21. 2014年10月28日 07:25:55
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ダイヤモンド・オンライン CLOSE このページを印刷する DOL特別レポート 【第508回】 2014年10月28日 開沼 博 [社会学者] 本当に無風の選挙だったと言えるのか? 福島県民が内堀雅雄知事に期待するもの ――社会学者・開沼 博 26日、震災後初となる福島県知事選の投開票が行われた。選挙前の予想の通り、前福島県副知事の内堀雅雄氏が当選。福島のみならず、日本の未来を占う重大な選挙だったが、投票率はワースト2位を記録し、関心が高いとは言えない結果となった。福島県民は内堀氏に何を期待したのか。『「フクシマ」論』の著者であり、社会学者の開沼博が今回の選挙を総括する。過去の知事選との比較から見えてきた 県政への「無関心」と「一定の批判」 26日、東日本大震災・福島第一原発事故後初めてとなる、福島県知事選が行われた。 当選者は内堀雅雄・前福島県副知事。報道機関において初当確が出たのが、投票締め切り直後の午後7時台。候補者6名のなかでの得票率は、実に66.8%。文句のつけようのない圧勝だった。 内堀新知事は、震災から4年を迎えようとする福島県を率いていくことになる。この知事選に何が映りこみ、新知事に何が求められていくのか。まず、福島県選挙管理委員会事務局のWebにて公開されている投開票の結果を参照しながら、選挙の結果を簡単に振り返ろう。 今回の福島県知事選の結果で注目すべき点は二つある。 一つは、現職・佐藤雄平知事の事実上の後継者である内堀氏の「圧勝」は確かであるものの、そこには県政への「無関心」と「一定の批判」が見えたということだ。 過去3回の知事選の当選者と次点の得票数を並べてみよう。 2014年・福島県知事選(有権者数:1612738、投票率:45.85%) 新人・内堀雅雄 490384 新人・熊坂義裕 129455 他4名 2010年・福島県知事選(有権者数:1646867、投票率:42.42%) 現職・佐藤雄平 609931 新人・佐藤克郎 79594 2006年・福島県知事選(有権者数:1663410、投票率:58.77%) 新人・佐藤雄平 497171 新人・森雅子 395950 他3名 2004年・福島県知事選(有権者数:1661922、投票率:50.76%) 現職・佐藤栄佐久 704220 新人・小川英雄 124179 まず気づくべきは、得票数を見ると、2004年、2006年のように、「現職 vs. 新人」になった場合、福島県では現職に60万票ほど集まる基盤があるということだ。その点、今回の選挙において、現職・佐藤雄平氏の事実上の後継者である内堀氏が、民主・社民・自民・公明等の相乗りにもかかわらず50万票を割ったことについては、「もう少し票を伸ばせる余地があった」と言うことができるだろう。 2006年の選挙における新人の佐藤雄平氏もほぼ同数だが、この時は、現在自民党の参議院議員である森雅子氏との自公対立が盛り上がったうえでの結果だ。その点でも49万票という数字には、「本来取れる票が他に流れた」、あるいは「そもそも投票に動員できなかった」と読み取るべきだ。 そこには、「どうしても現職知事の流れを組む候補に勝ってもらいたいというわけではない」「どうせ投票に行かなくても勝つだろう」といった「無関心」、「他の候補のほうがいい」「負けるにしても対立候補に批判票を入れておきたい」といった「一定の批判」が表れていると言えるだろう。 「無関心」は投票率にも表れている。今回選挙の最終的な投票率は45.85%とワースト2位。過去最低だった前回選挙の42.2%よりは上がっているように見えるが、前回選挙と今回選挙は比べづらい。前回選挙は当時、すでに1期を終えていた佐藤雄平知事と共産党系の候補の2名しか立候補者がいなかった。そして、今回同様、原発に関する態度など、一部を除いて争点がない条件のなかで過去最低の投票率となったのである。 一方、その前に実施された2006年の選挙では、58.7%の投票率を記録している。これは、選挙直前にその当時の佐藤栄佐久知事が贈収賄で逮捕される事件があったこと、先述の通り、民主党と自民党がそれぞれ候補者を立てて、「民主党 vs. 自民党」の対立が鮮明になり関心を呼んだことなどが要因だ。 今回の選挙もまた、福島第一原発事故後初めての選挙であることを踏まえれば、関心が集まる可能性はあり、それに比例して一定の投票率の上乗せがあってもおかしくはなかった。しかし、そうはならなかった。 いまや「脱原幻想」は得票に結びつかない もう一つは、「原発・放射線」を掲げても、それは集票にほぼ影響がないとうことだ。とくに放射線について過剰な主張をすることは、選挙に不利に働くことはあっても、有利に働くことはない。 熊坂陣営・支持者の一部は選挙戦のなかで「内堀氏は、県内原発の全基廃炉と言っても、県外原発の再稼働反対とは言わない。我々は県外原発の再稼働反対を言っている」などと、これを争点化しようと主張してきた。その点で「争点が見えにくい」という大手報道機関の報道には「争点はあるではないか」と反発もしてきた。しかし、得票数に表れる通り、それが有効な武器になったとは言い難い。 たとえば、2004年の選挙では、共産党系の新人が12万票を獲得している。今回、共産党も支援した熊坂氏の投票数がほぼ同数だ。もちろん、2004年から10年が経っていることや、他にも候補者が複数いたこと、投票率が低かったことなどもある。しかし、内堀氏に票が流れなかった分を吸収できる余地があったはずなのに、そうはならなかった。 そもそも、「『脱原発・放射線回避』を掲げれば選挙に勝てる・有利になるという幻想」(以下、「脱原幻想」)は3.11以後、何度も繰り返され、そのたびに破綻してきた。前回記事でも触れたように、2013年の都知事選に関する選挙前の論考でも同様のことを指摘したが、今回の選挙でも「脱原幻想」構造が繰り返された。 2012年の衆議院選、「脱原発シングルイシュー」を掲げる未来の党が、政界を揺るがすかのような「脱原幻想」が大きく膨らんだが、結果は未来の党の惨敗どころか、同様に「脱原発」を掲げた政権与党であった民主党に至っても、菅直人・前総理が敗れそうになるほど大敗北を喫した。2013年の参議院選でも、やはり「脱原発」で挑もうとした民主党は、自民党に太刀打ちできず、同年末の都知事選でも、ふたたび盛り上がった小泉・細川連合や宇都宮健児氏による「脱原幻想」は鮮やかに敗れ去った。 その間、福島県内では、原発事故時、衆議院小選挙区5議席すべてを持っていた民主党は、4議席を自民党に渡した。参議院選でも民主党が議席を失っている。いずれも「脱原幻想」一本槍の感が否めない戦術をとった挙句のことだった。 今回、熊坂氏への地域別得票数を見ていくと、町村部よりも市部、つまり浮動票の多い「地方都市」からの得票が明らかに多かった。しかし、それでもこのような結果になったことは、「脱原幻想」の限界をより証明したことになるだろう。 さらに触れておくべきなのは、放射線回避に関して強い主張をする候補の得票の傾向だ。 たとえば、2013年の参議院選では「放射線が危ない」と福島県内での駅伝大会の開催に反対するなどしてきた山本太郎氏が当選した。これについては、「山本太郎当選に対する福島からの「希望」の在処――ある県外避難をした福島人との会話」という記事で触れたが、放射線を忌避して福島県外に避難をした人々から「放射線のことを表立って言ってくれるのは太郎さんだけだ」と、希望の象徴として捉えられてきた部分もあった。 もちろん、極端な主張なのではないか、という反発の声も大きかったが、「脱原発とともに放射線の危険性を声高に主張する」ことで一定数の支持が集まる前提がこれまではあった。 「エコー・チェンバー現象」の落とし穴 では、今回の選挙ではどうだったのか。注目すべきはやはり、井戸川克隆氏だ。「美味しんぼ事件」では両鼻から毎日のように鼻血が出続けているなどと主張。その両鼻から出ているという鼻血の写真をFacebookに上げるなどして一部メディアでも特異な論陣を張り、「放射線回避派」にとっては象徴的な存在だと言える。 今回の選挙では、多くの脱原発・被曝回避団体は熊坂陣営に乗ったが、「熊坂氏でも放射線への配慮が足りない」と、より激しい脱原発・被曝回避を求める層が井戸川氏の支援に回っていた。 たとえば、新左翼(いわゆる「過激派」)の中核派が中枢にいると言われる脱原発団体は、熊坂氏の被曝回避の甘さを指摘したうえで、「これに対し、井戸川元双葉町長が「避難の権利と全面的補償、帰町運動絶対反対、政府と県、医大の被曝隠し弾劾」を掲げて立候補しています」と井戸川氏支持を示していた。無論、井戸川氏を一方的・勝手連的に応援しているという状況なのだろうが、井戸川氏が強い主張を持った「放射線回避派」の受け皿となっていたと言えるだろう。 選挙の数日前、いわき駅前で演説する井戸川氏の支援者のなかには、福島では聞き慣れない、関西訛りの言葉の運動員がビラを配るのを見た。県外のいわゆる熱心な市民活動家も、井戸川氏の支援に熱心な層がいるという。 しかし、開票してみれば、その得票数は、かつては双葉町長や双葉八町村会会長を務めた人物にもかかわらず2万票あまりと、他の無名新人候補同様、供託金没収水準の得票数となってしまった。むしろ、地域別得票状況の詳細を見ると、その集票の多くを比較的知名度の高いであろう双葉郡から得ており、それ以外の地域の浮動票はほとんど得られず、まったく政治経験のない新人候補たちに流れてしまったと言わざるをえない。 なぜ、「脱原幻想」が生まれては破綻することが、繰り返し起こり続けるのか。さまざまな側面があるだろうが、その一つには、「エコー・チェンバー現象」との結びつきは踏まえるべきだろう。 「エコー・チェンバー」とは、「反響室」という意味だ。エコー・チェンバー現象とは、狭い部屋で同じ言葉が反響し続けるように、少数の人間のタコツボ化したつながりのなかで同じ主張が何度も繰り返され、増幅される現象のことである。 これはインターネット上で起こりやすい。そして脱原発・被曝回避については、「みんなが脱原発・被曝回避を強く言っている」と勘違いしやすい状況がすでに指摘されてきた。たとえば、2013年の参議院選における毎日新聞の調査によれば、脱原発という言葉を一部の人が主張しているのがリツイートされて、3倍に増幅されていたことが明らかにされている。 しかし、実際は脱原発・被曝回避の価値観を持っているとしても、それが投票行動にとって重要な問題と位置づけている人は極めて少ない。あるいは、福島第一原発事故から3年7ヵ月経ち、極めて少数派となってきていることが井戸川氏の意外な得票数の少なさ、熊坂氏の票の取りこぼしにはあったと言えるだろう。 なぜ、50歳の若き政治リーダーが生まれたのか そんななか当選し、新知事となったのが内堀氏だ。内堀氏は50歳になったばかりである。66歳の現職・佐藤雄平知事と比べても、今回の知事選立候補者のなかで政治経験がある熊坂義裕氏(62)や井戸川克隆氏(68)に比べても、圧倒的に若かった。他県では40代の知事も複数いるが、とりわけ高齢化の激しい福島県内の県議会や市町村議会のなかで、若い政治リーダーが誕生したのは画期的なことだ。 選挙では、その武器となりうる「若さ」を強調する戦略もとれただろうに、そうはしなかった。なぜだろうか。具体的な戦術については本人・選挙関係者にしかわからないだろうが、少なくとも客観的に言えるのは、そのような表面的なところに頼る必要のないほどに、内堀新知事の周りに絶対的な信頼があったからだろう。 この選挙における内堀新知事の立候補に至る過程については、前回記事にも書いた。そのなかで、「内堀氏、立候補」の報が出始めた段階で、表向きに立候補要請を行ったのが双葉郡に8人いる町村長たちだった。 この3年10ヵ月、彼らは、震災直後の避難、警戒区域の指定や再編、賠償・除染の問題、最近では、中間貯蔵施設の受け入れなどで常に重大な決断を迫られてきた。それは国策レベルの決断の連続であり、誤解を恐れず言えば、地方基礎自治体の首長にとってはあまりに重すぎた仕事であっただろう。対峙するのは官邸や官僚組織であり、県や住民との利害のズレも度々あった。 そのようななかで、ときに国との間に入り、県との調整をし、あるいは自らの行政経験からなしうるアドバイスをし続ける存在として、内堀氏の役割は、双葉八町村をはじめ県内基礎自治体首長、その周辺の幹部のなかでは小さなものではなかったと度々耳にする。 民主党から始まった内堀氏擁立の流れに自民党が相乗りしたこと、さまざまな思惑を持った組織・団体が内堀氏支援に回ったことも背景にあるのは、同様の構図だろう。実務能力、国・県の動きを見つつ機動力をもって動ける立場、震災前から政治と行政との接点で培ってきた調整力。県庁OB・OGなどに内堀氏と仕事で接した際の話を聞いても、その多くが高い評価を口にする。 ただ、それが住民に伝わっていたのかと言うと、必ずしもそうとは言えないのかもしれない。 多くの人が「自分の住む自治体の首長」を知っていても、「自治体のナンバー2が誰なのか」までは知らないだろう。これまでの副知事としての仕事は、県が後援するイベントなどで知事の代理として話すような場合を除き、あくまで行政官として裏方に徹するものが主であり、一般の人々に知名度があったとは言えない。それが今回の低投票率にもつながっていると言えるだろう。 また、双葉八町村の長は内堀氏の立候補の道筋をつけたが、双葉八町村の住民や県外避難を続ける住民のなかなどには反発の声もあった。それは、内堀氏の問題というよりは、当時の佐藤雄平知事が率いてきた震災後の県政に大きな不満・不信感があり、それを「継承」する後継者を支援することはできない、という面が大きいだろう。 しかし、そうした側面が大きな動きとなることはなかった。さまざまな思惑とかねてよりの信頼が内堀新知事の誕生を導いた。それが今回の選挙の結果だった。 内堀氏が福島県にきたのは、2001年のこと。旧自治省・総務省からの出向で、それ以来、企画調整部長などを経て副知事を務め現在に至る。 課題が山積する福島県だが、内堀氏ほどその中枢に長期間いた人物は他にいない。かつての知事も県庁生え抜きの幹部たちも多くが去ってしまい、結果として13年間にわたって県幹部として福島県の状況を俯瞰してきた人物は、他にいない状況になってしまった。今回の選挙戦のなかでは「中央省庁からきた官僚」であることを言挙げて批判しようとする対立候補の支援者もいたが、福島県の中枢における実務の実績が彼ほど蓄積している人物はいない、と言わざるをえないだろう。 県外からはあまり知られていないことだが、2001年以降の福島県は激動のなかにあった。 2001年に福島県知事であった佐藤栄佐久氏は4期目に入り、選挙においても行政との関係においても盤石な基盤を築いており、自民党・保守系の知事として、当時としては異例の政策を次々と発表していた。 たとえば、当時進んでいた「平成の大合併」に対して、福島県内の矢祭町が「合併しない町宣言」を出すと、それを支援する方針を出して国と対立。当時の小泉政権化で自衛隊のイラク派兵が決まると、イラク派兵への反対を県議会で決議をした。そして、予言的なことであるが、原発に関するトラブルが起こると原子力政策を問題化し、県内にあるすべての原発の稼働を停止することもした。 ところが5期目に入った佐藤栄佐久氏は、2006年に、後に冤罪事件との疑いもささやかれる贈収賄容疑で突如逮捕され、職を辞することとなる。代わって知事となったのが佐藤雄平氏だった。元々経営者・日本青年会議所副会頭でもある、「リーダーシップ型」の佐藤栄佐久氏とはまた違ったタイプの政治家である佐藤雄平氏のもとでは、原発のプルサーマルの開始や、地方分権改革のなかでの新たな地域づくりを担ってきた。 そうしたなかで、2011年に東日本大震災・福島第一原発事故が起こる。 対立候補のなかには、内堀氏を「生まれも育ちも福島ではない」とレッテル貼りして評判を落とそうとする動きもあったが、10年以上にわたり、福島県の激動を最前線に立って見続けてきた内堀氏の実績は、特筆すべきものであるのは確かだ。リーダーの参謀役として心に秘めてきた理想があるだろう。真っ先に処理しなければと焦る現実もあるだろう。その具体化がどう進むのかが、これから問われることになる。 中央との関係で揺れ続ける福島県政 県民は内堀氏に何を期待するのか 最後に、福島県政の歴史を紐解きながら、今回の知事選を位置づけたい。 戦後の福島県知事はこれまで7名。内堀新知事は8代目となる。 内掘氏以前の知事のなかで、「生まれ・育ちが福島ではない」のは、初代の石原幹市郎氏のみだ。石原幹市郎氏は旧内務省の出身者。内務省は特高警察とともに語られ、ファシズムに加担したネガティブなイメージも根強いが、公衆衛生や地方行政なども担っていた。 戦前・戦中の県知事の制度は「官選知事」と言われ、国から官僚が送られてきていた。つまり、戦後民主主義が成立する以前は「県知事選」という概念自体がなかったのだ。 石原氏は、戦後すぐの時期に、この枠で福島に赴任してきた官選知事だった。そして、GHQのもとで進んだ民主化とともに「民選知事」の制度が整えられた際、それまでの県政を継承する形で選挙に立候補し、初代県知事となったのである。 内堀氏は、石原氏以来の「生まれ・育ちが福島ではない」知事であるし、「(戦後・災害)復興」に向き合う県政を継承するという点では、共通しているようにも見える。この「共通性」をどう見るべきか。 初代・石原知事に続く二代目以降の知事が、どの地域から選出されているか見てみよう。福島県を「浜通り」「中通り」「会津」の三地域に分けるならば、二代目が会津、三代目が中通りとつづき、その後、浜通り=>会津=>中通り=>会津と、誰かが意図したわけでもなく、バランスよく県内三地域を回し合う形で県知事が選出されてきた。 今回の選挙でも、当初浜通り選出の国会議員など「生まれ・育ちが福島」の知事を模索する動きもあった。しかし、さまざまな思惑が渦巻くなかでの誰も意図せぬ結果であれ、3.11後の福島の状況はそれを許さなかった。そこには、ある種、無意識的な変化への福島の社会的な意志があったと言えるのかもしれない。 目の前で起こっている現象を見る限りでは、たしかに今回の選挙は何の波乱もなく、おもしろみのない保守的な選挙だったと見えるかもしれない。しかし、歴史的な現象として巨視的に見た時、これは決して凡庸な事態ではないことに気づく。 歴史のifではあるが、3.11がなければ、「生まれ・育ちが福島」の知事が順当に誕生していた可能性も少なくはなかっただろう。その点、復興という大きな課題に向き合うなかに、「生まれ・育ちが福島」ではない内堀県政が誕生したことは革新的なことであり、長期的に見れば、県政に新風を吹き込む可能性を秘めている。 ちなみに、戦後初代知事の石原氏は、知事を辞めた後、国政に転じ、できたばかりの自治省の初代大臣にもなっている。それは、食料とエネルギーという課題に、その資源を大量に持つ福島をはじめとする地方で向き合ってきた実績あってのことだ。この石原氏の歩んだ歴史を見据えるならば、内堀県政が生み出すべき方針が明確に浮かび上がることになるだろう。 少子高齢化、既存産業の衰退、医療福祉制度の崩壊、科学的リスクとの対峙…それら福島に限らず普遍的に起こっている、しかしながら、震災後の福島にきわめて困難な形で覆いかぶさっている、現代地方自治の課題とそれへの対応を進める。そして、そのなかで生まれた解決策が福島の課題のみならず、日本全体にとっても重要なモデルとなり重用される。そういった反復を期待せずにはいられない。 もう一つ、福島県知事選史の中からエピソードを示したい。 「中央の介入による知事選の混乱」は、福島県にとって初めてのことではない。面積が広く、自民党内でも分裂構造ができやすい土地柄の福島県では、知事候補の合意形成がうまくいかないことが過去2回あった。 一度目は、戦後3代目の佐藤善一郎知事の選定の際である。この時は、労働事務次官をつとめ、後に自民党の大物政治家となる斎藤邦吉氏が自民党から担がれ、公認を得たことに対して野党を結集して、佐藤善一郎氏が立候補し勝利した。二度目は先にも述べた戦後6代目の佐藤栄佐久知事の選定の際で、この時は今回の選挙とも似た形で、自民党中央の意向で県知事候補の選定が行われそうな中で、当時参議院議員だった佐藤栄佐久氏が立ち、知事になった。 これらは、「中央の介入への反発と自らの論理の構築の歴史」と言える。その歴史は、もしかしたら、今回の「中央政界の意向を汲み、多党相乗りで盛り上がらず」と言われ続けた選挙とは、異なる流れなのかもしれない。 そのこと自体は、意図せざる政局のなかで生まれたものであり、致し方のないものだろう。しかし、いま住民が知事に求める大きな期待として、「中央への発言力」がある。それを考えた時に、「中央の介入への反発と自らの論理の構築の歴史」の流れがいかに呼び戻されていくかが、重要になっていくに違いない。 http://diamond.jp/articles/-/61245 |