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田原総一朗「『教科格上げ』で失われるプロセス重視の道徳教育」〈週刊朝日〉
http://www.asyura2.com/14/senkyo173/msg/864.html
投稿者 赤かぶ 日時 2014 年 11 月 04 日 12:00:05: igsppGRN/E9PQ
 

田原総一朗「『教科格上げ』で失われるプロセス重視の道徳教育」〈週刊朝日〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20141104-00000008-sasahi-pol
週刊朝日  2014年11月7日号より抜粋


 道徳が「特別の教科」に格上げされる可能性が出てきたが、ジャーナリストの田原総一朗氏はすんなり認めることは出来ないと理由をこう語る。

*  *  *
 道徳の授業が「教科外の活動」から、「特別の教科」に格上げされる見通しとなった。

 戦前、戦中は修身という授業があり、私も小学校で授業を受けた。教科書を開くときには両手で持って、押し頂いたものだ。そして教師は、まず天皇陛下に忠義を尽くすこと、そして国家のために一身をささげて戦うこと、親に孝行することなどを教えた。

 ところが戦争に負けると、修身の教科書は焼かれることになり、私が小中学校の間は、道徳らしいものは学校では教えられなかった。道徳はタブーだったと言える。

 道徳の時間が復活したのは1958年のことで、これには反対の意見も強かった。ただし、道徳はあくまで「教科外の活動」であり、使われたのも副読本であって教科書ではなかった。

 それが、安倍晋三首相の肝いりでつくられた政府の「教育再生実行会議」が昨年2月に教科化を提言すると、今年10月21日に「中央教育審議会」の出した答申で、2018年度にも小中学校で「特別の教科」として授業が行われることになったのだ。

 道徳という言葉には、私は強い抵抗感がある。教師に対する頭の下げ方が足りないとか、返事の声が小さいということで、竹のむちで頭を打たれたり、教室の後ろに立たされたりしたものである。とにかく修身というのは押しつけで、反論はおろか、疑問をはさむのも許されなかった。教師の言うことは絶対で、いや応もなかった。そういう記憶があるので、道徳という言葉がすっきりと受け入れられないのである。

 社会的なモラルやルール、マナーを守ることは大事であり、校内暴力やいじめなどには厳しく対応すべきである。ただし、一方的な押しつけによって抑え込むのではなく、どうあるべきかを話し合い、多様な意見をぶつけ合うことで、あるべきかたちを見つけ出す。これが戦前、戦中とは違った民主主義時代のやり方だと私は考えている。

 公共と個人の関係について言えば、特定の枠には縛られず、誰もがあるべき姿を懸命に考える。私は道徳とは、あるべきかたちそのものよりも、あるべきかたちを論議して考える、そのプロセスこそが重要なのではないかと思う。

 先日、脳科学者と話をしたとき、心臓や、胃、腸などの消化器は原始的な動物の時代から長い長い歴史を経て、ほぼ完成されたかたちになっていると聞いた。そして脳でも、怒りや悲しみ、喜び、楽しさなど感情をつかさどる部分は動物にもあるので、これまた長い歴史を経ている。だが、理性をつかさどる部分は、人間が誕生し、それもかなり進化してからできあがってきたもので、未発達なのだというのである。

 公共と個人の関係をどう考えるか、などというのは、まさに理性の範囲であり、未発達なので失敗や誤りも生じてしまう。だから道徳教育などが必要となるのだと脳科学者が言った。その意味では、道徳の必要性は理解できるが、理性の問題だからこそ、一方的な押しつけではなく、あるべきかたちを思考するプロセスこそが大事なのである。

 それにしても「教科外の活動」の道徳は教科ではないために成績評価はなかったが、「特別の教科」になると成績が評価されることになる。少なくとも戦前、戦中のような成績序列はつくるべきではない。


 

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コメント
 
01. 2014年11月04日 12:34:43 : RCbun4ZBTg

 道徳というのは 基本的には 価値観の構築だよね〜〜〜

 ===

 日本には 戦前は「道徳は無かった」ので「教育勅語」を作って
 モラルを構築しようと考えたわけだ

 ===

 「道徳」とよく間違えられるのが「作法」だよね〜〜〜

 「武士道」と言うのは 結局「作法」なわけで 白い衣装で「切腹」するのも
 作法なのだろうと思う

 本来 武士は武道を極めて 戦いに勝利しなければならないわけだが
 江戸時代には 武道を 武士道にして 作法に買えちゃったわけで

 作法は 武道とは 似ても非なる物だよね〜〜〜

 ===

 戦前 教育勅語は 小学校1年で 意味はわからなくても そらんじることができた

 ただ 教育勅語が 人間が生きるための 価値観の構築にはなっていない

 君が代を歌う 国旗を掲げる 教育勅語をそらんじることは 儀式(作法)
 になって 本質的に 日本人の頭脳を鍛えることにはならないわけだ

 戦前に 日本が中国に侵攻していくときに モラルではなく テクニックを
 使ったわけで つまり 陰謀(テクニック)が主流だったのだ
 
 ===

 現代人は 戦前と較べると 「はるかに道徳的」だが 武士道や教育勅語などの
 すたれた(一度は価値がないと否定された)儀式が 流行するとは考えにくい
 
 ===

 現代人は 現在は グローバリズムという 新しい価値観を 取り入れる必要に
 迫られていて それがTPPなどと言う 新しい名前で 迫ってくるのだが

 TPPを否定して その価値観に 拒否反応を示す国民が 大多数だ
 
 ===
 
 過去の価値観は 単に儀式(作法)として存在しているだけで
 それが 主流に返り咲くことは 考えられない
 
 ===

 IPS細胞が 研究されて 病気の治癒に貢献するときに 生命の尊厳が
 神から 与えられ それを変更することは 神の意思に反するという
 キリスト教も一部には有るが 大多数のキリスト教信者でも
 IPSの研究に 一番乗りしようと 殺到している

 過去の価値観を そっくりそのまま  進歩なしで 現代に適用することは
 不可能だ

 ===

 道徳とは 価値観を作りだす プロセスなのである
 
 
 


02. 2014年11月04日 12:40:10 : RCbun4ZBTg

 つまり 道徳を 教科書にすることは

 道徳を「作法」に変えるだけで 道徳を放棄することと同じである
 


03. 2014年11月04日 15:11:20 : YylixLkL5Y
道徳での点数の基準。

お国のために死にます。これが最高点になる。これは何も考えないということ。
自分の頭で考える。これは赤点。


04. 2014年11月05日 17:03:05 : QCz4JGt8lg
道徳に点数を付け、1-5の評価の意味は何なんだ? 安倍のような道徳観のない男に採点するなら間違いなく1だね。こんなバカほど道徳についてほざく。道徳とは人間教育で教えられて身につくものではない。社会の一員としてあるべき姿をどのように体で覚えるかである。教科書で身につくものならば誰もが苦労せん。安倍張本人が道徳を知らぬのだから。子供に馬鹿にされているのが判らぬのか。聖人君子ぶるのはやめたまえ。国会答弁を見ていたらよくわかる。

05. 2014年11月05日 19:49:21 : wC2pmrSa3Y
先生と 生徒が出てる バラエティ
とても怖いぞ プロデューサーは

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