01. 2014年12月16日 07:54:14
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日本経済の幻想と真実 [日本経済の幻想と真実] 小沢一郎氏の失われた20年 「小さな政府」への限りなく遠い道 2014年12月16日(Tue) 池田 信夫 1993年6月18日、宮沢内閣の不信任案が可決された瞬間を、私はNHKの中継車で中継していた。直前まで自民党が分裂するとは誰も思わなかったが、小沢一郎氏のグループは不信任案に賛成し、議場から大きな拍手が起こった。歴史の歯車が回る音が聞こえたような気がした。 それから21年がたった。きのう開票された総選挙の結果では、小沢氏は生活の党という弱小政党の党首として辛うじて当選したが、話題にもならない。かつて歴史を動かした彼の挫折の軌跡は、そのまま日本の政治の「失われた20年」と重なる。 グランドキャニオンの柵 小沢氏は1991年、海部首相が辞任したとき、後継首相に党内で一致して推されたのを断った。当時49歳で党内の実権を握り、まだ何度でもチャンスはあると思ったのだろう。彼の持論は、自民党の福田派と田中派の流れが二大政党として政権交代を実現する保守二党論だった。 彼は政治改革で主導権をとり、中選挙区制に固執する左派を追い出すつもりだったが、竹下派内の権力闘争に敗れた。しかしこれをきっかけに自民党を離党し、「政治改革」をとなえて細川内閣をつくり、念願の小選挙区制を実現した。 ここまでは小沢氏のギャンブルは大成功で、彼の著書『日本改造計画』は、サッチャー・レーガン以来の「保守革命」を受け継ぐものとしてベストセラーになった。その序文に、彼はグランドキャニオンを訪れたときの印象をこう書いている。 国立公園の観光地で、多くの人々が訪れるにもかかわらず、転落を防ぐ柵が見当たらないのである。もし日本の観光地がこのような状態で、事故が起きたとしたら、どうなるだろうか。おそらく、その観光地の管理責任者は、新聞やテレビで轟々たる非難を浴びるだろう。 政府や企業に頼らないで「自己責任」で生きるという彼の政治哲学は、自民党政権の崩壊後の日本のビジョンとして鮮烈な印象を与えた。それはバブルが崩壊して公共事業の財源が尽きた90年代に、英米のあとを受けて日本も小さな政府に舵を切る宣言だった。 自民党が汚れ役を引き受け、社会党がきれいごとを言って責任をとらない55年体制は「出来レース」だと小沢氏は批判し、日本は憲法を改正して「普通の国」になるべきだと主張した。英エコノミスト誌は彼の論文を掲載して「日本にわれわれの理解可能な指導者が初めて登場した」と賞賛した。 保守二党論の信念 しかし細川内閣は、10カ月足らずの短命政権に終わった。これが小沢氏の挫折の始まりだった。このとき彼は渡辺美智雄グループを自民党から引き抜こうとしたが失敗し、羽田内閣の崩壊後、村山内閣で自民党の復権を許してしまった。海部俊樹氏を党首に担ぎ出して自民党を分裂させようとした奇策が、自社さ連立という奇策に裏をかかれたのだ。 最大の失敗は、1997年末に突然、新進党を解党したことだ。このときも小沢氏は、亀井静香氏や梶山静六氏などと保保連合(自民党と旧新進党の連立構想)を画策した。しかしそれが党内に亀裂を生んでミニ政党が次々に新進党から離れ、公明も「公明党」に戻ることを決めたため、保守勢力を「純化」しようと自由党を結成したが、結果的には小沢氏についてきたのはわずか54人だった。 そこで彼は1999年に、「自自連立」(自民党と自由党の連立)を仕掛けた。このときは前年の参院選で自民党が過半数を割り、「ねじれ国会」になったため、かつての仇敵、野中広務氏と手を結んで自民党と連立を組んだが、自民党を割ろうという小沢氏の狙いは実現せず、逆に公明党を呼び込んで与党の絶対多数を回復してしまった。 そして2003年に自由党は民主党に合流し、その代表になったが、政権を目前にして政治資金規正法にからんで辞任を余儀なくされた。その後はまた民主党内で派閥抗争を繰り返し、党を出て「国民の生活が第一」という新党をつくったが、今度はもう話題にもならないミニ政党だった。 このように小沢氏の軌跡をたどってみると、90年代までは一貫して右派だったことが分かる。自民党の打倒を唱えながら保保連立を画策する彼の矛盾した行動の背景には、自民党が分裂しない限り安定した二大政党はできないという信念があった。 それはそれなりに筋の通った政治理念なのだが、彼はそれをいつも側近で固めて裏取引で合従連衡する奇策で実現しようとし、その独善的な体質が反発を招いて、失敗を重ねてきた。それでも自由党のころまでは「ぶれない政治家」として一定の支持があったが、民主党に合流してからはその一貫性も失った。 それでも「小さな政府」は必要だ 私が民主党代表だった小沢氏にインタビューしたとき、「グランドキャニオンの考えは今でも同じですか」ときいたら、彼は即座に「まったく変わっていない」と答えたが、その政策は(かつて彼が否定した)バラマキ福祉だった。 実際には『日本改造計画』の中で小沢氏の書いたのは序文だけで、内容は大蔵省の課長が編集長となり、竹中平蔵氏や伊藤元重氏などが書いていた。そこに書かれた「小さな政府」を求める政策は、当時の経済学者のコンセンサスに近く、消費税を10%に引き上げると書かれていたのだ。 かつては右派だった小沢氏が迷走したあげく左派になってしまったのは、小泉政権の後である。90年代に彼の掲げていた政策は小泉首相が実現し、彼の勉強会のメンバーだった竹中氏は、小泉政権の経済政策を実質的に決めた。「小さな政府」は、もはや自民党と闘うスローガンにはならないと思ったのだろう。 小沢氏にとっては権力を取ることが目的で、政策はその手段だった。90年代には「新自由主義」がはやったので流行に乗ったが、それは身についていなかったのかもしれない。利権の分配で政治資金を蓄える小沢氏の政治手法は「小さな政府」とは対極にある。 しかし小沢氏が20年前に提起した問題は、当時より重要になっている。1000兆円を超える政府債務は、将来世代の重い負担になるだけでなく、金利上昇の圧力になり、それを防ごうとする日銀の金融抑圧(ゼロ金利とインフレ政策)が金融市場を麻痺させている。あと10年のうちに、財政が破綻することは避けられないだろう。 それなのに安倍首相は、財政再建の見通しもないまま増税を先送りし、バラマキ財政と量的緩和の「大きな政府」で、長期政権をめざしている。これはかつて小沢氏が嫌悪した社会党的な「甘え」が、与党にも浸透したことを示している。 72歳になった小沢氏には、もう失うものはないだろう。政治的には敗北しても、90年代に彼の掲げた理想が正しかったことは歴史に残る。今こそ「小さな政府」の初心に戻り、際限なく膨張する政府に歯止めをかける警告を発してはどうだろうか。 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42464
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