国人の囚人を使った実験の計画まで用意されていました。終戦を迎えたのは、その実験をする直前でした。
実際に人体実験をしていたら、軍法会議にかけられていたかもしれません。玉音放送を聞いた時に真っ先に思ったことは、軍法会議にかけられないように、生き延びなければということでした。諏訪湖に実験設備を捨てて逃げたことを覚えています。
軍法会議を免れた私は、その後、半導体の研究に身を投じました。ノーベル賞を受賞したことでも知られるベル研究所(米国)のジョン・バーディーンら3人と は、同じ分野の研究者として終戦前から文通していましてね。終戦後、アメリカで再会した時、戦争中にどんな研究をしていたのかといった思い出話をしている と、バーディーンは「不思議な石を見つけた」と言います。これが後に世界最初のトランジスタに使われるゲルマニウムでした。
それは面白いな、我々もやらないかんと、検討が始まりました。当時、私が働いていた神戸工業(現富士通テン)には、後にノーベル賞を受賞する江崎玲於奈くんもいて、神戸工業は日本で最初にトランジスタを生産した会社となりました。
その後シャープに転職し、新たなMOS(金属酸化膜半導体)と呼ばれる半導体を設計しました。MOSの特徴は、大幅な小型化が可能なことです。
ただ、日本メーカーに製造をお願いしても、歩留まりが不安定だと言ってどこも見向きもしてくれない。そこで米国に渡って協力メーカーを探しましたが、米国でも理解されない。辞表を出すことを覚悟して帰国の飛行機に乗ろうとした時、空港の館内放送で私の名前が呼ばれたんです。
一度は私の提案を断ったロックウェルの社長が、土壇場で考え直してくれた。シャープが1964年に発売した世界初のトランジスタ電卓は、このロックウェルが生産したLSI(大規模集積回路)を使ったものです。
ロックウェルは当時、アポロ宇宙船のコンピューターを開発していました。宇宙船の安全性を向上するには2人乗りにすることが必要で、船内のスペースを確保するためにLSIの小型化が不可欠でした。月着陸船の第1号は、我々が協力してできたんですよ。
後にロックウェルとの共同開発は日本で波紋を広げました。日本は国策で半導体産業を育成しようとしており、アメリカ企業と手を組んだ私は、一時、国賊とも呼ばれてしまいました。
■「地球生命を考え、地球を救う会」を作ろうと思っています
振り返れば私は、真空管、半導体、液晶、太陽電池と、一貫して「エレクトロン(電子)」の世界に身を置いてきました。幸いにも、こうして数えで100歳まで生きてこられたわけですが、死ぬまでにこれまで生かしてくれた恩に報いたいと思っています。
それは、老化の原因である細胞の「酸化」を食い止める「還元」の技術を確立するための活動を支援することです。酸化という現象は、細胞の外に「電子」が出 てしまうことで起こります。それなら、「電子」を再び細胞の中に入れることができれば、酸化の進行は止めることが理論上はできるはずです。
今、地球上では2万種以上の生物が「絶滅危惧種」に分類されているといいます。太陽系の惑星で唯一、生物がいる地球はこの先どうなるのか。そこで生きている人間はどうなるのか。私たちの子孫はどうなるのか。この大問題を解いていかなければなりません。
生命の寿命を延ばす可能性を秘める還元の技術は、その解の一つになるのではないでしょうか。その技術を使えば、人間は130歳、140歳まで寿命を延ばせるのではないかと思っています。その実験台として、100歳の私を使っていただきたい。
生命が生き延びる「場」さえ維持できれば、そこで世の中を良くするイノベーションは必ず生まれます。私が台湾にいた学生時代、不可能と思われた北国のリンゴと南国のマンゴーの接ぎ木に成功し、リンゴマンゴーという新種を生み出しました。それと同じように、多様性のある場があれば、そこで異質の才能がぶつか り合う「共創」によるイノベーションを起こすことができる。
私は残された時間を使って、「地球生命を考え、地球を救う会」を作ろうと思っています。そして、皆さんの奮起とその成果を期待しつつ、この世を去っていきたい。
「日本は、リッチではあるけど幸せがなくなっちゃった」 森の時間を描く脚本家 倉本聰
*倉本聰(くらもと・そう)。脚本家、劇作家、演出家、愛煙家。1959年ニッポン放送に入社し、脚本家デビュー。63年に独立し、77年に北海道・富良野 に移住。その後は、富良野を舞台にした家族ドラマ「北の国から」など、多数の作品を手がける。俳優や脚本家を養成する私塾「富良野塾」を主宰。2015年 1月から新作「ノクターン─夜想曲」を公演。自然を感じるため最近はローソクの灯りで風呂に入る。1935年1月生まれ(写真=千倉志野)
富良野に移住したのは1977年のこと。豊かさに対する不安があったからです。ちょうどバブルが始まる頃で、テレビの仕事をしていたかな。生活が豊かになるのはうれしいけど、こんなに豊かになっちゃっていいんだろうかという不安感がすごくあってね。
戦争を通して貧しい思いもしたから、戦後、日本が多少豊かになった頃は良かったと思いましたよ。60〜70年くらいかな。その頃が一番、精神的にも物質的にも満たされていた。
「豊か」という言葉を辞書で引くと「リッチにして幸せなこと」とある。幸せというのは今に満ち足りていることです。日本は、リッチではあるけど幸せがなくなっちゃった。
今くらい豊かになっても、経済界では常に右肩上がりを求めるでしょ。だけど、我々は物を食って生きている。IT(情報技術)とか金融で飯は作れません。食 べ物というのは全部自然から作られる。そして自然界に右肩上がりのものはないんです。それなのに世の中の人たちは、もっと良くしろと年がら年中言ってい る。
■前年比一辺倒から離れること。そこに本当の豊かさがある
僕はね、前年比という言葉が分からないんです。みんな前年より伸びないとダメと言うけど、前年と同じでいいじゃない。今の日本の「前年比感覚」は、自然と矛盾している気がするんですよ。
2015年1月から公演する舞台「ノクターン─夜想曲」で描いたのは、原発に巻き込まれた人々の悲劇です。前年以上の成長を求めて日本は原発を造った。そして庶民が事故に巻き込まれた。
今回の作品に出てくる夜ノ森という町を訪れたんですね。桜の名所でね。今は入れないけれど、人家は全部残っている。中をのぞくと、新しい家にベビー用品が あったりする。この家は最近子供ができたんだ、新築だから夫婦が夢を語って建てたんだろうなと。空想力を働かせれば、その家に住めない悲しみが分かるで しょう。成長ばかり追い求めた揚げ句、庶民のささやかな幸せが壊された。
前年比一辺倒から離れること。そこに本当の豊かさがあるはずです。 ≫(日経ビジネス編集部) [日経ビジネス 2014年12月29日号の記事を基に再構成]
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