56. 2014年11月17日 23:45:20
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1949年(昭和24年)10月、中国共産党による中華人民共和国が成立し、翌1950年(昭和25年)には朝鮮戦争が勃発するなど、東アジアは中ソによる共産化の脅威に晒され、軍事紛争が相次いだ。アメリカは、日本本土の独立は許容したものの、アジアの共産化を食い止める「太平洋のキーストーン」である沖縄については引き続き支配し、軍事拠点にしたいと考えた。1945年(昭和20年)、アイゼンハワー大統領が「沖縄の米軍基地の無期限保有」を発表、オグデン民政副長官は「共産主義者の侵略を防ぐ砦として(沖縄を)保持する米国の確固たる意図は、日本、極東諸国の護衛を含む」と延べ、日本及び極東アジアの平和を守るため、沖縄を米軍の拠点とする意向を示した。 後に初代琉球列島高等弁務官となるムーア民政副長官も、共産勢力に対抗するため、沖縄に米軍基地を建設する意向をこう述べている。 「米軍の沖縄駐屯は共産主義侵略に対する防衛要塞としての強大な軍事基地にするためであり、共産主義の目的は世界制覇であるので、その夢の消え去らぬ限り、米軍の沖縄駐屯は今後多年にわたるものと考える」 だがアメリカには、こうした意向を丁寧に沖縄県民に説明し、理解を得ようという発想が無かった。占領軍たる米軍は、基地建設にあたり、事前通告せずに土地を強制的に接収したり、立ち退かない住民の家や畑をブルドーザーで破壊したりと手洗いやり方をした。 沖縄の人々も黙ってはいなかった。1954年(昭和29年)、琉球立法院(本土でいう国会)は、「土地は1年契約で年毎に賃貸料を支払う」「米軍は地主の要求額に基づいた使用料を支払う」「基地建設のための土地の新規接収をしない」など4項目をまとめた。 この「4原則」に基づいて沖縄の人々は米軍による土地収用反対運動を展開した。いわゆる「4原則貫徹闘争」「島ぐるみ闘争」である。住民は当初、不当な土地収用に反対し、適切な賃貸料を要求していたのだが、本土の左翼活動家たちが入り込んできた結果、全面的な米軍基地反対闘争へと変質していった。 適切な土地使用料を支払ってもらえれば基地を認めようと考える住民もいたのだが、彼らは「売国奴」扱いされ、本音が言えない空気が沖縄全体を支配していく。 辺野古の人々が米軍との土地契約を結んだのは、こうした状況下だった。当時「島ぐるみ闘争」を主導していた琉球立法院議員の瀬長亀次郎や安里積千代らは、米軍との契約に応じようとした辺野古の久志村長らを突き上げたが、村長は土地契約に踏み切った。 なぜか。 今回私は、その理由を示した貴重な資料を入手した。アメリカ占領下の沖縄で放送されていた「極東放送」というラジオ番組で発表された「原稿」である(以下、「原稿」)。「原稿」は、当時の沖縄の米軍基地運動の実態、共産主義の脅威を痛切に感じていた沖縄の人々の国際情勢認識について新たな視点を現代の我々に提供し、基地運動史の書き換えを迫るものだ。以下に紹介したい。なお、「原稿」執筆者は辺野古出身者で、陸軍中野学校で教育を受け、当時は辺野古で農業に従事していた人物(故人)だが、関係者の希望で氏名の公表は控えたい。 ラジオ「極東放送」で放送された「原稿」<1956年(昭和31年)11月29日付・抜粋> 『辺野古に於て軍用地問題の起きたのは、1956年8月頃のことで、地主の意見に依り拒否をした訳であります。接収に反対した理由は、余りにも賃借料が安く、暴風、病害虫、不作等の悪條件の場合よりも悪い料金でしたからで、基地提供の目的を阻止した訳ではない。当時の賃借料がが現在の価格でしたら、賃借契約をしてゐたかも知れない。 私し(原文ママ)は終戦直後、連合国の軍人に反感を抱いている一人でした。つき合ってみると、紳士的であり、正義感の強い民族である事を知った。共産主義の思想政策は、戦前より現在も嫌いな者の一人で、旧日本軍に籍を有してゐた自分として、以前より日本軍が共産系の思想の持主は徹底的な、処罰をなされ、日本としても”赤”として、厳重なる警戒の下に取締をされてゐた事は現在も耳新しく記憶に残ってゐる事であります。旧日本の軍隊の教育は、対ソ戦を目標として訓練されてゐた事からしても、共産主義に対し日本が、どれ程努力してゐたかがうかがわれます。米国が多額の金を投じ、沖縄各地に駐屯してゐる事実は、現在の情勢では仕方のない処置と思ってゐる。 米軍として、辺野古は絶対使用したい旨を聞されたので、強制収容と言ふ事になるよりは、協力的立場に於て解決点を見出す如く、地主一同意見の一致を見出した訳であります。直接地主が軍に接捗した方が、効果的と言ふ事に決り、我等代表は地主の生活の有利を目標として、交渉を続けて来たのであります。 「四原則」と言ふ言葉は何時の間にか、絶対的神聖視された様になり、信仰化され批判を超越したカッコウになり、やがて「四原則」と言えば「気を付け」の姿勢をとったり、脱帽したりしなければならぬことになりはしないかとさえ思はれた。現在、狂信的な熱狂からさめ、次第に冷静に理性による批判の時期に入って来ました。「標語」でしばられるのではなく、我等に理智の判断に従って問題を処理して行く様にしたいもので、一部の指導層のみに任せて置くべきものではない。特に軍用地と関係のない人が、一生懸命になってゐた事は不思議で私しとしては、民族の運動ではあったかも知れないが、理解に今も困ってゐる。所有権の移籍と言ふ事でなく賃借料の一括受取りと言ふことなら、随分多くの地主が賛成するかも知れない。「売国奴」などとオドかしてはいけません。個人の所有権の背後に残存主権と言ふ、領土権があるならば、一括拂(払)を引受けたからとして国土を売ったことにはならないし、売国奴にはならない筈です。指導層により、新規接収絶対反対を唱えさせられたが、地域的に利害関係のある事を考えると共に、地主の意見も充分尊重して貰えば、今の如く影をひそめたような、結果の運動にはならなかったと思はれる。四原則を死守すると言ふ出発点、四原則を死守し、これを貫徹し得たければ、總辞職するという出発点を、もう一度よく反省してみることが、軍用地問題を解決するために、最も必要なことではないでせうか。一段と各指導層のご協力のもとに、沖縄の建設に努力しようではありませんか。』 米軍から辺野古に土地接収の申し入れがあったのは、1956年(昭和31年)のことだ。住民らが生活の為の用材を切り出していた山一帯を、演習場として収用したい、ということだった。
当初、猛反対した辺野古の人々もその後、土地収用に応じる事を決定した。「原稿」によれば、その理由は大きく分けて3つあった。 第1の理由は、アメリカ支配下の沖縄で、米軍の要請に逆らうことはできない、という現実的な判断である。このような現実的な判断に傾いた背景には、前年の1955年(昭和30年)に沖縄北部の伊江島と宜野湾市の伊佐浜で起こった、米軍による強制的な土地接収事件があった。 伊江島では、米軍が通知した収用範囲と伊江島側が理解していた範囲が違っていたために、立ち退いていない住民の居住区までブルドーザーで取り壊されることとなった。土地収用に反対して、逮捕された住民もいたが、結局家は壊され、土地を収用されたため、テントでの生活を余儀なくされたのだ。伊佐浜でも同様の事態が生じていた。 伊江島でも伊佐浜でも、事前に承諾していなかった土地も強制的に収容され、補償も十分ではなかった。アメリカの占領下であり、本土の日本政府も頼りにならなかった。 米軍が辺野古収容の意向を示している以上、反対しても強制的に収容されるだけだ。であるなら、少しでも地元住民の意向を踏まえた収用となるよう、米軍と協議した方がよいと判断したのだ。 第2の理由は、借地料である。琉球立法院決議の「四原則」にもあるように、沖縄の人々の不満の1つは、借地料があまりにも安いということであった。農業や林業で生計を立てている人たちにとってみれば、収容される山や農地での収益に匹敵する借地料がなければ、生活が成り立たなくなるからだ。 「原稿」にも次のように記されている。≪接収に反対した理由は、余りにも賃借料が安く、暴風、病害虫、不作等の悪條件の場合よりも悪い料金でしたからで、基地提供の目的を阻止した訳ではない≫ 何が何でも米軍基地に反対というわけではなく、適切な借地料を支払ってもらえれば、米軍による収用に応じてもよい、と考えていたのである。 第3の理由であるその理由は、「原稿」によれば、辺野古の人々が当時の国際情勢、つまりアジア共産化の危機とそれを阻止するための米軍基地の必要性を理解していたからである。「原稿」は、共産主義の脅威と当時の国際情勢について、こう記している。 ≪旧日本の軍隊の教育は、対ソ戦を目標として訓練されてゐた事からしても、共産主義に対し日本が、どれ程努力してゐたかがうかがわれます≫≪米国が多額の金を投じ、沖縄各地に駐屯してゐる事実は、現在の情勢では仕方のない処置と思ってゐる≫ このように「米軍の占領下」「適切な賃借料」「共産主義の脅威にさらされている国際情勢」という理由から、辺野古の人々は、米軍基地建設容認という苦渋の決断に踏み切ったわけである。 1956年(昭和31年)12月28日、辺野古側の条件が受け入れられる形で土地契約が成立し、翌年1957年(昭和32年)1月18日に土地が収用された。 辺野古の人々は米軍との土地契約を結ぶに際して、米軍と土地契約を結んだ理由を記したこの「原稿」をラジオ放送で全島に流した。 その影響は大きかった。『邊野古誌』にはこう書かれている。 「1956年11月土地委員の1人が、民政府の依頼を受けて四原則貫徹闘争で揺れる最中、軍用地接収反対の一角を崩したかの如く、極東放送に於いて全軍に向け、賛成意見を発表しゆれ動く島民に大きな波紋を投げた」 辺野古が決断した翌年の1957年(昭和32年)2月1日、那覇市で開かれた「第4回軍用地主大会」では、米軍基地反対闘争が叫ばれる一方で、時の琉球政府主席(本土で言う総理大臣)である当間重剛氏が「四原則貫徹、島ぐるみ闘争は、すでに取り下げるべき時期に来ている」と発言し、注目を浴びた。 琉球立法院が決議した「四原則」によれば、沖縄の人々の不満の1つは賃借料があまりにも安いということであって、米軍基地に絶対に反対というわけではなかった。それが、米軍基地反対闘争になってしまったのはなぜなのか。 「原稿」はこう指摘している。 ≪特に軍用地と関係のない人が、一生懸命になってゐた事は不思議≫ ≪(闘争の)指導層により、新規接収絶対反対を唱えさせられた≫ これは何を意味しているのか。四原則貫徹闘争には、大きく3つのグループが関わっていた。 1つは、地主らのグループだ。彼らは、米軍による強制土地収用に対して賃借料や契約方法の見直しを求めていた。 第2のグループは、ソ連・コミンテルンとも関係があるアメリカの人権団体だ。 沖縄で布教にあたっていた宣教師のベル神父が1954年(昭和29年)、沖縄の米軍基地問題につての論文を『クリスチャン・センチュリー』誌に発表した。その論文を見たNGOのアメリカ自由人権協会(ACLU)代表のロジャー・N・ボールドウィンが「米軍支配下の沖縄では、米軍による人権弾圧が行われている」として弁護士・海野晋吉率いる日本の 自由人権協会に現地調査を依頼した。そしてその調査報告に基づいてACLUは国連に沖縄の人々の人権を守るよう働きかけ、沖縄の米軍基地問題が国際化していったのだ。 ACLU代表のボールドウィンは、アメリカで『ネイション』という左派系雑誌の編集員をしていた時期があるが、この雑誌は戦前、フィリップ・ジャッフェらコミンテルンのスパイたちの拠点であったとされている。 ボールドウィンは、中国共産党と毛沢東を高く評価する紀行文を書いた作家のアグネス・スメドレーとも交流があった。彼女は戦前、ソ連スパイだった尾崎秀実やゾルゲとつながり、戦後、アメリカでコミンテルンのスパイだと名指しで非難されるやロンドンに逃げて急死、遺体が北京に埋葬された人物だ。 ボールドウィンらと共に沖縄の米軍基地問題に取り組んだ帆足計元参議院議員(社会党)も、ソ連や中国共産党と連携して日米安保反対運動を主導していた。コミンテルンのスパイだった人々が「人権擁護」という名目で沖縄の米軍基地問題に関与していたのだ。 第3のグループは、1958年(昭和33年)に結成された原水爆禁止沖縄協議会(原水禁)の グループだ。社会大衆党の安里積千代らが主導し、「沖縄の米軍基地に核兵器を持ち込むな」と主張し、米軍の基地建設反対の運動に取り組んでいた。このグループの背後にも、ソ連や中国が存在している。 「我々は”沖縄が対共産主義圏の基地として必要である”という当間(琉球政府)主席とアメリカの共同声明はアジアの緊張を激化させるものとしてこれに反対を表明する」 中国やソ連にとって、沖縄の駐留米軍は目の上のたんこぶであり、基地の土地収用問題を利用して排除しようとしたのだ。沖縄の人々の「闘争」を背後で操る「指導層」に、ソ連や中国の「代理人」たちが入り込んでいたのである。 この闘争が下火になった背景に、辺野古があることも指摘しておきたい。 貧しい僻村に過ぎなかった辺野古は、正式契約に基づいて米軍基地建設を受け入れた結果、劇的な発展を遂げたのだ。 1957年(昭和32年)、米軍基地建設の工事が始まると、労働者が沖縄全島から集まった。辺野古の人々は、彼らの住まいを確保するため、自宅敷地内にもう1軒家を建て、1畳1ドルで間貸しを始め、俄か「大家」が次々と誕生した。人が集まれば、サービス業が必要になってくる。着工に合わせて料亭4軒、小料理屋5軒、食堂2軒、雑貨商8店が営業を開始し、町が誕生したのである。 アメリカ側も、正式契約を結んだ辺野古には様々な便宜を供与した。民政府のアップル少佐らが重機を無償提供したのだ。1957年(昭和32年)8月、米軍基地のすぐ隣に造成された町は、少佐にちなんで「アップル・タウン」と名付けられた。 基地が整備されるにつれ、米軍兵士と家族たちも辺野古に引っ越してきた。バーや飲食店、映画館といった娯楽施設も次々に開業し、1959年(昭和34年)、76の業者が集まって「辺野古商工会」が設立された。数年間で人口は2倍以上になった。 折しも当時、石油エネルギーへの世界的な転換により薪炭の需要が減り、林業に依存していた沖縄の他の地域は経済的苦境に陥ったが、基地経済に移行していた辺野古だけは発展していった。 その発展を更に加速したのが、ベトナム戦争だった。キャンプ・シュワブは、ベトナムに出撃する米軍兵士たちの一時休養場所となった。死を覚悟していた彼らは、1週間ほどの休養中にありったけのお金をアップル・タウンで使ったという。当時を知る古老によれば、バーなどでは、一晩でドラム缶が一杯になるほど収入があったそうだ。 辺野古の発展は米軍基地の経済的効用を沖縄の人々に知らしめ、「米軍基地と共存する沖縄」への支持が広がることになった。 戦後、沖縄駐留の米軍は、ベトナムだけでなく、朝鮮半島、台湾、フィリピン、カンボジア、インドネシアなどで共産勢力による軍事紛争を抑止してきたが、そうした活動ができたのも、米軍基地を沖縄が受け入れてくれたからだ。 その先陣を切ったのが、辺野古であった。辺野古の人々が当時の国際情勢も踏まえて米軍基地建設受け入れを決断してくれなかったならば、アジア共産化という悪夢が現実になっていたかも知れない。 辺野古はその後、ベトナム戦争終結で米軍兵士が減ったことや1972年(昭和47年)の本土復帰に伴う「ドルから円への通貨切り替え」などにより、衰退していった。しかし、 アップル・タウンの繁栄の記憶から、普天間の移設を受け入れ、再び米軍と共に発展する道を選択すべきだと考える人も少なくなく、苦渋の決断により、18年前、名護市は普天間の移設を受け入れたのだ。 県外の、それも中国や北朝鮮寄りの活動家たちによって、地元辺野古の決断が否定される異常事態はいつまで続くのか。中国が尖閣諸島はもちろん沖縄本島を含む東シナ海全域の支配という野望を隠さなくなった現在こそ、沖縄は地元の先人たちの決断に思いを馳せてほしいと切に願う。
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