03. 2014年11月28日 06:50:27
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「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明」 文章は世の中を動かせない 2014年11月28日(金) 小田嶋 隆 今週のはじめ、奇妙なメッセージがインターネットの掲示板やSNSを通じて拡散された。
既にお聞き及びの読者もおられるだろうが、事態の推移を簡単に振り返っておく(参考記事はこちら)。 1:「小学校4年生の中村」を名乗る人物が、「どうして解散するんですか?」という名前のウェブサイトを開設した。 2:サイト開設者の「小学4年生・中村」は、サイトへの協力を要請する旨をネット上の著名人や野党関係者のツイッターアカウントに向けて発信しはじめる。 3:民主党のマスコットキャラクター「民主くん」が「天才少年現る」と紹介するなどして、次第に波紋が広がる。 4:その一方で、ネット上では、ウェブサイトの構造の高度さや言葉づかいなどから、小学校4年生の仕事であることを疑う声が高まる。 5:疑問の声の殺到やネット上の検証の結果を受けて、サイト開設者が謝罪に追い込まれる。本人が20歳の大学生であり、小学4年生であるという設定がウソであったことを告白して一段落。 ごらんの通り、バカな話だ。 インターネットの内部では、この事件の反響がいまだにくすぶっている。 事件を問題視する人々の一部は、件のサイトのドメインが、「犯行」を告白した大学生の個人名義でなく、彼自身が主宰するNPO法人の名義で取得されていたことなどを理由に、本件が安倍政権ならびに自民党を誹謗中傷する目的の「工作」であると見なして、いまなお追及の手をゆるめていない。 安倍首相ご本人も、自身のフェイスブック上で、サイトを開設したNPO法人とその代表である大学生を 「批判されにくい子供になりすます最も卑劣な行為だと思います」 と論難している。 本稿では、話題のサイト「どうして解散するんですか?」が、政治的な意味での「陰謀」ないしは「工作」であったのかどうかについて議論をするつもりはない。 安倍首相が、ウェブサイトを開設したNPO法人の代表者である大学生を直接に名指し(NPO法人名を挙げて)で批判したことが「行き過ぎ」であるのかどうかに関しても、あえて踏み込まない。読者の判断に委ねる。 というよりも、私は、この問題について、現在たたかわされている議論にうんざりしている。 11月25日に投稿したツイッターの中で、私は、 《例の小4なりすまし案件って、実行犯の側に擁護したくなるポイントがまるでないにもかかわらず、責め立ててる連中の言い草にも、賛同できる要素がほとんどない珍しいケースだと思う。》 《あの小4なりすましの学生たちって、オレが一番きらいなタイプの若いヤツなんだけど、その彼らを血祭りにあげてはしゃいでる連中も、これまたオレの一番嫌いなタイプのネット民だったりするわけで、なんというのか、インターネットの砂漠化を感じるきょうこのごろであることだよ。》 と、以上、二つの見解を述べた。 現在でも、この気持は変わっていない。 当件は、既に汚物の投げ合いの段階に移行している。 そんな汚れたリングに、いまさら乱入しようとは思わない。 サイト開設に関わった若者たちに対しては、 「民主党の工作員」 「反日分子」 「在日」 「中国人」 「サヨク」 といった言葉が使われてはじめている。 デマを流した人間に向けてデマが浴びせられている格好だ。 なりすましサイト開設に関わった人々が擁護できないのは当然なのだとして、彼らがいわれのない中傷を浴びているのもまた事実で、要するに、この事件は、失敗した稚拙なプロパガンダが、反対側の意図を持った別建てのプロパガンダに利用されるカタチで拡大しつつある。 もはや、語るに落ちる言論廃棄物だ。 よって、本稿では、事件の背景を掘り進めたり、陰謀を抉り出したり、深層に切り込むことはしない。 どうせそんなものはありゃしないからだ。 私は、あくまでも事件の第一印象について考えたいと思っている。 つまり、 「この若い人たちは、いったいどこまで世間を舐めているのだろうか」 と最初に当該のページを覗いた時に抱いた印象を、自分なりに分析してみたいということだ。 サイトを開設した大学生は、ネットの世界ではちょっとした有名人で、「青木大和」という本人の名前を検索するといくつかのインタビューや記事がひっかかってくる。 上記のソースを総合すると、青木大和氏のプロフィールは 1:15歳の時にアメリカに留学し 2:高校時代に「僕らの一歩が日本を変える。」というグループ(NPO法人)を立ち上げ、 3:「高校生×国会議員」というイベントをはじめている。でもって、 4:AO入試で慶応大学法学部に入学し、現在20歳。 5:将来の夢は国会議員。 といったあたりに集約される。 今風の言い方で言えば、「意識の高い」若者ということになるだろうか。 その青木君が事態の進展を受けて発表した謝罪文は以下の通り。 で、この謝罪文が出てしばらくすると、なぜなのか、青木大和氏のAO入試を支援した「AO義塾」なる私塾の代表の謝罪文が出てくる。 私は、この二つの謝罪文を読んで、毒気を抜かれたというのか、すっかりあきれ返ってしまった。 文章の出来不出来について言うなら、いずれも、20歳前後の若者が書いた文章としては、よく書けていると言うべきなのかもしれない。 主題ははっきりしているし、論旨もそれなりに通っている。 ただ、文章以前の問題が行間に漏れ出ている。それが非常によろしくない。 文章は、コミュニケーションの手段に過ぎない。 ついでに言えば、瑣末な技巧でもある。 文章がその力を発揮できるのは、文章の内部の世界で起こっている出来事に対してだけだ。 つまり、文章は、基本的に、句読点の外で起こっていることに関与できないのだ。 ところが、この青年たちは、どうやら文章で他人を動かせると判断している。 言葉の力で世界に影響を与え、人々の心を変化させ、事態をコントロールできると考えている。 その全能感のようなものが、文章の端々にあらわれていて、私には、その点が、読んでいて不快だったわけなのである。 そもそも、相手から姿が見えないネット上であれば、小学校4年生になりすますことが可能だと考えたこと自体が、彼らの全能感の端的なあらわれと言わなければならない。 普通に考えれば、そんなこと(20歳の男が10歳の男児の言葉を使いおおせること)は、不可能だ。 いや、ここは、百歩譲って、児童心理と小学生事情に通暁した天才的な言語運営能者なら、誰が読んでも小学校4年生に見える話し方で、大人たちを煙に巻くことができるということにしても良い。 だとしても、そんなことをして何になるというのだ? おそらく、若者は、 「小学校4年生として発言した方が、より効果的だ」 と考えたのだと思う。 小学校4年生なら、政治的な偏向を疑われることもないだろうし、様々な欠点について、大目に見てもらえる。それに、凡庸な言葉でも、子供の無垢な観察という色眼鏡で評価してもらえれば、点が甘くなるはずだ、と。 彼らは、「世間」がバカで、騙しやすく、子供に点の甘い、読解力の低い人々で構成されていると考えた。 しかも、「事実を語る」ことよりも、「効果的に語る」ことの方が重要だとする人生観を抱いていた。 そういうふうにして、彼らは、小学生になりすますプランを実行に移した。 世界をだましてやろうと考えたわけだ。 この全能感は、言ってみれば、オレオレ詐欺の犯行グループの世界観とそんなに変わらない。 それほど、彼らにとって、「世間」は、チョロく見えていた。 なるほど。 興味深いのは、この話の中に登場する20歳前後の若者たちが、「若者」というタグを利用して自分たちの地歩を固めつつある若者であった点だ。 ありていに言えば、彼らは、「20歳の若者だから」「外国帰りの高校生だから」「トップエリート校からスピンアウトした若者だから」という理由で、ある種のメディアに重用されていたヤングスターだった。 メディアは、昔から、そういうことをする。 「女性枠」「外国人枠」「若者枠」といった、いわくつきの座席を用意して、その座席に人間をはめ込むカタチのキャスティングで、コンテンツをツクリにかかるのだ。 結果として、メディアのショーウィンドウには、本人の言説や実力とは別の、出自から来る「下駄」を履いた顔ぶれが並ぶことになる。 故竹下登氏は、さる世襲議員を評して 「あれは、竹馬に乗った人間だわな」 と言ったのだそうだが、政界に限らず、マスメディアにも竹馬に乗った人間はたくさんいる。 その中でも「若さ」は、使い捨ての竹馬として、常に重宝されている。 そして、竹馬に乗った人間は、いつしか世界を低く見るようになる。 以上の状況を勘案すれば、スーパー高校生あるいは新時代の20歳として重用されてきた彼らが、10歳というさらにおいしい年齢でのアピールを考えたのは、むしろ当然のなりゆきだったのかもしれない。 青木大和氏は、その謝罪文の中で、虚偽の情報発信でネット世界の信用を毀損しておきながら、 《でも僕は、これだけの方が目にしてくださった今回の問い「#どうして解散するんですか?」を、いま一度日本について考え直す機会に出来ないだろうかと思っています。》 と言っている。 思うにこれは、 「オレが足を踏んだおかげで、お前の靴が地面さながらのきたならしさだってことに気づいてくれたか?」 と言っているに等しい。 ここまで、他人を見下していることを隠せないのは、いったいどういう症状なのだろうか。 AO義塾の代表者の謝罪文もすごい。 細かい論評は他の識者に譲るが、個人的には、近頃、ここまで自己陶酔を露わにした文章を読んだことは無かった。 この文章を書いた人間が、AO入試対策の私塾を主宰していて、しかもそれなりの実績を残していたということは、考えれば考えるほど残念なことだ。 というのも、この文章は、論文の書き方だとか面接での振る舞い方を洗練することで、人間の評価を根本的に変えることができると信じている人間が書いた文章だからで、その人間の指導によって、幾多の学生がAO入試を突破しているということは、その信念が実際の大学入試で通用してしまっていたことを意味するからだ。 10歳の男児になりすまして世間をたばかろうとした態度は、「卑劣」というよりは、どちらかといえば「小狡い」というべき振る舞い方だ。 もしかしたら、ある種の企業は、小狡い人材を求めているのかもしれないし、そういう企業でなくても、ビジネスマンが一人前の仕事を貫徹するためには、その種の小狡さが必要な場面があるものなのかもしれない。 だとしても、大学の入試で、小狡い若者が選抜されつつあるのだとしたら、私はその傾向には賛成できない。 学問を修めるという大学の本義からすれば、入学試験は、学力一辺倒であっても、むしろ愚直な人間を選抜する試練であってしかるべきだと考えるからだ。 もう一度言うが、文章力というのは、本来、瑣末な技巧だ。 AO入試や就活の中でもてはやされている「コミュ力」(「コミュニケーション力」の略らしい。いやな言葉だ)にしたところで、人間のある一面を特化した偏頗な能力に過ぎない。 文章は、対象を表現するためのもので、書き手自身をアピールするためのツールではない。文章の行間に書き手の姿が現れることが無いとは言わないが、多くの場合それは、「正体が割れる」というカタチで露呈される。 つまり、文章において、基本的に、書き手は、自分自身を狙い通りに表現することはできないのである。 料理人が、自分自身を調理できないのと同じことだ。 いまさら言うまでもないことだったかもしれない。 こんなことは、もう2600年も前に、孔子という人が言っている。 「巧言令色鮮し仁」 40年ぶりに漢文の授業を思い出した。 (文・イラスト/小田嶋 隆) 「巧言令色鮮(あざやかなり)し仁」 と、うっかり読んでしまいそうです。 『場末の文体論』 本コラムから4冊目となる単行本がついに発売されました。今回は小田嶋さんが自分のルーツを語るコラムを収録。帯に中学時代のオダジマが感銘を受けたというトルコのことわざ「明日できることを今日するな」を入れたところ、この本に関わる皆さんが次々に締め切りを忘れてしまったという……。無事間に合ってよかったです(うれし泣)。【書籍担当編集者T】
このコラムについて 小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明 「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20141127/274372/?ST=print
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