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橋下徹氏との合流が「終わりの始まり」だったか photo Getty Images
さようなら石原慎太郎! 抜群の発信力だった人気者は都政と国政に何を残したのか
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2014年12月18日(木) 伊藤 博敏「ニュースの深層」 現代ビジネス
■引退した石原慎太郎氏が都政と国政に残したもの
石原慎太郎氏が政界を引退した。
日本維新の会で共同代表を務めた橋下徹大阪市長は、14日の総選挙後、「本当にお疲れさまの一言に尽きますね。僕が逆立ちしてもかなわない」と、石原氏の50年近い政治家生活をねぎらった。
確かに、物議をかもす発言は多かったものの、情報発信力と存在感は抜群で、人気も高かった。
しかし、2007年4月、東京都知事選で3選を果たしてからは、「石原都政」の継承に失敗。衆院に転じてからは、2度、脳梗塞に倒れたこともあって、肉体的な衰えは隠せず、「引退するけど出馬」という“禁じ手”を使った今回の衆院選で、最高顧問を務める次世代の党は、19議席を2議席に減らすという大敗北を喫した。
政界デビューは、芥川賞作家として、また「石原裕次郎の兄」として高い人気を利用、68年、参院全国区に出馬、史上初の300万票を獲得してトップ当選した。
95年、一度は政界を引退するものの、99年、東京都知事として復帰するなど、石原氏の経歴は、曲折はあっても華に満ちているが、晩年は、衰え、失政を重ねたと言わざるを得ない。
振り返れば、それは11年4月、4選出馬を決意したあたりから顕著となった。
この時点で78歳と高齢の石原氏は、一度は、4選見送りと、松沢成文元神奈川県知事に後を託すことを決めていた。
石原氏が、都知事1期目にぶち上げた東京都が中心になり、神奈川県、埼玉県、千葉県の1都3県で巨大な行政組織を作り、国に対抗しようという「首都圏メガロポリス」の賛同者。石原氏は、元秘書でヨット仲間の今岡又彦氏を、神奈川県特別秘書に送り込むほど松沢氏を買っていた。
当時、石原都政は、築地市場の移転が道半ばで、新銀行東京が赤字続き。しかも、「視察名目の豪華海外旅行」「芸術家である4男・延啓氏の重用」など、解決すべき問題があり、退任するにせよ、自分の意を受け継ぐ「石原後継」が必要だった。
それが、松下政経塾出身、神奈川県議、衆院議員、神奈川県知事を歴任し、万事、ソツのない松沢氏だった。だが、石原氏は、松沢氏の人気のなさに唖然とする。世論調査で、対立候補と目されていた東国原英夫前宮崎県知事に大差をつけられていた。
■長男の立場を守り、3男の国政復帰のために
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3選時、三男・宏高氏と喜ぶ photo Getty Images
石原都政の継承は、自民党利権の継承でもあり、当時、自民党幹事長を務めていた長男・伸晃氏は、「松沢では勝てない」と、石原氏に出馬を促していた。
勝てると踏んで松沢氏に託そうとしたが、負けるのでは話にならない。
長男の立場だけでなく、都政から石原色が完全に消えたのでは、当時、落選中だった3男・宏高氏の当選も危うい。
そんなもろもろを勘案して、石原氏は4選出馬に踏み切り、ハシゴを外された松沢氏は、出馬取り消しを表明。石原氏は262万票を獲得、東国原氏らを破って当選した。
しかし、都政への関心は既に失われており、新党結成に意欲を燃やす。12年10月、副知事の猪瀬直樹氏に後を託して退任。松沢氏の時と違って、猪瀬氏には対抗馬がなく、世論調査は圧倒的な人気。同年12月の都知事選で434万票を集めて大勝した。
石原都政は継承され、築地移転に踏み切り、東京オリンピックの招致に成功、お台場カジノ構想が動き出すなど順調だった。だが、猪瀬氏が、医療法人・徳洲会から5000万円を受理していたことが判明。辞任を余儀なくされた。後任は舛添要一氏。「東京オリンピックに集中するため」と、舛添都知事はお台場カジノに消極的で、早くも石原色は消されつつある。
一方、新党はどうなったか。
石原氏は、知事時代から、盟友の平沼赳夫氏らが興したたちあがれ日本に関与、「応援団長」を自認していたが、都知事退任後の12年11月13日、たちあがれ日本を解消する形で太陽の党を結成する。その直後、日本維新の会に合流、橋下氏とともに共同代表に就いた。
日本維新の会は、「橋下人気」もあって、12年12月の総選挙でブームを巻き起こし、第三極の中心に位置する存在となった。
■19議席が2議席に、息子たちは安泰
しかし、石原氏の自主憲法制定、原子力推進と言った基本理念についていけない勢力が党内には多く、結局、1年半後の13年6月、日本維新の会は分党を決め、石原、平沼の両氏らは、次世代の党を立ち上げた。党首となったのは平沼氏で、石原氏は最高顧問に就任した。
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13年8月15日には、靖国神社参拝 photo Getty Images
分党の際、石原氏らは「自立」「新保守」「次世代」をキーワードとしたが、そこから生まれる基本理念と政策は、憲法改正にせよ集団的自衛権にせよ、安倍首相率いる自民党に近く、独自色を打ち出せなかった。
しかも、中核を担ったのは、副党首の松沢成文氏、幹事長の山田宏氏、国会対策委員長の中田宏氏ら50代の松下政経塾出身の政治家だが、政党を渡り歩いた彼らには、節操のなさが目立ち、清新さもない。
梯子を外され“恥”をかいた松沢氏が、石原氏に今も付き従っていることに、首を傾げる有権者は少なくない。
その結果、19議席を2議席に減らす大惨敗。石原氏は、選挙期間中に引退を表明するなど有権者の投票意欲を減じさせる信じられないミスを犯している。
大惨敗に責任のある山田幹事長は、元杉並区長なのでそこから出馬すればいいものを、杉並の東京8区は伸晃氏の地盤。それに遠慮して出馬した19区では第4位の泡沫候補扱いだった。
結局、2011年以降、石原氏が行ったのは、幹事長である伸晃氏への配慮であり、宏高氏への側面支援であり、延啓氏の風除けになることではなかったか。
石原後継に失敗、次世代の党が壊滅的状況となった今、石原氏の最後に成し得た仕事が石原ファミリーの“安堵”だとしたら、晩節は褒められたものではなかった。
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