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2014年10月25日
見出しだけの問題ではない労基法違反は、日本の企業の常識でもある。安倍政権だけが現在の労基法に横やりを入れようとしているわけではない。連合と云う労働組合もどきも、その横やりに半ば与しようとしている。労働組合華やかなりし日々は、遥か遠い世界のおとぎ話のようだ。筆者は、かなりの大企業で労組対応の窓口業務をやらされた経験がある。製造業だったが、会社側も充分に労基法の遵守を気遣っていた。
このような現象は、自由主義的民主主義を標榜する国家に生まれ変わるのだ、と云う気概が、労使ともに存在していたので、成り立つ構図だったのだと、今にして思う。バブル期の頂点では、企業は社員あってなんぼの世界でさえあった。その時、国民の総中流意識も頂点に達していたのだろう。俺たちは、もう労働者ではない、プチブルなのだと思い込む日常があったのである。そうなると、全員の管理職意識が強くなり、資本家は我々の敵と云う観念は薄らぎ、気がつくと、社長も仲間じゃないかと云う倒錯した感覚が蔓延したような気がする。
特に創業者イコール経営者の時代が終わり、サラリーマン社長が増えるに従い、中流階級意識の労働側と経営者だとは思っていないで育った経営者の融和と云うか、糞味噌の区別のつかない労働慣行が、日本の労基法を含む、労働文化の変容を容易にした。それも、誰一人、明確な自覚なしに、その改革は行われたのである。以上は、筆者の経験上肌で知った日本の労働文化の変遷なのだ。しかし、バブル崩壊後、サラリーマン社長ら立場はバブル期同様に維持乃至は向上したが、総中流意志でプチブルに酔いしれていた労働階級は、その地位を低下させた。
20年、30年と経つにつれ、政権の方向性は言葉のイメージ作戦では、勤労者の待遇改善を謳いながら、労働文化の中を上滑りながら日本人の記憶に留まった。しかし、その言葉が持つイメージを、実態に沿って活用できた民間企業は、ごく稀で、官公労・準官公労労働者の特権としてだけ定着した。このような事態は、霞が関官僚らが意図的に企てた戦略ではなく、おそらく、時流に乗っていくうちに、いつのまにか、そのようになったのだろうと思う。
そうなると、何が起きるかと云うと、創業精神のある一部の大企業と官公労関連の職場でしか成立しないような労働モデルがシンボリックにマスメディア取り上げることで、真っ当な企業はそうなんだと思いこむ民間で働く労働者の意識に蔓延するのである。中流の地位から陥落したことは、合理的数値で十二分に証明されているが、彼らの多くは、プチブル階層から陥落させられた自覚を敢えて強く認識しない点が面白い。一時の総中流意識の効用は、想像外の力を発揮し、サラリーマン社長ら経営陣との開くばかりの差異は、自己責任と云う、まったくもって殊勝な心掛けに取った変わる。
儒教精神と欧米近代文化を生半可に吹き込まれ醸成された、明治維新後の日本人の最悪の精神構造は、誰に命じられることなく、自己責任が存在することを、薄々自覚している。このような国民の大多数の意識構造は、期せずして、サラリーマン経営者になれた人々にも伝播し、自己責任で経営陣になった意識にも繋がる。そして、自己責任で、中流階級を陥落した人間を使い回す精神的バックボーンまで共有するのだ。最近、安倍政権がことあるごとに、意見交流の場と銘打つ「政労使会議」などは、典型的に、この労働者の自己責任意識にもとづく象徴的会議である。
まあ、そんなこんなだから、日本の多くの大企業、中小企業などにとって、「マタニティ・ハラスメント」なんてのは、当然なほど当然に起きる現象であって、現場を知っている人間は、あの人たち「自己防衛能力」に欠けているのよ、と思い込む方が多い。残業時間が多い少ないも問題だが、労働協約があるが故に、残業時間は制限され、上司の資質一つで、サービス残業が蔓延するのである。勿論、文句を言いたくても、一人では力不足だが、労組が、サービス残業に目をつぶる傾向も顕著だ。育児休暇などと云う制度も、官公労に所属する職場の竜宮城のようなもので、現実の企業実態に反映している筈もない。
経団連等々の日本企業の経営者と呼ばれる人々に、人間としての哲学が欠如していることは、多くの人々が知っているが、それは彼らが総中流社会での生き残りであり、突然変異した人々だからである。つまり、運よく生き残りに成功したプチブル人種と云うことだ。こういう輩は、時に残酷になれる。バブル期に雇って糞の役にも立たないお荷物中年社員の首切りが自由に出来るツールを欲しがる。労働者が団結することがなくなった総中流時代の精神構造は、生き残り、労組の組織率も低下の一途で、自分を守る方法は自分だけなのだが、その自分さえ、俺は運が悪かった、時には努力や能力が足りなかったと殊勝な気持ちになるのだから、働く人々の人生サイクルは、これからも益々悪化するのだろう。
この悪魔のようなサイクルから抜け出す方法は、おそらく都市文化の中では実現不可能だろう。無論、才能や努力を惜しまず、且つ運命が味方すれば、都市文化の中でワクワクドキドキで生きられる人種もわずかには出てくるが、それは例外に過ぎない。おそらく、都市を捨て、20世紀の人生成功モデルを捨て、21世紀、22世紀的生き方を模索し、そして実行する人々は、年収が少なくても、豊かな時間と空間を得るのだろう。ただ、このユートピアには、それこそ保証は存在しない。それこそが自己責任な生き方になる。しかし、すべての行為が、すべて自己責任であるなんてのは、まったくもって納得できる生き方である。
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