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2014年11月02日
第二次大戦後世界の枠組みがほどけ掛けているのだろう。特に、一つの事柄を取り上げて、どうこう云うのは難しい。具体的な指摘ではないが、だからと言って、時代に大きな変化はない、と云う主張の証明にはならない。なんとなく、人の心、政治・外交・軍事・経済・社会事象・気候変動・医学科学の進歩等々、あらゆるシーンにおいて、その枠組みの変化の兆しを肌で感じることは出来る。
無論、肌で感じると云うことは、あらゆる意味で個人差が大きいので、感じる人もいれば、まったく無風状態だと思う人もいる。これに対して、感受性が鈍いとも言えないし、神経質すぎるとも言えない。筆者が感じている一番の問題は、第二次大戦後世界の枠組みの中で支配的地位にいた、あらゆる分野において王者の趣を失い、“金持ち喧嘩せず”のお大尽だった支配的地位にいた勢力の人々や組織の態度が、揺れ動き慌てている様に、表現の難しい、世の中に不穏な空気をまき散らしているのだろう。
今まで、目くじらも立てず、笑って見過ごすことが出来た、所謂“余裕綽綽”な態度が消え失せていることによる、秩序の総体的乱れがあるのだ。ネズミの一種“レミングの集団自殺”を思い起こすのだが、これは調べてみたら、人間達による勘違いで、単にネズミの大移動が起きるだけのようだ(笑)。余談はさておき、戦後の世界秩序を維持してきた米国の異変が、すべてのはじまりなのだろう。だからと言って、これから起きるであろう世界の大混乱のすべてが米国の責に帰すると云うのも言い過ぎだろう。
このような現象が起きた一番の原因は、多くの先進国から分厚く存在していた中間層がいなくなった事に起因する。異なる表現をすれば、“貧すれば鈍する”の格言通りに生活に疲れ果てた中間層は、収入や社会的地位を減少させるのと同じ比率以上に、感情を劣化させていったのだと思う。特に日米韓を中心とする諸国で、中間層がいなくなった現象は、ひと言で括れば“グローバリゼーション”の効果によるものだと言える。
なぜ“グローバリゼーション”が、中間層をなくしたり、感情の劣化に拍車を掛けたかと云うと、国境と云う概念が希薄化したことに行きつく。国境の存在は、善悪は別にして、当該国家に帰属している“アイデンティティ”が希薄になることを意味する。民族や、文化や、共同体意識をどんどん希釈化し、良くも悪くも垣根を取り払うベクトルが働くことを意味する。国境自体には、それなりに、民族や、文化や、共同体意識は残るので、他国の人々や組織が、簡単に入り込んでくるわけではない。最も容易にその壁を乗り越えてくるのが“マネー”である。
この“グローバリゼーション”の厄介さは、“マネー”と云う、利便性追求の結果生み出した、人間社会の産物(ツール)が“のさばる”時空を与え、みずから、その人間社会の産物(ツール)の隷属になると云う倒錯を起こすのである。生身の人間であれば、一日は24時間だし、一年は365日なのだが、彼ら(マネー)は眠る必要もなく、食欲に限界もなく、精力絶倫なのだから、人間には勝ち目がない。
ただ“マネー”は単独で生きることが出来ず、一部の人間に寄生する。寄生された人間は、病気を発症するどころか、彼らに寄生されたことで、彼らの習性に身を任せていれば、彼ら(マネー)は幾らでも増殖し、且つ仲間を掻き集めてくる習性を有する。ここに、オキュパイ・ウォール・ストリートで語られた、1%対99%の構図が生まれることになる。
そういう意味で、グローバリゼーションが国家を滅ぼすし、欧米的デモクラシーそのものまで、破壊する。筆者自身は、欧米型デモクラシーと云う観念に懐疑的なので、壊れることに異論はないが、壊れた後に出てくる帝国主義(一国主義)や国家主義が支配的になる方向づけが気に食わないのである。一国の首相が、他党のリーダーを名指しで「アイツは赤だよ」みたいなことを公言してしまう国家がデモクラシーの替わりに出てこられても、それはそれで、デモクラシー以上に厄介なのである。
しかし、反対勢力に向かって、レッテル貼りに奔走する首相の言葉に、「そうだそうだ、吊るしてしまえ!」と感情の赴くままに叫ぶ人が多いのも事実である。国民の間に中間層が存在するときは、“たしなみ”とか“外聞を憚る”と云った概念に、人々は一定の範囲で心配りが出来るものだ。しかし、その地位が低くなり、より底辺層に近づくに従い、社会的共同体意識を失ってゆく。つまり、“恥”と呼ばれる言動や振る舞いが、加速度的に減っていき、いよいよ“犬畜生”の世界に近づいてゆく。
見出しの「「国会・霞が関・財界・富裕層」対「生活者」の対立構図」の中で、国会・霞が関・財界・富裕層を構成する人々も生活はあるのだが、ポジショントークを続けていくうちに生活を忘れてゆく。「生活者」は常に生活だけを抱えているので、日常の生活が向上することに興味が集中するし、議員、官僚、役人、経営者、金持ち等々になれないのだから、生命体のコアな維持に執着する。このような社会層が10:40:50、つまり、40%程度の中間層がなくなると、国も社会もバラバラ、無茶苦茶になるのだが、いま日本は、そんな方向に向かっているのは事実だと思う。
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