02. 2014年12月09日 06:53:46
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相川俊英の地方自治“腰砕け”通信記 【第121回】 2014年12月9日 相川俊英 [ジャーナリスト] 全国一の高齢化率だって悲惨とは限らない! 豪雪にもめげず花卉栽培で活気づく南牧村の秘密 大雪で自治体全体が一時孤立 意外と強かった過疎の村の底力 日本列島はこのところ、様々な自然災害の直撃を受けている。師走に入ってからは、北日本から西日本にかけて大雪の被害が発生している。 徳島県の山間部では倒木などで道路が寸断され、孤立状態となる集落が続出した。停電となったところも多く、1人暮らしのお年寄りの安否が心配されている。中山間地域では過疎化と高齢化の進行もあって、災害時に孤立化する集落が生まれるようになってしまった。 関東地方を襲った今年2月の大雪でも、孤立状態となった集落が相次いだ。なかには自治体全体が一時、孤立してしまったところさえあった。日本一の高齢化率を記録する群馬県南牧村だ。「日本創成会議」に2040年時点での消滅可能性が最も高い自治体と名指しされた村である。 南牧村の人口は2233人(2014年10月末)で、このうち65歳以上は1302人。高齢化率は58.31%にのぼる。一人暮らしの高齢者は村内に300人ほどいて、高齢者夫婦だけの世帯も約400を数える。なんと村の全世帯の約6割が高齢者のみで暮らしているのである。 そんな南牧村が2014年2月、記録的な大雪に見舞われた。積雪は110センチにも達し、村と近隣自治体を結ぶ唯一の幹線道路(県道)が通行不能になってしまった。そこに停電も加わり、南牧村全体が孤立してしまったのである。 復旧作業が懸命に行われたが、地区によっては除雪がままならず、孤立状態が数日間に及んだところもあった。一人暮らしのお年寄りも多く、その安否が心配された。残念なことに車の中で眠ってしまった方がお1人、亡くなられたが、孤立化による大きな被害は免れた。 お年寄りの多くが自分の畑で野菜などをつくっており、保存していた食料などを食べていたのである。まきや灯油なども備蓄しており、しかも古い家はどこも頑丈だった。 また、隣近所の助け合いも大きな支えとなったという。普段からの共助と自給自足的な生活が、非常時に強みを発揮したのである。80歳代のある女性は「1週間や2週間、閉じ込められても死にはしない」と、笑いながら応えたという。大雪に困り果てたのは、村の若い勤め人たちだった。 「うちの地区では80歳代でも働き盛りです。皆さん、年齢などすっかり忘れています。これほど元気な高齢者ばかりの村なんてないと思いますよ」 こう語るのは、南牧村に住む伊藤新一さん、73歳だ。伊藤さんは1992年に夫婦で埼玉県から南牧村に転居してきた。いわば、移住者の先駆け的な存在だ。現在は村内で5000坪ほどの農園を営み、ブルーベリーやズッキ―ニ、花卉などを栽培している。 地元の人の話によると、伊藤さんは面倒見の良い人で、地域のお年寄りの買い出しや通院などに手を差し伸べているという。地域にしっかり溶け込んでおり、移住して10年ほどで地区の区長を務めた。現在は村の農業委員に就任しており、農業を志して南牧村に移住してきた若者らの相談役でもある。 高齢化率だけで悲惨だと決めつけるな 村人がむしろ生き生きと暮らしている理由 伊藤さんは、マスコミの南牧村の取り上げ方に納得いかないという。高齢化率などの数値だけを見て、一方的に悲惨な村だと決めつけているというのである。そうしたおざなりの報道ではなく、南牧村の住民の日常生活をしっかり見た上で報じてほしいと訴える。村人たちは困窮しているわけではなく、むしろ生き生きと明るく生活していると力説するのだった。 伊藤さんは自分が栽培したブルーベリーやズッキーニ、野菜や花卉などを市場に出荷せず、スーパーや直売所などで販売している。そんな伊藤さんは「南牧村の農業には可能性があります。大規模、高収入の農業はムリですが、大規模農家以上に生活は安定し、豊かに暮らせます」と力説する。実績に裏打ちされた話なので、説得力がある。 南牧村は昼と夜の寒暖の差が大きいため、害虫の被害が少ないそうだ。また、斜面の狭い畑なので、逆に効率よくできるという。大規模農業は機材などにコストがかかり、労働時間も長くなってしまうが、南牧村のような斜面の狭い畑での小規模農業は、かえって効率よくできるという。 「南牧村では借金をせずに自分の体力に合った規模の農業に徹すれば、生き生きとした生活が年齢にかかわらず送ることができる」と、伊藤さんは明言する。そして、重要なのはどこの農家も作るようなものには手を出さず、誰もやっていないような作物を栽培することだと、秘訣を明かす。 「何が地域活性化なのかといえば、生産が収入に結びつくことです。多寡を問わず、カネになることです。私たちは外貨を稼いでいます。やる気さえあれば、南牧のものでカネになるものはたくさんあるはずです」 こう指摘するのは、南牧村で花卉栽培をしている石井清さんだ。石井さんは1977年に結成された南牧村の「南牧花卉生産組合」(組合員15名)の前組合長で、発足時からその屋台骨を支えてきた地元の専業農家。現在、63歳である。 蒟蒻栽培全盛のなか花卉栽培に着手 産地消滅の危機に救世主が現れる 石井さんは、1970年代後半から花卉栽培を始めた。当時、南牧村の農業と言えば何と言っても蒟蒻だった。花づくりに取り組む農家は少なく、石井さんは周囲の人から「農業高校を出て花をつくっているのか」と半分バカにされたという。それでも、仲間を募って菊の栽培を手掛けた。花卉生産組合の発足当初のメンバーは、27人だった。 ところが菊の栽培は難しく、四苦八苦するはめになった。高齢化や離農も加わり、仲間が1人また1人といなくなっていった。十数年が経過すると、とうとう4人にまで減少してしまった。このままでは産地消滅だと石井さんは危機感を募らせ、仲間集めに奔走した。 しかし、菊づくりのハードルが高いように受けとめられていて、尻込みする人ばかりだった。そんなときに移住者の伊藤さんがメンバーに加わった。石井さんらが直接、「この人ならば」と声をかけたのである。 ちょうどそんな時期だった。消滅寸前となっていた南牧村の花卉栽培に救世主が現れた。群馬県から、ヒぺリカムという品種の栽培を勧められたのである。オトギリソウの仲間で、極めて珍しい品種だった。 半信半疑でヒペリカムを栽培してみたところ、これが大正解だった。南牧村の気候や土壌が合ったのか順調に育ち、日本で初めての市場出荷にこぎつけたのである。珍しい品種とあって市場性が高く、南牧村はあっという間にヒぺリカムの産地として知られるようになった。 このヒペリカムが突破口となった。花卉農家の意識が菊以外にも向くようになり、アジサイやヒメヒマワリ、クジャクアスタ、ワレモコウ、アロニア、ハーブ、リシマキア、南天、菊など、50品種を出荷するまでになった。活気づく花卉農家の姿を見て、「これなら自分にもできる」と新規参入が続き、花卉生産組合メンバーは15人にまで増加したのである。 石井さんは「最初は私が面倒みていましたが、たくさん来るようになってそれもできなくなりました。それで得意分野を持った人に新しい人を教えてもらうようにしました。教える側に回ると、自分も成長しますし、教えを請われると悪い気はしないものです」と語る。 花の品種ごとに師匠と弟子のような関係が生まれているという。もっとも、弟子の方が腕を上げて師匠をいつの間にか追い越すというケースも少なくないそうだ。 花の栽培に適しており力仕事もない 高齢者が集まり生き生きと働く村 南牧村の花卉農家には、いくつかの共通点があるという。1つは、露地栽培を中心としていることだ。初期投資を少なくし、低コストでの栽培に徹しているのである。 2つめは、高齢になってから組合に加入する人が多いという点だ。年金プラスアルファの収入を得ることを目的としており、仕事を楽しんでいる人が多いという。3つめが、みんな元気で明るいという点だという。 実際、花卉生産組合のメンバー15人のうち、13人が年金受給者である。年齢構成を見ると、40代が1人、60代が3人、70代が10人、80代が1人となっている。70代が主力で、最年長齢は85歳だという。定年退職後の70歳で組合に加入した小林正一さんである。 高齢になってから花づくりを始めた小林さんは、「今やヒペリカムの栽培ではトップクラスだ」と師匠の石井さんは言う。どうやら師匠を追い抜いてしまったようだ。 ではなぜ、南牧村で花栽培をするお年寄りが元気いっぱいなのだろうか。冬の日照時間が短く、寒暖の差が大きい南牧は、花の栽培に適していると言われている。花の色の鮮やかさが違うのである。狭い傾斜地を上り下りしながらの作業となる。それでも花は軽いので、高齢者にも扱える。細かな作業が中心で、外で長時間わたって力仕事をするというわけでもない。 同じ花でも市場によって値は変わる 稼ぎは自分の腕次第というやり甲斐 こうした事情だけではなく、さらに重要な要素があるようだ。石井さんは笑いながらこんなことを言っていた。「花というのは、博打草なんです」。 南牧村の花卉農家は、川崎北部市場など6つの市場に50品種もの花を出荷している。どの花をどの市場にどれくらい出荷するかは、各自の判断である。コメのように農協に出荷して、それでお仕舞いというものではない。 それぞれの市場によって仕入れる花屋の特質やエリアは異なり、二―ズの高い花の種類も均一ではない。同じ花を出荷しても、市場によって値は大きく変わる。いつどこに何の花をどれだけ出荷するかで、実入りが大きく上下するのである。それらを全て自分で判断し、選択しなければならない。まさに自己責任である。稼ぎは自分の創意工夫や腕次第となっているのである。 南牧花卉生産組合の石井清・前組合長は、「村の活性化ということで自分たちの持ち出しでイベントをやっても、負担になってしまって長続きしません。でも、自分がつくったものが東京などで売れてカネになると、目つきが変わります」と語る。 やり甲斐があってしかも外貨をしっかり稼げることが、花卉栽培に取り組む高齢者の元気の源となっているようだ。一人ひとりの住民が活性化して初めて、村や町、地域の活性化といえるのではないだろうか。 http://diamond.jp/articles/-/63370 |