http://www.asyura2.com/14/senkyo174/msg/754.html
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おいら、選挙の度に共産党が全選挙区から候補者を立てることは自民党を利することだという論調に腹が立っている。
民主主義とは何かを理解していない連中が多すぎるのだと思う。
そこで提言なのだが、積極的に政策協定を他の野党に持ちかけてはどうだろうか?
多分殆どの野党は拒絶するだろう。
そこで、やむなく候補者を立てることになったのだと主張すれば前述の主張は成立せず、反論しやすくなるのではないのか。
蛇足になるが、小沢の政治資金の問題は、司法の問題と政治資金の問題と政治屋の問題と分けて論じることが出来ず、折角の日本の政治の転換の可能性を潰すことに加担してしまったことは重大な問題だったのでは無いかとは思うのだが・・・。
で、インターネットの書き込みで、左翼がどうの、団塊がどうの、チョンが、チャンが、愛国が、反日がと喧しいが、おいらなりの考え方を以下に述べてみたい。
おいら、HNの通り無党派なので共産党を支持するわけではないが、共産主義国家が失敗したからといって共産主義的な考え方が否定されたとは考えてない、逆に資本主義国家が共産主義国家の敗北により、その歪みを増大させ、産業革命後の格差社会が共産主義を誕生させた時代に類似した状態になりつつあるように感じられる。どちらの体制も失敗しつつあるのではないかと思うのである。
おいらの単純な頭では完全な競争社会(資本主義)vs完全な平等社会(共産主義)の間に何らかの解があるのではないかと考える。そして、それはどんな体制をとるかという事ではなく、如何に自分を律することができる人間が権力を握るかではないのかという風に考える。
自分は中庸であると言いつつ右翼にせよ左翼にせよ否定する輩は自分の立ち位置がどこにあるのかをどのように捉えているのが不思議でしょうがない。
敵を知り、己を知らば百戦危うからずというが、勝ち馬に乗って弱いものや反体制のものを虐げるやり方は戦時中の所謂愛国主義者に通ずるものがある。
求めるべきものは、権力者の倫理・ノブレスオブリージュであって野党への批判ではない。
昨今、勝ち組・負け組といった言葉や愛国・反日と言った言葉が飛び交っているが、これがマスコミで当たり前のように使用されていることに落胆せざるを得ない。
中庸とは右も左も老いも若きも富むものも貧しきものも同じ目線に立って思考することではないのか。世の中絶対などと言うものはないし、全員一致もありえない。少数意見も取り込んで、奢ることなくより良い社会を目指そうという発想が何故出てこないのだろうか?
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